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『著者センター、歴史研究会、仏教・中世、1円~(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~13件目/全13件

  • 平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会は仏事の覇権争いが日々激しくなっていき、武力を持って自分たちの言い分を押し通すために朝廷に押しかけていった。 興福寺は藤原氏の氏寺として権力を行使、春日社の神木を持って京都に狼藉を働いた。 それを屈し、南都の言い分を聞き入れた朝廷に、比叡山延暦寺側は大挙僧兵が日吉神社の神輿を持って京都に押しかけ、神々の威光を持って朝廷の大臣や上皇に強訴を繰り返した。 有力寺院は財力的にも力をつけ、武力もそれぞれの寺院に僧兵を南都の興福寺・比叡山延暦寺も常時三千人を下らなかったと言われている。 武力すなわち朝廷への発言力となり、興福寺の春日社の神木や、延暦寺の日吉社の神輿で都に押しかけて狼藉を働いた。 京都の役人や公家は神の威光の神罰を恐れて手出しができず、僧兵の強訴拡大に拍車をかけていった。 ところが、北嶺の比叡山にも内紛が勃発、円仁派と円珍派に分裂し、円珍派は坂本の園城寺を拠点に寺門派を形成し、僧兵を持っての焼討の応酬を重ねた。 一方、南都では興福寺と東大寺が双方僧兵を持って南都の主導権廻り僧兵の攻撃の応酬が繰り返され、複雑に南都六宗は荘園と僧兵の武力をもって戦いが続き、多武峰の拠点を持つ談山神社の僧兵は比叡山延暦寺派に組み込まれ、中国地方の大山寺まで強大な僧兵を持つ勢力へと成長していった。
  • 元弘三年(1333)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。 幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。尊氏、京都の後醍醐天皇に忠誠を誓い、南朝方に与していった。 後醍醐天皇の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていくなか、鎌倉方の残党が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せた。 これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。 後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に脱出し南朝を創始することになった。 幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。 直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。 後醍醐天皇の崩御後はその菩提(ぼだい)を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。
  • 「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さら
  • 「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。
  • 日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像と神道祭神は混在して祭られ、明治維新の神仏分離令まで神仏習合として共存してきたのが「日本の宗教」であった。山岳信仰で各地に霊場・霊峰に神々に役小角の密教系仏像が信仰され、権現や明神が信仰された。また、浄土系や禅宗系や日蓮宗系以外は習合は拒否され、神社では、伊勢神宮や出雲大社や大神神社など純粋な神道以外は習合され、平安時代の熊野詣の様に神仏一体として神秘的霊場として、北は出羽三山から富士山御岳山、大峰山から伯耆大山から石槌から英彦山まで全国に広まって行った山伏の霊地聖地巡拝が神仏分離令で一番被害を被った。また、一般神社や寺院にも神仏に境なく一緒に祀られ、有力神社、寺院は神宮寺や神護寺が境内に祀られ、明治維新まで共栄共存で日本人の伝承文化として続けられたが、明治維新の王政復古の嵐に「廃仏毀釈」によって仏像の四割は破壊されて、分離された。一般寺院も門前に鳥居を立て、本尊を蔵に隠し、御神体前面にして、廃仏毀釈の嵐をやり過ごすした。日本中に道一つ隔てて神社と寺院が見受けられるのはその名残である。また日本各地に霊峰聖地の山岳信仰の神仏習合の峰々の寺社は強制的に分離させられ諸仏・経典など仏教に関わるものは廃棄・破却させられた。長年共栄共存で有り続けた日本伝統文化は根底から崩れ去った。
