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キャンペーン期間(日本時間)

2014年10月14日(火)0:00~11月17日(月)23:59

1000~1004号まで各1冊ずつ合計5冊購入した方に、特別冊子『週アス表紙集』をプレゼント!
(小冊子はキャンペーン終了後にプレゼントいたします)

1004号まで購入すると特別冊子をプレゼント

週刊アスキー編集部・編集長
宮野友彦
「パソコン好きはかくせない」で
1000のご愛顧ありがとうございます!!

今からさかのぼること25年前の1989年にアスキーからEYE-COMというパソコン雑誌が創刊されました。そして8年後の1997年に週刊アスキーに変身して今に至りますが、1000号というのは、この前身となるEYE-COMの創刊から数えた数字です。

EYE-COMの創刊号は「ワープロ大特集」。特別付録はなんとパーソナルワープロ全78機種カタログ!!ぜんぜんパソコンじゃないところがいいですね。そして172号で週アスに変身して、176号の表紙は全面VAIOの505の写真、200号は真っ赤なコカコーラ号で特集は「Windows98のコツ200」って今と変わらないですね。

というわけで、ここまで続けてこられたのは、読者のみなさまのご支援があってのことと、ココロから超感謝しております。
MS-DOSからMac&Windowsそしてネットにスマホ&タブレットと時代も変わりましたが、常に「デジタル大好き」をテーマとして、これからも超増強していきますので、アスキーへのさらなるご愛顧のほど、よろしくお願いしますう~!!。

週刊アスキー編集部・編集長代理
伊藤有
『米Google本社と突撃取材』

それなりに長いこと編集者をやっていると皆それぞれ面白エピソードがあるもんですね。僕の場合、「思い出」で頭に浮かぶものは……と考えるとやっぱりこのエピソード。
2006年、通関608号で掲載したGoogle本社取材のドタバタ劇です(表紙はこの創刊1000号特設サイトで見られます http://weekly.ascii.jp/the1000/

当時、Googleはまだいまほどは積極的にキャンパス公開をしていなくて、本社訪問というのはなかなかハードルが高く、あまり記事でも見ることはなかった頃。運良く取材許可が下りた!ということでテンション上がりまくりで西海岸の地に降り立ったことを覚えてます。 後日わかることですが、実はほぼ同時期に日経とNHKも取材に入っていて、その成果としてGoogle本とテレビ番組をつくってます。

さて、僕にとっては実はこの取材が海外での初ドライブ。アメリカの地図って日本人には非常に見づらく、レンタカーのGPSナビもかなり癖が強く使い物にならない。いまならスマホで見るところですが、iPhoneはおろかAndroidだって跡形もなかった頃。当然、WiFiルーターもない。ネットに繋ぎたければ公衆無線LANか漏れ電波を探せ!そんな時代(それでもわずか8年前というのが驚きでしょ?)。

ということで、 アメリカ初ドライブのイトーが考えたのは、サンフランシスコ市内からGoogleキャンパスの道順のスクリーンショットをノートPCに撮りためて、助手席のライターさんに人間ナビゲーションをしてもらおうということ。これは割とうまくいき、初めての左ハンドル、初めての右側通行、初めてのハイウェイの恐怖におののきながら、どうにかこうにか、予定の時間にGoogleキャンパスへたどり着きました。

さて初めて訪れるGoogleキャンパスをアテンドしてくれたのは学生のインターンの女性スタッフ。僕らの目的は、すでに飛ぶ鳥を落とす勢いながら謎に包まれた検索エンジン企業、Googleの社員たちの日々の生活を見聞きして記事にまとめること。
社食や、キャンパスの内部や、TGIF(毎週金曜日にラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンの2人と、社員たちが直接議論を交わす恒例行事)の会場などを見せてもらううち、ある場所で警備員に呼び止められます。インターンと真剣な顔で話をしていますが、何やら口調や雲行きが怪しい。

警備員「君は誰の許可で彼ら(週アス一行ですね)を案内しているんだ?」
インターン「私は広報担当なんだけど」
警備員「本当に?知らない顔だな、君のボスは誰なんだ」
インターン「私のボスはxxxxさんよ、そういうあなたこそ、ボスは誰なのよ?」

