こんなに日本を愛してくれる人たちがいるだろうか…日本人であることを誇りに思い、日本人として生きた台湾人女性が証言する、当時の日本人像。
「日本人は、日本人であることを大いに誇っていいのです。昔の日本精神はどこにいったのですか! 私はそう叫びたいです」終戦まで日本人として生きた台湾人著者から日本人への熱いメッセージ。
著者紹介
楊素秋(ヨウソシュウ)
日本名、弘山喜美子。昭和7(1932)年、日本統治下の台湾、台南市生まれ。弘明電気商会を経営する父:弘山清一と母:敏恵のもと、二男三女の二番目(次女)として生まれる。台南師範学校附属国民小学校、長栄女学校(中学、高校)卒業。日本をこよなく愛した父の影響で、日本人と自覚して育つ。今も、思考する時も、寝言も日本語。日本と台湾の架け橋の釘1本となりたい、と、貿易、通訳、日本語教師など、多方面で活躍している。
(c)Sakuranohana Shuppan Publications Inc.2016
「朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません」
本書のロングインタビューで日韓併合当時を熱く語ってくれた証言者の西川清氏(2016年現在、101歳)が、安倍首相への手紙で語った言葉である。(本書に収録)
西川氏は、約80年前の日韓併合時の朝鮮において、朝鮮人の知事が統括する地方行政で内務課長を勤めていた。インタビューで西川氏は、朝鮮を第二の故郷と呼び、かわいがってくれた朝鮮人の上司や同僚のことを、朝鮮から必死に持ち帰った貴重な写真を見ながら昨日の事のように熱く語った。
西川氏は、数々の虚偽で日本の尊厳が汚される現状に義憤を覚え、安倍総理へ次のような手紙を書いたのであった。(本書より一部引用)
拝啓 安倍内閣総理大臣殿
日夜国事に精励されている総理大臣に対し、名もなき一介の老耄がお手紙を差上げるご無礼をお許し下さい。
私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。 結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません。
<取材記>より
日韓併合の実態を行政側から解説できる朝鮮総督府官吏としての証言はおそらく西川氏が最後であろう。 他に朝鮮で生活した方がいたとしても終戦時は幼少であったり、当時を知る家族から伝え聞いた話が殆どになる筈である。それは一つの貴重な体験ではあるが、「朝鮮総督府の施政がどういうものであったか」という視点で語ることは難しい。だからこそ、この元官吏である西川氏の証言及びその写真、資料は日韓併合時の実態を知る上で貴重な記録である。ここに証言されている内容は、戦後教育を受けた人にとっては、驚きであるに違いない。取材に於いて西川氏は、朝鮮のごく平穏な生活と日常に触れ、そこで語られるのは幸せな朝鮮人と日本人の姿であった。また、貴重な写真からも朝鮮人と日本人とが普通に仲が良かったことが分かる。朝鮮人が日本人の上司になることも普通であり、職場の仲間と日朝合同の野球チームを作り他のチームと戦ったり、時に桜の下で酒を酌み交わした楽しい想い出も多く、朝鮮人と日本人は共に朝鮮の発展を願い職務に精励していたという。まるで現代社会と変わらないような錯覚を覚えるが、正にこれが歴史の真実である。
1,430円〜1,540円(税込)
こんなに日本を愛してくれる人たちがいるだろうか…日本人であることを誇りに思い、日本人として生きた台湾人女性が証言する、当時の日本人像。
「日本人は、日本人であることを大いに誇っていいのです。昔の日本精神はどこにいったのですか! 私はそう叫びたいです」終戦まで日本人として生きた台湾人著者から日本人への熱いメッセージ。
著者紹介
楊素秋(ヨウソシュウ)
日本名、弘山喜美子。昭和7(1932)年、日本統治下の台湾、台南市生まれ。弘明電気商会を経営する父:弘山清一と母:敏恵のもと、二男三女の二番目(次女)として生まれる。台南師範学校附属国民小学校、長栄女学校(中学、高校)卒業。日本をこよなく愛した父の影響で、日本人と自覚して育つ。今も、思考する時も、寝言も日本語。日本と台湾の架け橋の釘1本となりたい、と、貿易、通訳、日本語教師など、多方面で活躍している。
私が生まれたのは日本統治時代の台湾です。平和で安定した社会でした。
教育は行き届き、町は綺麗で、泥棒も少ない、とても暮らしやすい社会だったのです。