  • 165(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和国は平郡県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平郡で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。 醍醐寺は空海の孫弟子の聖宝が貞観一六年(874)に上醍醐准胝観音本尊・如意輪観音を安置して開山した。その後,下醍醐も堂塔が立ち並び、五重塔は京都で一番古い建造物となっている。醍醐寺も落雷による焼失、戦火による焼失と、再建と消失と繰り返してきた。 重源が出家した修行の地は現在の下醍醐と違って西国一の険しい札所で知られている。かつては上がり口には結界があって、女人禁制で信仰の道場であった。一二歳の重源は日々厳しい修業に励み、早朝より薬師堂・醍醐寺の鎮守神で有る清瀧権現拝殿・准胝堂・五大堂などへの勤行を勤める。 醍醐山の頂上(標高450M)には如意輪堂と開山堂・白山権現が立ち並び山頂笠取山に向かう途中に奥の院がある。険しい峰々が山岳信仰の行場で、日々若い修行僧が業に励む。
  • 「日本の大師号」 大師とは、偉大なる師範たるや仏や高僧への尊称。釈迦大師を始め智者大師・南岳大師・嘉祥大師・慈恩大師などに用いられた。また、中国皇帝が高僧に与えた尊号としての大師号は848年唐の宣宗による弁覚大師を嚆矢とする。日本では866年(貞観8年)清和天皇が最澄・円仁に与えた伝教大師・慈覚大師を初例に、921年(延喜5年)円珍へ智証大師号が勅による諡号とされた。大師号は高僧の没後に弟子の上奏により与えられ、空海には没後86年に勅贈されたが、延暦寺の良源の場合勅贈されず、教団は慈恵大師を私称した。宗祖・流祖への大師号勅贈は、法流に連なる門徒の社会的立場を高めるたの条件となり、1398年(延慶元)真言宗益信への本覚大師号追贈めぐる延暦寺と仁和寺・醍醐寺・東大寺等の相論は大師号の社会的な意義を示唆する事件であった。ここに「日本二十三大師の足跡」として取り上げて記してみたが、また一宗派の尊称として大師と呼ばれている場合もあり、他にも記録的に曖昧な表記で大師と記されている者もあるが、宗派間の争いで尊称として贈られた場合もある。特に近世で明治天皇・大正天皇・今上天皇も大師号を勅贈されている場合もあり、定めらえた大師号の数を捉えるのは難し。【十八大師】朝廷から大師号を贈られた一八人の高僧。天台宗の伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)・慈慧大師(良源)・慈摂大師(真盛)・慈眼大師(天海)、真言宗の弘法大師(空海)・道興大師(実慧)・法光大師(真雅)・本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師(覚鑁・月輪大師(俊芿、浄土真宗の見真大師(親鸞・慧灯大師(蓮如、曹洞宗(そうとうしゅう)の承陽大師(道元)、浄土宗の円光大師(源空)、融通念仏宗の聖応大師(良忍)の各大師。
  • 朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入したもので、朝廷や幕府が住持を任命する。 臨済宗の五山に「このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。 五山、十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)の3種の寺格がある。史料のうえで最初に五山に列せられたのは正安元年(1299))5月の鎌倉浄智寺で、そののち応長元年(1311)頃に鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺が加えられた。 京都の禅寺は、さらに正慶2・元弘3(1333)10月に大徳が五山に列し、翌年正月南禅寺が五山第一に列せられた。 建武年中(1334~1338)には建仁寺、東福寺も五山に加えられた。  やがて室町幕府が成立して天龍寺が建てられると、各寺の位次が定められるようになった。 将軍足利尊氏は康永元(1342)4月、五山第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺、凖五山浄智寺と定めた。 延文3年(1358)9月、将軍義詮(よしあきら)は第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とした。 このうち建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山、ほかが京都五山である。 至徳3年(1386)7月には、将軍義満によって創立された相国寺を加えて、五山之上南禅寺、第一天龍寺・建長寺、第二相国寺・円覚寺、第三建仁寺・寿福寺、第四東福寺・浄智寺、第五万寿寺・浄妙寺という京都五山優位の位次が初めて決定された。のち一時期、義満は相国寺と天龍寺の位次を取り替えたが、やがて元に復した。 このように五山の順位は権力者が替われば順位が変わり、その後、京都では大徳寺と妙心寺では時の執権者の意に沿わなかったとか政治的に考慮して林下として加えることが無かった。 五山に次ぐ十刹には、浄妙寺や豊後(ぶんご)の万寿寺などが鎌倉末期に列せられたのが初見で、ついで暦応4年(1341)8月、尊氏によって相模(さがみ)浄妙寺・相模禅興(ぜんこう)寺、筑前聖福(しょ