シリアスな舌戦が始まってしまいました。おそらく当時、訪問者に対する社内ルールやどこまでが公開できてどこからがNGかもあまり決まっていなかったんでしょう。こういう風景は最近のキャンパス訪問ではまったく見ませんが、それくらい企業としてもGoogleが若かったということですね。
結果としては、インターンと警備員のバトルは無事決着し(ボスに電話して解決しました)、まだそれほど話題になっていなかった豪華社食の試食や社員の生活ぶり、社内のジョークなどを色々聴きだしました。たとえば社員(Googler)に対して新人はNewglerと呼んでるだとか、Googleでは「今日はどこか近くで奢ってあげるよ」というのがジョークになってる(Googleでは高クオリティの有機野菜などが無料で食べ放題。大抵、マウンテンビュー近辺のレストランのほうがマズいので、誰も外に食べに行きたがらない)などなど、今でも通用するものですね。
なるほど、Googleってのはすごい会社だな、というのを確認して優雅に帰宅……なんてワケはなく、話は続きます。

まだ夕暮れまでにかなり余裕があったので日本でも話題になり始めていたあるベンチャーに突撃訪問してみようということになりました。
どこだと思います?日本でも動画サイトとして有名になりつつも、これまた謎に包まれたスタートアップ、YouTubeです。当時、YouTubeは登場したばかりですごい勢いで有名になっていて、すでに著作権問題も多数発生しており、さらに投資家から調達したキャッシュが数ヶ月以内に枯渇する(=サービス継続できないのでは?)と報道されるなど、色々な意味で注目が集まっていた時期です。
同社が公開していた住所を見ると、Googleから比較的近い、ハイウェイ沿いのサンマテオ市なわけですよ。クルマで30分少々、これは行ってみない手はない、と。

そして住所に書かれた場所を訪れてみると……大きなビルやお洒落な倉庫を改装したオフィスみたいなものは何もない。あれほど巨大な動画サイトなのに、その住所を信じるならば、ごくフツーの、アメリカの街中にどこにでもある2F建ての何の変哲もない雑居ビルだったんです。
本当にここなのか?ダミー住所ではないか?疑心暗鬼になりつつも、入り口に立っていたガタイの良い黒人警備員に「ここはYouTubeなのか?」と聞いてみました。すると、確かにここがYouTubeのオフィスだという。マジか!サーバー群はどこにあるんだ!驚くとともに、これがシリンコンバレーなんだとも思いました(あとから考えたらサーバーなんて世界のどこかにあればいいわけで、貧乏そうな雑居ビルにオフィスがあってもまったくおかしくないんだけど)。

アポイントを取っていたわけではなかったけれど、ここはその日2回目の正念場です。
我々は日本からやってきた週刊アスキーという雑誌の取材班だ、ずいぶん遠いところからわざわざやってきたので、少しだけでも会ってもらえないか、とかなんとか、むちゃぶりも良いところですが交渉しました。
ワケのわからんアジア人がやってきて、どうやらそのまま穏便に帰りそうにないぞ、という熱意が通じたのか、黒人のアンちゃんは2階に上がっていきました。待つ事20分。 すままなそうな顔をして再び降りてきた彼は、「YouTubeの人たちは会うことができない。ただ、せっかくなので名刺を渡すよ」と言って、広報担当の名刺を手渡してくれました。

まぁ、取材の釣果としてはイマイチだけど、あの謎に包まれたYouTubeまで数メートルのところまで来た!という充足感は相当なものでした。ある意味、Google社内に入ったことよりも無駄な苦労があったぶんのカタルシスすごかったかも。

……というあたりで普通は話が終わりますが、後日談がもう少し。
実は帰国してすぐ、僕はとんでもなく驚かされることになります。ご存知の通り、GoogleがYouTube買収を電撃的に発表したのです。その買収額、驚愕の16億ドル!
彼らからすれば、この巨額の買収劇まであと数日という状況だったわけで、そりゃアポなしのわけのわからないアジア人には会えるはずもないわけだ。
もしここで会えていれば、すごいスクープだったのかもしれないけれど。
というわけで僕の持ちネタ、「俺は歴史的瞬間に立ち会いかけた!」というエピソードでした。

