『青空文庫、有島武郎、雑誌を除く(文芸・小説)』の電子書籍一覧
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[作品について] 社会制度の観点から農民文化について述べた、有島武郎の談話。 地主に搾取され悲惨な境遇におかれている小作人には、“文化”を享受したり“文化”を創造したりする余裕はない。小作人を苦しめている私有財産制度を撤廃してはじめて、“農民文化”を論ずることができるのだ、と主張している。 この文章から、前年(大正11年)、農場解放を行うにいたった有島武郎の思想を読み取ることができる。(mono)[初出]「文化生活の基礎 第三卷第六號(六月號)」1923(大正12)年6月1日[文字遣い種別]新字旧仮名
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[作品について]1911(明治44)年1月から1913(大正2)年、「白樺」に『或る女のグリンプス』の名前で連載された。1919(大正8)年、この『或る女のグリンプス』を改稿して『或る女』前編とし、『有島武郎著作集』第八集として叢文閣より刊行。 ★初版本に収められていた、巻頭のホイットマンの詩、及び「書後」のテキスト(3K、ZIP圧縮)はこちら[初出]「白樺」1911(明治44)年1月~1913(大正2)年3月(『或る女のグリンプス』として)[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]米国の婚約者木村に嫁ぐ葉子は、渡米の船上で事務長の倉地を知り関係を結ぶ。木村を捨て倉地とともに日本に戻った葉子。晩秋から盛夏。時の移ろいに季節の風物を交えながら二人の情交のゆく末を描く。「或る女」後編。1919(大正8年)『有島武郎著作集』第九集として叢文閣より刊行。 ★初版本に収められていた、巻頭のホイットマンの詩、及び「書後」のテキスト(3K、ZIP圧縮)はこちら[初出]「有島武郎著作集 第九巻」叢文閣、1919(大正8)年6月[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]有島武郎は北海道ニセコ町(旧狩太村)に所有していた農場を、1922(大正11)年7月18日に、土地共有という形で小作人に無償で解放した。 この文章は、その農場解放について有島武郎に取材した内容を、雑誌『解放』が対話形式で掲載したもの。(mono)[初出]「解放 第五巻第三號(三月號)」1923(大正12)年3月1日[文字遣い種別]新字旧仮名
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[作品について] 有島武郎は大正11(1922)年7月、北海道ニセコ町(旧狩太村)に所有していた農地を小作人に無償で与える農場解放宣言を行った。 当時は地主が農地を所有し、小作人が耕作をして小作料を地主に支払うという制度であった。 武郎は、父・有島武の入手した農地を自分が所有することとなり、自分自身が地主となって搾取する側に立つことに苦しんでいた。搾取する立場に甘んじることは、自らの良心にかけて断じてできない、と信念の人・有島武郎は、農場解放を行ったのだ。 この試みは決して成功裡に終わったわけではなかったが、戦後の農地解放にいわば先駆ける形で有島武郎が農場を解放したことは、評価されてしかるべきであろう。有島自身がこの文章の中で「私の土地解放は時代の思想に伴つて行つたもので将来漸次土地が解放される前兆とも見るべき」と述べており、時代を見つめる有島の確かな眼をうかがうことができる。[初出]「小樽新聞」1923(大正12)年5月20日、21日(9817号、9818号)[文字遣い種別]新字旧仮名
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[作品について]世の中への出立をひかえた若者たち。各々の野心、欲望、畏れ、ためらい。そして懊悩の彼方にのぞく、ささやかな清々しさと希望。若い魂の繊細な輝きを放つ一群の星々。――その時間は永劫の前にもなければ永劫の後にもない――。札幌農学校に学ぶ青年たちの蒼き群像。 1921(大正10)年7月1日発行の「新潮」第35巻第1号に『白官舎』として発表。翌年後半を書き足し『星座』(第1巻)と改題、『有島武郎著作集』第14集として叢文閣より出版。本作は長編として構想されたが、著者の死により未完。[初出]1922(大正11)年5月[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について] 有島武郎の東北帝国大学農科大学(旧札幌農学校)の教授時代の作品である。 有島武郎は、教授をつとめるかたわら、遠友夜学校で無給の教師をつとめていた。遠友夜学校とは、新渡戸稲造が札幌に設立した、貧しい家庭の子どもたちに無料で学びの場を提供する夜学校である。当時、小学校教育はすでに義務化されていたが、生活のために働かねばならぬ子どもも多かった。昼間は働き、夜、この遠友夜学校に集まり、50年間で約5,000人が学んだという。新渡戸稲造の友人や札幌農学校の学生など有志が遠友夜学校の教壇に立ち、無報酬で教師役をつとめた。 有島武郎は、札幌農学校の学生であったときからボランティアとして遠友夜学校にかかわっており、夜学校で教鞭をとる教師の一人であった。 この遠友夜学校の生徒であった瀬川末が、この作品「お末の死」の主人公のモデルかとされている。瀬川末は、家庭の事情から若くして働くことを余儀なくされ、運命に翻弄されたあげく、大正2年に自殺した少女である。 ちなみに、魯迅はこの作品を中国語訳し、『現代日本小説集』に収めて出版している。(mono)[初出]「白樺」1914(大正3)年1月[文字遣い種別]新字旧仮名
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[作品について] 遠友夜学校とは、新渡戸稲造が札幌に設立した、勤労青少年に無料で学びの場を提供する夜学校である。当時、小学校教育はすでに義務化されていたが、生活のために働いていて学校に通えない子どもも多かった。昼間は家計を助けるために働き、夜、この遠友夜学校に集まり、50年間で約5,000人が学んだという。授業料は無料、教科書など教材もすべて学校側が用意し無償で提供した。夜学校の教師は、新渡戸稲造の友人や札幌農学校の学生など有志がつとめた。 有島武郎は、この遠友夜学校に札幌農学校の学生であったときからかかわっていた。熱心な教師の一人で、夜学校の行事には極力時間を割いて参加し、生徒からは兄とも父とも慕われた存在であったという。有島武郎は明治42年1月から大正4年3月までの間、遠友夜学校の代表をつとめ、校舎の改修増築に奔走したり、夜学校の資金を道庁から助成してもらうことに成功している。 一身上の都合により札幌を離れたため、遠友夜学校の代表を辞めたが、その後も終世、維持会員の一人として多くの金を寄附し物的に援助したばかりでなく、札幌に来ると必ずこの夜学校を訪れて教師や生徒たちへ言葉をかけ、彼らの精神的な支えでありつづけた。 この遠友夜学校の校歌と奨励歌は、有島武郎の作詞であるといわれている。 (mono)[文字遣い種別]新字旧仮名
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[作品について]「あら大きな波が来てよ」と沖の方を見ていた妹が少し怖《こわ》そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通りに、これまでのとはかけはなれて大きな波が、両手をひろげるような恰好《かっこう》で押寄せて来るのでした。記憶の底に濃い陰影を刻む、夏の終わりに遭遇したできごと。[初出]「婦人公論」1921(大正10)年7月[文字遣い種別]新字新仮名
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