それが一九四五年、戦争の終結で全てが変わってしまいました。国籍が、それまでの日本人から中国人へと変わり、日本の教育を受けた私達よりも遥かにレベルの低い中国人が台湾を統治するようになったのです。
彼らは、過去の日本統治は全て悪であると、全くの嘘を宣伝し始めました。そうやって日本を否定し、台湾を中国の支配下に置く計画でした。
しかし、台湾に住んでいた五十万人の日本人が帰国しても、残された六百万人の台湾人はそう易々と変えることは出来ませんでした。二年後の二・二八事件がその証です。出鱈目な統治に耐えきれなくなり、台湾人が抗議に立ち上がったのです。しかしながら、外来政権が徹底的な虐殺と弾圧を行い、その後の白色テロの時代も合わせると、三万人とも、それ以上とも言われる自国民が殺されるという悲劇が起きたのです。
幸いにして私達は子供の頃、教育勅語と武士道の躾の中に育てられました。この教育が苦しい時代にあっても、私の一生の助けとなりました。本当に過去の日本の教育は立派でした。
戦後、日本人が帰国してしまっても台湾に残った私のような日本語族を「帰らざる日本人」と人は呼びます。
日本の教育を受けた私達の世代は、その日本精神によって、台湾をより良い国にしていく義務があると思って頑張っています。日本の若い人も、私の体験に耳を傾けて、昔の日本の素晴らしさにきちんと気付いて欲しいと思います。台湾と日本が、共に昔のような素晴らしい国になってくれるのが私の願いです。(はじめにより)
●著者略歴
蔡敏三(さいびんぞう)
大正14 (1925) 年、台湾・嘉義生まれ。土木技師として台南州庁勤務の父:蔡天助と母:黄氏怨の二男一女の長男として生まれる。台北工業学校在学中の16歳の時に父を亡くし卒業後は大黒柱として一家を支える。第二回海軍特別志願兵に召集され敗戦までの1年半の間海兵団生活を送る。染料工場勤務の後、建築士として活躍。敗戦後の大変な時を日本精神とキリスト教を心の拠り所として乗り切った。現在も日本の書物で熱心に勉強している。辛口の人柄から日本に対して厳しい言葉もあるが、それも日本を愛するが故である。
<本文より>
学徒兵として出陣する朝のこと…
そして人員が揃い、校長先生から訓話を頂きました。
「戦局は非常に厳しい状態になり、軍は諸君の意気と若さに期待するところ甚だ大である…」
続いて、「しかし、学業半ばの諸君を戦闘に送り出すのは…不本意だけれども…」と言葉を続けられましたが、その声は次第に嗚咽に変わり、先生はそれを抑えながら、「…国の為、頑張ってください。…そして、風邪を引かないように…、…身体を大事にしてください…!」と、まるで慈父が我が子を送り出すかのように我々の身を案じ話してくださいました。
私は今でもこの時のことを思い出すと、気持ちの昂りを抑えることが出来なくなります。
<あとがきより>
確かに昔の日本人は素敵でした。本当に素晴らしかったのです。一日も早く、我々が土に戻って行く前に、そうした日本に戻れるようにして貰いたいと、心からそう願います。
どうか、折角の「好日」台湾を、「抗日」台湾にしないでください。それは日本という国を生かし、守っていく道ともなります。
これが私の言いたいことでもあり、願いの全てであります。
<著者>
楊應吟 (よう おうぎん)
大正15(1926)年、台湾台南市生まれ。父・楊阿才氏の教育方針により日本教育を受け、台南末広公学校卒業後、高雄工業学校入学、3年在学時に学徒出陣、終戦を迎える。戦後、中国教育の下、台南私立長栄中学校高級部を経て、省立工学院(現国立成功大学)建築工程学系を卒業。経済部聯合工業研究所にて数々の研究成果を上げ、台湾の建設に貢献。その後鍼灸の道に進み、針を刺さない“無針バリ療法”を考案、台北にて弘明堂鍼灸院を開業、この道30年の治療実績を持つ。全日本鍼灸学会正会員。治療を介して台湾と日本の民間交流にも活躍。2019年6月、多くの人々に惜しまれながら94年の生涯を閉じる。
古き良き日本時代の台湾で育ったかつての少年兵が「日本へのご恩返しに」と語った日本の本当の歴史
大東亜戦争末期の台湾。
日本は苦戦を強いられ、当時日本だった台湾への米軍上陸も間近と予想されていた。
その台湾で、内地の学徒兵と同様、まだあどけなさの残る
15歳、16歳の学生たちが祖国を守ろうと立ち上がった。
ある者は志願して、ある者は召集令状を受け取って。
皆が抱いたのは「僕たちがやらなければ、誰が国を守るのか!」という悲しくも強い想いだった。