週刊アスキー編集部・副編集長
吉田智之
『私の体を通り過ぎていった広報さんたち』

まず最初に申し上げたいことがあります。この企画の発案者の田中さんはつい最近まで週アスにいて、今はブックウォーカーで働いているんですが、この前ご飯をご一緒したところ、オシャレなイタリアンや小粋な和食屋さんに連れていかれました。昔は鳥貴族一択だったのに。電子書籍なんて最先端のお仕事をしているうちに、ダジャレ満載の特集やふざけたコスプレ撮影をしていた日々を忘れてしまったようで、とても残念に思います。初心に返っていただきたいものです。

さて、週刊アスキーの特集といえば、PCやスマホの製品紹介が定番中の定番ですが、製品の多くはメーカーの広報さんからおかりしているものです。とてもとてもお世話になっております。いつもありがとうございます。

私がまず思い出す広報さんは、今は某K、当時は某Iという会社だった広報の方。当時のIDOさん(言っちゃった)は四ッ谷にあったと記憶しているのですが、いっつもいっつも無理言って「すいません 今日から端末かしてください~」などと無理を言ってご協力いただいておりました。そんなある日、G'zOne、タフネスケータイですね、の第一弾が発売となり、このカシオ製ケータイに惚れ込んだ私は発売日に購入、IDOの広報さんに端末の返却がてら「買いました」と報告にいこうと思ったら、なんと異動されちゃってました…IDOだけに…(ダジャレ)。

次に思い出す広報さんは秋葉原にあった某T・ZONEミナミの広報さん。ダチョウ倶楽部のリーダーにそっくりだったので、私はこっそりリーダーと親しみを込めて呼んでお慕い申しておりました。ある日、週アスの締め切り当日に某社が世界初というシャンパンゴールドの色をしたノートパソコンを発売しました。特にスペックが強化したわけでもなく、製品写真はメーカーさんからいただいていたので、その写真を掲載すればいいやと思っていたところ、当時の鬼副編集長が「シャンパンゴールドってどんな色なんだよ 金となにが違うんだよ 広報写真で済ますとかありえねーだろ 実機を撮影してこいよ 無理なら切腹」とか鼻くそほじりながら命令してきました。上司の命令には完全服従が私のモットーなので、メーカーさんにご相談したところ「限定だから貸し出し機なんかないよーん」とのことで、どうしたもんかと悩み、もしかしたら…とリーダーに電話したところ、なんと!ついさっき入荷したというではありませんか! さらに快く撮影にご協力いただけるというではないですか!
そのおかげで私は切腹せずに済みました。その後、残念ながらT・ZONEミナミさんは閉店となり、広報さんともご連絡が途絶えてしまいました。この件以外にも、いっつもいっつも無理ばっかりお願いしていたにも関わらず、毎回笑顔でご対応いただいておりました。そして、取材の際にお伺いしていたPCショップのお話が、後に週アスで連載していた『パーツのぱ』の着想のきっかけになったのでした。

で、最後が某社の女性広報さん。わりとほぼ毎週なんだかんだでメールやお電話でお話させていただく機会があったのですが、そんなある日、突然「新しいテレビが欲しいので一緒にお店に行ってくれませんか?」っていうメールが!「いつでもいいですよ!」と速攻で返事して、いろいろ調べていたら……それっきりですよ!今ならわかる、あれ、間違いメールだったんだっ!!

週刊アスキー編集部・副編集長
加藤兄
『思い出の特集のコツ1000』

すみません。最初に謝っちゃいますけど、「思い出の特集について書け」って言われてるんですが、まぁぶっちゃけあんまり覚えてないんですよね。過去は振り返らない男なんで。ウソですが。個々の特集ではなく創刊以来の全体的なことで言えば、『ウィンドウズのコツ100』のような、TIPS系のネタをたくさん集めた特集をなにかというと作ってたような気がします。

しかも、こういう数字ってエスカレートするんですよね。『ウィンドウズ98のコツ100』→『ウィンドウズXPのコツ500』→『ウィンドウズVistaのコツ1000』って感じで。たぶん、最高2000までいったはずです。ここで将来パソコン誌の編集者をめざしている若い読者のみなさんに、『〇〇のコツ1000』とかいう特集を作るコツをこっそりお教えいたします。

コツ1.たんなる機能解説もコツのひとつに数えろ。コツ系のネタって、英語でTIPSって言うんですけど、まぁ、秘技とか裏ワザとかそういう意味なわけですよ。で、いくら巨大ソフトであるところのウィンドウズであっても裏ワザが1000個もあるわけでなく、「終了するときはスタートボタンから“Windowsの終了”を選ぶ」みたいな「それ、ただの操作説明だよね」ってネタも採用するのです。あとは文章力の勝負です。

