『アレクサンドル・デュマ、401円~500円(文芸・小説、実用)』の電子書籍一覧
1 ~13件目/全13件
-
あらすじ
桃山時代の大阪。豊臣秀吉は大阪城を築城した。淀川に浮かぶ大阪城、その郭の一角に男子禁制の姫櫓があった。
第一幕
大阪城下、森之宮神社近くにある西蔵の居酒屋の内部。人夫たちが淀川から上がる奇怪な水死体の噂をしているなか、大阪に出てきたばかりの若武者立原日之介が親友の住吉時之介に宛てた手紙を書いている。人夫たちが時之介を孤児呼ばわりしたことに腹をたてた日之介が、彼らと一戦交えているところに偶然来た大野治長が助太刀して両者を引き分ける。
第二幕
関白殿下の入城にあたり、城下でその準備が行われている最中、またもや二人の土左衛門が打ち上げられた。淀君は城下にいた陰陽師を呼んで占いをさせると、太政大臣の丸川安之丞の三日後の死を予言する。時之介には日之介がその土左衛門の一人だと言う。さらに、淀君には日之介を殺させた犯人だと暴露する。日之介が血で真犯人の名を書いた書付は時之介に渡した。それを脅しのタネに、治長は太政大臣になって淀君と二人で天下を治める野心を実現したいのだ。
第三幕
第一景
大阪城は開門の時刻を迎えてもまだ閉じたままである。そこに侍を従えた治長が登場して丸川安之丞の身柄を拘束する命令書を読み上げる。潔く縄につく丸山の高潔さに打たれる治長が今度は捕縛される番であった。
第二景
治長が牢屋に縛られている。勝利を味わうために淀君が見にくる。治長は淀君に最後に昔話を聞くことを所望する。秘密の話をした治長は牢屋を出て関白の次の位にまで上り詰めることに成功する。
第四幕
時之介に固執する淀君に対して、治長は最後の賭けに出る。姫櫓で関白の目を盗んで逢い引きをしてくれれば、手紙を返して淀君の不安のタネを取り除こうと約束する。淀君は手下に命じて忍び込んでくる男を殺せと命じる。一方、治長は淀君の失脚を望んで前川に命じて姫櫓にいるすべてのものの逮捕を命じる。
第五幕
姫櫓で淀君は逢引に来る者の殺害を命じていると、その治長が入り口ではなく窓から侵入してきた。治長が淀君に時之介が自分たちの子どもであることを告げると淀君は狂乱する。 -
アレクサンドル・デュマの最も一般的な略歴は以下である。
1802年フランスのヴィレール・コトレ生まれ。
19世紀フランスを代表する作家の一人。幼少よりラテン語、古典文学を学び、17歳で『ハムレット』を観て劇作家を目指す。20歳でパリに出た後、『アンリ三世とその宮廷』、『クリスティーヌ』の大成功によって劇作家としての地位を得る。その後も数多くの劇作を発表し続けるが、フランス・ロマン派の影響を受け、徐々に歴史小説に移行する。1844年、「ル・シエークル」誌に連載された『三銃士』が爆発的な人気を得た他、『王妃の首飾り』、『黒いチューリップ』などの大作を世に送り出す一方で、革命に積極的に参加するなど当時のフランス国内に多くの影響を与えた。晩年はフランス、ベルギー、ドイツ、オーストリアなどを転々としながら創作活動を続け、1870年、ピュイの別荘にて死去。
主な作品は、『三銃士』、『二十年後』、『モンテ・クリスト伯』、『王妃マルゴ』、『王妃の首飾り』、『黒いチューリップ』など多数。
もちろん、フランス文学史がロマン主義を避けて通ることができないかぎり、デュマに触れないわけにはいかないが、ヴィクトル・ユゴー、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ウ゛ィニーなどと比較すると、デュマは明らかに挿話的な扱いしか受けないのが普通である。しかし、2002年11月、ついにアレクサンドル・デュマの亡骸が国葬としてパリのパンテオンに移され、国民作家の列に加わったのだ。
一般に日本でのフランス・ロマン主義の研究は手薄だが、なかでもアレクサンドル・デュマについての研究は皆無に等しい。デュマと言えば『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』といった大衆娯楽作品の印象が強く、また数知れない代作者を使ったという理由で悪名も高い。また、その作品の全体について正確な総数すらわからないほどのいわば濫作者であったからよけいに始末が悪いのかもしれない。いったいどれだけ作品を出版したのだろうか。