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    仏教伝来以来、日本古来の古神道との仏教の目立った争いは無かった。当初、官寺としての仏教による鎮護国家の色彩が強かったので、神仏の競うことはなかった。 そんな中で人里離れた山岳に神秘的支配に求める人々に古神道の神々と、仏教の密教的諸仏が融合して、独自な神仏習合の「修験道」が誕生していった。その代表的山岳信仰の先駆者こそ「役小角」で近畿地方から九州から、四国、中国と方から東北地方まで影響され伝播されていった。九州は善正、白山は泰澄、日光は勝道、東北は能登が未開の峰々を切り開き聖地・霊地の聖域を広めていった。近畿地方の役行者を心棒する修験者は真言系と天台系に凌ぎを削り、大峰山から熊野三山まで朝野の別なく、神仏習合の権現として崇敬されていった。伊勢神宮、出雲大社、大神神社に仏教では禅宗系、日蓮宗系、浄土宗系以外は神仏混在で諸国に広まって行った。ところが、明治の神仏分離令以降、廃仏運動で分離され、仏教は被害を受けて衰退していった。中でも修験道は往時に比べて、各地に細々伝承されて行っている状態である。改めて、修験道の歩んだ歴史を振り返って見たのである。
  • 弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。
  • 奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。
  • 165(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、伊予に戻って豊後,大隅に山陽道の安芸に厳島神社から備前に、東北の白河の関から江差、平泉から松島に、美濃から伊勢神宮に参籠し但馬、因幡、大和当麻から、京都の石清水に、さらに播磨円教寺に、そして伊予大山三島神社に参拝し、終焉の地は播磨は兵庫は和田岬の真光寺で長い流浪の念仏布教の行脚の遊行を終えた。高潔な信念の念仏僧である。 【銅鑼、太鼓、鉦をたたきながら、節を付けながら踊りながら一遍の後に弟子たち信者が続く「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマイダー」村々を巡り、念仏勧進の功徳を説きまわり、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算の配り札を諸国に配り巡った、文字も読めない農民や庶民にひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、西方浄土の阿弥陀様を信じる者は、来世には極楽浄土に住むことが許されるのじゃ、弥陀を称えてナンマイダー、ナンマイダーと村々の信者の弟子とどこまでも一遍と諸国を巡る、時宗(出家)と時衆(在家)が、日々の苦しさにあえぐ、農民や商人らを安心と銅鑼や太鼓、鉦に合わせて興じる庶民の、この世の極楽を作り出して安堵と平穏を農民に与えた、念仏踊りが西方浄土への道しるべとして、一時代の信仰の救世主となった】
  • 日本の有名寺院に鳥居が立っている、不思議に思う人もあるが、元来、仏教が伝来以来千年以上前から、仏教仏像と神道祭神は混在して祭られ、明治維新の神仏分離令まで神仏習合として共存してきたのが「日本の宗教」であった。山岳信仰で各地に霊場・霊峰に神々に役小角の密教系仏像が信仰され、権現や明神が信仰された。また、浄土系や禅宗系や日蓮宗系以外は習合は拒否され、神社では、伊勢神宮や出雲大社や大神神社など純粋な神道以外は習合され、平安時代の熊野詣の様に神仏一体として神秘的霊場として、北は出羽三山から富士山御岳山、大峰山から伯耆大山から石槌から英彦山まで全国に広まって行った山伏の霊地聖地巡拝が神仏分離令で一番被害を被った。また、一般神社や寺院にも神仏に境なく一緒に祀られ、有力神社、寺院は神宮寺や神護寺が境内に祀られ、明治維新まで共栄共存で日本人の伝承文化として続けられたが、明治維新の王政復古の嵐に「廃仏毀釈」によって仏像の四割は破壊されて、分離された。一般寺院も門前に鳥居を立て、本尊を蔵に隠し、御神体前面にして、廃仏毀釈の嵐をやり過ごすした。日本中に道一つ隔てて神社と寺院が見受けられるのはその名残である。また日本各地に霊峰聖地の山岳信仰の神仏習合の峰々の寺社は強制的に分離させられ諸仏・経典など仏教に関わるものは廃棄・破却させられた。長年共栄共存で有り続けた日本伝統文化は根底から崩れ去った。

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