コツ2.ショートカットキーでかさ上げだ。幸いと言うべきかウィンドウズには“Ctrl+Cでコピー”のようなショートカットキーがやたらたくさんあるので、1個1ネタとすれば100ネタくらいはかせげるんです。

コツ3.人海戦術。1人で1000個もネタを出すのは無理とは言いませんが締切もある雑誌制作では現実的ではありません。そこで、チームを組んで記事制作するわけです。編集者はもちろんですが、外部のライターさんや編プロさんをなるべく多く確保します。で、ジャンル分けして、「あなたは画面表示系のネタ100個、きみはレジストリのネタ100個」みたいな感じで手分けしてネタ出しするのです。編集部内では私が1000個ネタ出ししたように見られているフシもあるのですが、そんなことはありません。編集者のみなさまと外部の協力者のみなさまのおかげでできているわけです。

本当はあと997個あるんですけど、あんまり長くなってもアレなんでこのへんで。
でも、重要なのは、こうして本当に1000個とか集めると、読者の誰にとっても何個かは初めて読むネタがあるってこと。我々にとっては「このネタ、別に裏ワザでもなんでもないよなー」って思うことでも、ある人にとっては「へぇ、これは知らなかった! 仕事に使えるじゃん。そして週アス使えるじゃん。」ってなることが多いんです。だから、数を多く集めた特集って結構良いコンテンツになるんですよね。

それからもうひとついいことがあって、こうして何度も何度も必死になってネタを探していると本当に裏ワザを見つけられることもあるんです。たとえば私のお気に入りは、デスクトップ検索でキーワードに“内容:〇〇”って書くと、ファイル名やメタデータでなく、そのファイルの中身に実際に書かれている文章を検索できるってネタですかね。これ、ウィンドウズのヘルプにも載っていない裏ワザです。

編集者がこれまでの思い出を語る?! オレと週アス

週刊アスキー編集部・副編集長
村野晃一
『週アスの黒歴史を暴く』

通巻1000号記念に、週アスの思い出の特集について書けと言われました。そりゃあ、1000号も続けば思い出の数も1000に近い数あるわけですが、特に、と言われると、不思議なもので、思い起こされるのは、すごくうまくいった特集よりも、いわゆる“やっちまった”特集のほうです。

私の担当した特集で、“これはやっちまった!”という意味で真っ先に思い出すのが、メーカー各社の新型パソコンを一堂に集めて紹介する、いわゆる総花特集の1つ。まだ1980年代のパソコンが電子機器の花形だった頃。当時の特集といえば、こういった総花特集を毎号のようにつくっていたので、都度都度見せ方を工夫する必要がありました。写真とスペック表だけ並べていたら、毎号同じような誌面になってしまうからです。そこで私は、先輩編集者から学んだ編集テクのひとつ、「煮詰まったら他誌をパクれ!」を実施すべく、近所の書店に出向きました。“他誌をパクる”とはいっても、ほかのパソコン誌の見せ方をそのまま真似る、というわけではないのです。それは時には女性誌であったり、週刊大衆誌であったり、ファッション雑誌だったりしました。女性ファッション誌の誌面を見ながら、「これをパソコンでやるとしたらどうやるか」みたいな事を考えるのです。

とはいえ、そのときは女性誌を真似たような誌面作りもすでにやってしまって、さてどうしよう、みたいな時期だったので、フラフラといろいろな雑誌のコーナーを見て回りました。そしてついに見つけたのです。パクり元となる雑誌を! それはハーレーダビッドソンとか、ちょっとワイルドな感じのオートバイを扱った雑誌でした。その表紙には、ほぼ半裸な格好のセクシーな外人女性がテンガロンハットを被ってハーレーにまたがってにっこりと笑っていました。

「これだ!」 早速編集部に戻って企画書を書き、半裸の女性が新型パソコンを紹介する、という特集を企画会議でプレゼンしました。まぁ、今冷静に考えたら、何を言ってるんだこいつは、と思われても仕方ありません。そのプレゼンの席では、案の定こう言われました。「何を言ってるんだお前は」。しかし私は引きさがりませんでした。当時の私は若かったのです。若く、熱く、バカでした。でも、当時の週刊アスキーはとてもバカな雑誌でした。まぁ、今でもとてもお上品な雑誌とは言えませんが、今よりもバカ度が深刻でした。そんなわけで、私があまりにも半裸の女性とパソコンの特集について熱く語るもんだから、最終的には、そんなに言うならやってみろと言われ、ついにその特集は現実のものとなりました。