カルマン・レヴィー出版社が1902年に出したアレクサンドル・デュマ作品総カタログによる作品分類は以下の如くであった。1)歴史小説および歴史研究128作品218冊。2)個人伝41作品、64冊。3)回想録、閑談9作品、11冊。4)少年少女物語5作品、6冊。5)旅行記18作品、35冊。6)戯曲66作品25冊。以上合計271作品、359冊(若干数の作品は重複の可能性がある)。シャルル・グリネルの『アレクサンドル・デュマとその作品』ではカルマン・レヴィー版全集で298作品142巻という数字を出している。Webサイトで検索すると688作品がリストされていて、270作品とか289作品とかをはるかに超えた多作家であることは間違いがない。ジャンルも小説、伝記、回想録、おとぎ話、旅行記そして戯曲と多彩である。
≪Elle me resistait, je l’ai assassinee!....≫
「俺を拒んだ、だから殺したのだ!」
有名なこの幕切れの台詞と共に、愛人アデルを殺した暗い目付きの主人公アントニーは、1831年以後しばらくの間フランスの若い世代を席巻した。1831年5月3日ポルト・サン・マルタン座で初演された『アントニー』は、当時の上演事情から見ると異例としか言いようのないほどの連続上演記録を作った。「このドラマはパリで連続131回上演された。内訳はポルト・サン・マルタン座で100回、オデオン座で30回、イタリアン座で1回である。そればかりか、またフランス中で巡回公演され、その年1831年は非難ごうごうであったが、1833年から1837年までは大成功を収めた。
今日のわれわれから見るといささか大時代なこの姦通劇が、どのように着想され、どうしてこのような熱狂的な反響をもたらしたのであろうか。 -
『三銃士』(ダルタニアン物語を含む)や『モンテ・クリスト伯』を始め『王妃マルゴ』、『モンソローの奥方』、『黒いチューリップ』などの小説で世界的な文学者となったアレクサンドル・デュマは、最初、劇作家としてデビューしたという事実は意外に知られていません。今回、デュマの劇作品の中でも傑作の呼び声が高い『ネールの塔』をお届けします。フランス王妃とビュリダンとの権力と知力の戦い、尊属殺人、嬰児殺し、近親相姦、恐るべき人倫の蹂躙を舞台にのせた作者の勇気と革命と戦争を通じて権力に潜む非人間性を知ったためにそうした表現を受け入れることができた観客を感じていただければ幸いです。
ネールの塔にまつわる歴史は次のようなものでした。
中世の物語、特にネールの塔の伝説的な物語は当時流行であった。史実では、女王マルグリット・ド・ブルゴーニュ(1290-1315)と義妹のブランシュは、それぞれフィリップ・ドルネとゴーティエ・ルネという兄弟を愛人にし、モービュィッソンの修道院で逢い引きをしていた。1314年、四人は密告されてルイ強情王と呼ばれたLouis Xの命令で全員逮捕された。一人の若者は尋問によって自白(しかし、裁判の一切が秘密であったために、すべて憶測の域を出ない)し、拷問の果てに死んだ。1315年4月のことであった。1322年、女王は、伝説の語るところでは、1315年4月30日王の命令によりシャトー・ガイヤールで絞殺されて死んだ。ブランシュは1322年解き放たれ、僧籍に入り、モービュイッソンの修道院に赴いて翌年そこで死んだ。この姦通を手引きした端役たちは死刑か、または逃亡した。さらに二番目の義妹ジャンヌは一旦告発されたが、身の潔白を証明することに成功した。これがこの事件にたった2頁しか割いていない同時代人のド・ナソジの『年代記』の継承者が教えてくれるすべてである。ネールの塔がフィリップ美男王の嫁たちの放蕩三昧(ほうとうざんまい)の本山であり、一夜限りの愛人の死体を翌朝セーヌ川に投げ落とさせたという、これといった根拠もない一つの伝説が生まれたのはかなり古いことである。これらの情夫のうちビュリダンなる人物が問題である。事実、ビュリダンという人物はどこにも見当たらないうえに、さらにもっと可能性が薄いのはパリ大学の総長であった哲学者ジャン・ビュリダン(1290-1358頃)がマルグリット・ド・ブルゴーニュの愛人であったということである。様々な伝説がジャンヌ・ド・ブルゴーニュあるいはマルグリット・ド・ブルゴーニュとの関係を彼に負わせ、その二人のどちらかが(ヴィヨンが書いているように)彼を袋に入れてセーヌ川に投げ入れ、そのために死んだかどうかは様々な異本がある。ブランドームはその『艶婦列伝』のなかで有罪の女王のことには触れることなく、ネールの塔における王家の血みどろの乱痴気騒ぎの伝統について言及している。
