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文芸

前九年・後三年の群像

著者
川村一彦

あらすじ・内容

前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対する一族の不満があった。同年陸奥として赴任して

作品情報

シリーズ
群像
著者
レーベル
歴史研究会
出版社
歴史研究会
カテゴリ
文芸・小説
ページ概数
392
配信開始日
2019/9/18
対応端末
  • PCブラウザ
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文芸 三好長慶の群像

著者: 川村一彦

「三好長慶」(1523年~1564年、戦国の武将、父は三好元長。1523年(天文元)主人の細川晴元と対立した父は一向一揆に包囲され堺で敗死したが、長慶は1534年晴元と和して被官となり摂津国越水城に拠って反晴元勢力と戦った。その後、叔父政長との対立を機に晴元と決裂、1549年敗れた晴元が将軍足利義輝と京都を脱出する細川氏綱を擁し上洛、事実上京都を支配した。1552年近江国の守護六角義賢の斡旋により和議がなり、義輝は帰京したが、翌年和議を破って挙兵した義輝を追放、摂津国芥川城に本拠を移した三好政権の絶頂期を迎えた。長慶は管領・管領代制というとうじの室町幕府の支配体制を否定し、自ら裁可を行った。しかし、1558年(永禄元)義輝を再び帰京させるをえず、弟十河一存(?1561)の病死、三好義賢(1526年~1562年)の戦士が相次ぎ、家臣勝永久秀が台頭し、嫡子義興も不慮の死を遂げる中、失意のうちに河内国飯森山で病死した。

価格

220(税込)

200円 (+消費税20円)

「群像」シリーズ作品一覧(全117冊)

220円〜330(税込)

  • 文芸 武田一族の群像

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。 しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。

    価格

    220(税込)

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  • 文芸 上杉一族の群像

    中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。

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    220(税込)

    200円 (+消費税20円)

  • 文芸 今川氏一族の群像

    今川氏は南北朝時代から戦国時代の足利氏の一族の守護、戦国大名。吉良長氏の次男国氏が三河国幡豆郡吉良荘今川【現愛知県西尾市】を領した。国氏の孫今川範国は、元弘・建武の動乱期に足利尊氏に従い、駿河・と遠江両国の守護に補任され、今川氏の発展に基礎を作った。その次男今川貞世(了俊)は九州探題などして室町幕府の確立に尽力し、それ以降は代々駿河国守護として室町幕府の鎌倉府監視の重責を担い、上杉禅宗の乱、永享の乱、結城合戦では幕府軍の先鋒として活躍した。応仁・文明の乱で、義忠は東軍として、遠江国守護斯波と戦い勢力拡大に努めたが、今川氏親の代に戦国大名へ脱皮を遂げた。その子今川義元はさらに三河を支配下に置き、駿府(静岡)を中心に全盛期を迎えたが、永禄3年(1560)織田・徳川氏の桶狭間野戦いに敗れ、その子今川氏真の尽力も及ばず、武田・徳川氏の侵攻で滅亡した。江戸時代には高家として存続した。

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    220(税込)

    200円 (+消費税20円)

  • 文芸 細川氏一族の群像

    細川氏は、足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曾孫義季が鎌倉中期に三河国額田郡細川郷を本領としたのが始まりと言う。義季の曾孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄妹の顕氏・定禅・皇海兄弟は足利尊氏に属し近畿・四国などで軍功を積み一族で数カ国の守護になった。和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが失脚し、頼春の子頼之は管領幼少の将軍義満を助け、幕府権力の確立に努めた。嫡流の当主はは、頼之の弟で養子の頼元を以降代々右京大夫に任じられ、京兆家と称され、幕府管領及び摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲した。庶流の内五氏はそれぞれ和泉頼春の孫頼長が和泉上守護家、基之が和泉下守護家として共同統治し、阿波・淡路・備中の守護を世襲した。その後、管領勝元は山名持豊(宗全)と対立し応仁・文明の乱を引き起こした。その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。以来一族・家臣の分裂抗争が続き、家臣の阿波三好氏の台頭を招き、永禄四年(1561)細川晴元が三好長慶に降り、京兆家は没落した。江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉上守護家の細川基常の甥で養子の藤孝(幽斎)より興る。藤孝は故実・歌道に通じ、足利義昭・織田信長に仕え、丹後田辺城主となった。その子忠興は信長・秀吉に・家康に仕えて軍功を重ねた。忠興の子忠利は熊本54万石を領し、子孫がこれを世襲した。

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    220(税込)

    200円 (+消費税20円)

  • 文芸 畠山氏一族の群像

    畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。 畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・

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    220(税込)

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