そしてその号が出た翌週、広告部から電話があり、「我が社の新型パソコンを半裸の女性に紹介させるとは何事か!」と、広告をいただいていたクライアントからひどくお叱りを受けたとの報告がありました。そして私も同様に当時の編集チョからひどくお叱りを受けました。クライアントを怒らすとは何事か、と。企画の段階で叱れよ、と思わなくもないですが、まぁ悪いのは100%私です。どうもすみませんでした。その後、そのクライアント様は弊誌に一切広告を入れてくれることはなくなりました。この事件で私が学んだのは、半裸の女性とパソコンは相容れない、ということでした。

そんなわけで、この特集から大した教訓を学びとれなかった私は、それからさほど間を置かずして、次なる特集を手掛けました。それは、某パソコンメーカー、仮にN社としますが、そのN社が満を持してDOS/V互換機を発売する、という特集で、それまでほぼN社製パソコンの一人勝ち状態だった日本のパソコン市場に、AT互換機(DOS/V機)という、安くて国際標準規格を持ったパソコン勢が押し寄せて来た時期で、さすがのN社もこの黒船のもたらした潮流にあがらえず、DOS/V互換機を発売する、といった流れで組まれた特集でした。

とはいえ、その特集自体は私の担当ではなく、私は、その特集の中の一企画“N社のDOS/V互換機は買いか?”と題した座談会記事の中で、「N社製のDOS/V機を買うのは時期尚早、待ちだ!」と言い放ちました。これがそのまま誌面に掲載され、その号が出た翌週、またしても広告部からの電話で、「我が社が満を持してリリースしたDOS/V機を買うのを待てとは何事か!」と、N社様よりお叱りを受けたと報告があり、またしても私まで叱られることとなりました。この特集は私の担当特集ではないのに、座談会に出席して、思ったことを口にしたら怒られました。やべーと思ったら誌面にする前に私の発言を削ってしまえばよかっただけだと思うのですが、まぁ悪いのは100%私です。どうもすみませんでした。そんなことがあったにも関わらず、流石N社は当時のパソコン業界をけん引していただけのことはあり、広告を引き上げたりはしませんでした。その代わり、その後の号で32ページのN社単独特集が組まれ、私もその特集のメンバーに組み入れられヒーヒー言うことになりました。

とはいえ、32ページもページがあると、いくら全盛を誇ったN社のパソコンを網羅してもうすべてを埋められるわけもなく、後半のページでは、当時のN社の主力パソコンの型番から、98の主題歌とか、キューハチ君というキャラクターを勝手に作って、それを持ってN社にプレゼンに行く、というような企画でお茶を濁し、誌面を構成するという暴挙に出ました。また怒られるかも……とも思ったのですが、意外にもこの特集はN社の方にも気に入っていただけ、事なきを得ることができました。この2回の事件を経て、ようやく私が学んだのは、クライアントを怒らせると自分も怒られる、ということでした。なんというか学習能力が犬並ですが、当時の私は若かったのです。若く、そしてバカでした。

とまぁ、思い出の特集を語るコーナーであるはずなのに、なんだか懺悔コーナーのようになってしまいましたが、これもひとえに、思い出の特集を語ろう、などという企画を考え付いた田中(仮名)という男のせいです。当の田中(仮名)の若いころの特集はといえば、CPUクーラーの特集にヒヤシンスの花のビジュアルを用いるなど、一見して読者がキョトンとするようなものが多かったように思います。おわかりでしょうか。CPUを冷やすクーラーの特集でヒヤシンス……。そう、ダジャレです。バカにしか思いつかない発想です。この特集には私が副編として関わりましたが、その説明を聞いて納得し、そのまま誌面に掲載しました。これならクライアントには怒られないので、私も怒られないと判断したからです。この例を見てもわかる通り、週アス編集部は代々若いバカが支えてきた歴史があります。週アス編集部では、これからもバカな企画をバカなりに一生懸命つくっていきたいと思っております。今後ともバカな週刊アスキーをよろしくお願いします。

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