これを題材にしてフレデリック・ガイヤルデという若者が脚本を書きました。着想はよかったが、劇場に上げるまでではなかった原案をロマン主義演劇の傑作に仕上げたのがアレクサンドル・デュマでした。熱狂をもって受け入れられた『ネールの塔』はその後、著作権を巡るガイヤルデによる執拗な訴訟が作者2人の死後まで続く因縁の作品でもあったのです。『ネールの塔』に付けた解説では、この問題を詳細に説明しています。お楽しみ下さい。 -
『二月二十四日』はアレクサンドル・デュマが1850年にゲテ・リリック劇場で上演した「1幕ドラマ」である。デュマは100作を超える台本のうち、この劇についてだけ、極めて例外的に「Z・ヴェルナーによるドイツの戯曲から模倣」という断り書きをつけている。フリードリヒ・ルートヴィヒ・ザカリアス・ヴェルナー(1768 – 1823)は、ドイツの詩人であり、劇作家、説教者でもあった。物語は、一九世紀初頭の極寒のスイスの山の宿である。多額の借金で訴追された宿屋の主人クンツと妻ガートルードは、翌朝、刑務所に収監される最後の夜を過ごしている。時は二月二十三日の深夜、明日は運命の二月二十四日である。その時、長い間帰っていなかったこの土地の出身の若者カールが一晩泊めてほしいと入ってくる。薪もない宿は自分たちの寝室の間仕切りしかない小部屋を提供することにした。クンツは金だけ取ろうと小部屋に忍び込むが、若者に騒がれて短刀で殺してしまう。パスポートを確かめると逐電した自分たちの息子だとわかる。カミュの『誤解』への影響もあると言われる戯曲の初訳である。デュマはヴェルナーの『二月二十四日』の舞台になったスイスのシュヴァルトバッハの宿屋にみずから行った。『スイス旅行記』の中から「ゲンミ山」を収録したのはそのためである。
-
一般に日本でのフランス・ロマン主義の研究は手薄だが、なかでもアレクサンドル・デュマについての研究は皆無に等しい。デュマと言えば『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』といった大衆娯楽作品の印象が強く、また数知れない代作者を使ったという理由で悪名も高い。また、その作品の全体について正確な総数すらわからないほどのいわば濫作者であったからよけいに始末が悪いのかもしれない。いったいどれだけ作品を出版したのだろうか。
カルマン・レヴィー出版社が1920年に出したアレクサンドル・デュマ作品総カタログによる作品分類は以下の如くであった。
(1)歴史小説および歴史研究128作品218冊
(2)小説、短編、個人伝 41作品、64冊
(3)回想録、閑談九作品、11冊
(4)少年少女物語五作品、6冊
(5)旅行記十八作品、35冊
(6)戯曲66作品25冊。以上合計271作品、359冊
アレクサンドル・デュマ協会のウェブサイトでは325作品がリストされている。また、個人のデュマ愛好家が作っているサイトによれば、すべての作品を取り混ぜて688作品としている。
「誰もが皆デュマの話は聞いたことがあるし、彼の作品の何冊かは読んだことはあるが、彼の才能の大きさを意識している人はごく少ない。『アンリ三世』から一夜明けた日の彼の栄光はたくさんの妬み屋のしつこい中傷をひき起した。彼らの言を信じれば、デュマは先人を剽窃し、代作者たちに自分の作品を書かせた無知無学の人間ということになるだろう」(フェルナンド・バッサン)
「『アンリ3世とその宮廷』を研究した人間はデュマの公式が一挙に分かる。彼はまことに多様な戯曲を書く。ところが本質的なものは最初の戯曲『アンリ三世』にある。つまり、民衆的な登場人物、地方色、変化、アクション、情念があるのだ。」(イポリット・パリゴー)この戯曲は、デュマ最初の本格的な五幕散文ドラマであり、スタンダールの理想の実現でもあり、ヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』に先立つこと1年、ロマン主義演劇の最初の勝利を獲得した記念碑的作品でもある。