平和しか知らないあなたに読んで欲しい
国とは戦争とは、人間とは、
そして生きるとは何か
<目次より抜粋>
第一部 日本統治時代の語り部として-蕭錦文氏の証言
第二部 私は今でもサムライです-許江陶氏の証言
第三部 終戦間際の北京は平和だった-李延益氏の証言
第四部 十五歳、命の覚悟-郭鏡川氏の証言
【証言者紹介】
◆蕭錦文
大正15年、台北生まれ。4歳で父が他界し祖母の元で育てられる。14歳の時、義勇志願兵に志願し合格。シンガポールに駐屯した後、ビルマに転任、プノンペンで終戦を迎える。戦後、台北で新聞社在勤中に二・二八事件が起き、弟を銃殺刑で亡くす。自身も捕らえられ拷問の末、処刑寸前で助かる。現在は台湾総統府や台北二二八紀念館にてボランティアで日本語ガイドを務める。
◆許江陶
昭和2年、高雄生まれ。高雄工業学校在学中に学徒兵として出征。分隊長を務める。終戦は高雄で迎える。二・二八事件で兄と義兄を亡くす。復員後は高雄港務局に勤務する。台湾の国家公務員の多くは国民党に加入する中、反国民党の立場を貫く。楽しみは日本のNHK大河ドラマ鑑賞。戦国武将や侍の生き様に共感している。
◆李延益
昭和2年、台南生まれ。高雄工業学校在学中に「陸軍特別幹部候補生航空兵」の試験に合格。1944年7月に青森の陸軍航空学校八戸教育隊に入隊し、翌年5月に北京へ派遣される。3ヵ月後に終戦を迎える。除隊後、難民となり北京、上海に滞在後、翌年5月に台湾に帰還。復員後は高雄港務局に勤務し主任土木技師として活躍。
◆郭鏡川
昭和4年、台南生まれ。高雄工業学校在学中に15歳で学徒兵として出征。寿山で爆撃に遭うが一命を取り留める。戦後、肥料会社や鉄鋼メーカーに勤務した後、フリーのインテリアデザイナーに転身し活躍。引退後は悠々自適な修養の日々を送る。読書家であり自然科学、脳科学、仏教、芸術、文学にも造詣が深い。
<目次>抜粋
第一部 私は今でも親日家です-ユスフ・ロノディプロ氏の体験
誇りの持てなかったオランダ植民地時代
戦時中に見た日本人たち
インドネシア独立のための戦い
第二部 日本軍との出逢いと私の人生-ハッサン・ラハヤ氏の体験
オランダ支配下の子供時代
日本の兵隊さんたちとの出会い
日本語を習い軍政監部へ
南方特別留学生として日本に渡る
広島で被爆する
戦後再び大学へ進学する
帰国後インドネシアと日本の架け橋に
アジアの解放は日本によってもたらされた
第三部 日本軍政下で愛国心を育てた-プロボ・スウォンド氏の体験
第四部 日本軍の占領は幸運だった-スリオ・ウィリオハディプトロ氏の体験
第五部 スカルノ大統領は日本人を尊敬していた-ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ氏の証言
日本人は誇りを取り戻さなければいけない
【証言者】年齢は発刊当時
◆ユスフ・ロノディプロ氏
1919年生まれ。戦争中は日本の軍政監部宣伝部やラジオ放送局に勤務。日本の敗戦直後にインドネシアの独立宣言文を密かにラジオ放送したために日本軍憲兵に殺されかかる。独立後は各国インドネシア大使を歴任。86歳。
◆ハッサン・ラハヤ氏
1922年生まれ。戦争中は日本の軍政監部人事課に勤務。南方特別留学生として来日中に原爆に被爆。帰国後は日イの貿易に従事し国会議員、最高諮問会議議員を歴任。日イ親善に尽くす。2005年旭日中綬章を受ける。83歳。
◆プロボ・スウォンド氏
1927年生まれ。高校生の時に大東亜戦争が始まる。16歳の若さで日本軍が設立した郷土防衛義勇軍に参加し小団長となる。インドネシア独立戦争中はゲリラ隊として活躍。インドネシア国軍中将。国連大使。78歳。
◆スリオ・ウィリオハディプトロ氏
1917年生まれ。オランダ系電気会社勤務中に大東亜戦争が始まる。郷土防衛義勇軍に参加し小団長となる。独立戦争中は軍司令部で戦闘を指示。インドネシア国軍大将。89歳。
◆デヴィ・スカルノ氏(デヴィ夫人)
1959年スカルノ・インドネシア共和国初代大統領と結婚。大統領の政治理念を補佐し日イの相互扶助に貢献。大統領亡き後も社交界にて華やかな話題を振りまきつつ、インドネシアで事業を行い、更に国連環境計画基金のための募金、アジア先住民の権利と生活の促進に必要な種々の援助や寄付活動等を行う。日本でもテレビ出演、講演会等で活躍、日本の誇りを復興させようと尽力している。
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