時は1578年7月20日のことである。フランス国王アンリ3世の母、フィレンツェから亡き国王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスと占星術師ルッジェリは、アンリ3世の寵臣サン=メグランがギーズ公爵の夫人に恋い焦がれていることを利用して、サン=メグランとギーズ公爵の両方から気弱な国王への影響力をそごうと画策する。カトリックとユグノーの殺し合いの宗教戦争の只中で、後にアンリ4世になるナヴァール王アンリを加えて3アンリの戦いと言われる時代である。ルッジェリは眠り薬で眠らせたギーズ公爵夫人とサン=メグランを引きあわせて二人が両思いであることを悟らせる。
新教徒に対抗するカトリック同盟の盟主に自らなって、次期国王の座も狙おうとするアンリ・ド・ギーズのカトリック同盟に盟主の任命という性急な要求に、ブロワの三部会まで待てと諭すアンリ三世。事態は切迫していると反論するギーズ公。甲冑で登場したギーズ公が弾丸が飛んで来ても正面で受けてみせようと豪語するのを、サン=メグランが吹き矢筒でボンボンを命中させる。怒りに燃える両者の間で決闘が決まる。
怒りに任せたギーズ公爵は鉄の籠手で青癒ができるほど夫人の腕を締め上げ、無理強いにサン=メグラン伯爵をギーズの館におびき出す偽手紙を口述させる。
一方、宮廷ではカトリック同盟の盟主の任命決議に入り、「余の権威において余自身を盟主と宣言する」と自ら盟主になることを宣言したアンリ3世。ギーズ公爵はカトリーヌ・ド・メディシスに何事か訴えようとするが、アンリは早く署名せよとダメ押しをする。第1の企みは失敗に終った、埋合せはつけてやる、憤怒のなかで署名するギーズ公の前で会議の閉会が告げられる。
半信半疑でギーズ公爵夫人の元に忍んできたサン=メグラン伯爵は来ないようにと祈る夫人の声を手がかりに部屋までたどり着く。危機一髪で部屋から逃げ出したサン=メグランは待ち伏せした手のものに暗殺される。公爵が最後の台詞を吐く。「よし!さあ、家来の始末はつけた、今度は主人の番だ!」
劇場が興奮のるつぼであった。臨席していたオルレアン公爵は名前も知らない自分の使用人が詩人として聖別されるのをきいたのである。こうしてアレクサンドル・デュマはフランス演劇史にみずからの名前を深く刻んだのである。 -
カトリーヌ・ド・メディシスは占い師から「三人の息子が王位につくが、三人とも子を残さずに死に、そのあと王朝の交替がおこって、アンリ・ド・ナヴァールが王位につくであろう」という予言を受けとり、手を替え品を替えてナヴァール王アンリを亡き者にしようと謀る。いっぽうマルゴはプロテスタントの騎士ラ・モールと激しい恋に落ちながら、夫アンリとは夫婦ならぬ「同盟」関係を維持して、政治的なバランスを保持しようと努力する。陰謀はさらなる陰謀を生み、宮廷絵巻は複雑に入り組んで一つの終演を迎える。
-
舞台はフランス・ルネサンスの一見はなやかな時代。だが新旧の宗教の対立はきわだち、聖バルテルミーの大虐殺で対立はクライマックスを迎える。シャルル9世は君主ではあったが、母親のカトリーヌ・ド・メディシスは隠然たる力をもち、シャルルの弟たちもそれぞれが次期の王位を狙っていた。こうしたなかでシャルルの妹マルゴはプロテスタント勢力の旗頭ナヴァール王アンリと政略結婚をさせられる。だがマルゴは披露宴の席で元恋人のギーズ公からなにごとかささやかれると「今夜、いつものように」という言葉をラテン語であたえるのだった。
-
ルイ14世によって引き起こされたオランダ戦争の渦中、オランダ国内は政治的党派の争いも過熱していた。その一方で、ハルレムの町は「黒いチューリップ」を作り上げた者に10万フロリンの巨額の懸賞金を出すというイベントを企画する。資産家の息子で根っからの園芸好きのコルネリウスは、全力をあげて品種改良に取り組む。だが隣家には、コルネリウスに対抗心と嫉妬の炎を燃やす園芸家ボクステルの目があった。彼はコルネリウスが当時の政治リーダーの叔父から重要書類を託されたらしいのを目撃する。
・キャンペーンの内容や期間は予告なく変更する場合があります。
・コインUP表示がある場合、ご購入時に付与されるキャンペーン分のコインは期間限定コインです。詳しくはこちら
・決済時に商品の合計税抜金額に対して課税するため、作品詳細ページの表示価格と差が生じる場合がございます。