『文芸・小説、1円~、2019年11月30日以前』の電子書籍一覧
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夏目漱石の「こころ」の本文とオーディオブックをセットにしました。
夏目漱石の「こころ」の本文とオーディオブックをセットにしました。
実際に目を追って読書できることはもちろん、ランニング中などでも耳から聞くこともできます。
全部で8時間に及ぶ朗読は、MP3ファイルでダウンロードでき、お使いの端末の機能でスピードなど自由に調整することもできます。
夏目漱石の傑作、「こころ」を、目と耳からお楽しみください。
「『こゝろ』とは、夏目漱石の長編小説。漱石の代表作の一つ。1914年4月20日から8月11日まで、『朝日新聞』で「心 先生の遺書」として連載され、同年9月に岩波書店より漱石自身の装丁で刊行された。なお、自費出版という形式ではあるが、この作品が岩波書店にとって出版社として発刊した最初の小説である。
連載開始からちょうど100年たった2014年4月20日に、『朝日新聞』上で再度連載が開始された。
新潮文庫版は、2016年時点で発行部数718万部を記録しており、同文庫の中で最も売れている。」
(Wikipediaより)
※実際の本文と朗読が若干異なる場合があります。また、この電子書籍に音声は含まれておりません。書籍巻末のURLより、直接ダウンロードして下さい。 -
「砂の妖精サミアド」の新訳&完訳です!
イーディス・ネズビット原作の「Five Children and It」の新訳&完訳です。
ケント州の田舎に引っ越してきたシリルたち五人の兄弟姉妹たちは、近くの砂利取り場で妖精を見つけます。妖精は「サミアド」と名乗り、一日一つ「願い事」を叶えてくれるというので、子どもたちは大喜びするのですが、思うようにいかず苦難の連続に。でも子どもたちは力を合わせながら、どうにかピンチを切り抜けてゆくのですが……。
豊かなイマジネーションと活き活きとした子どもたちの姿を描き、その後の児童文学やファンタジー小説に大きな影響を与えた傑作ファンタジーです。「おねがい!サミアどん」という日本のアニメーションの原作でもあります。
縦書き、ルビ付き、脚注付き。初版で使用されたハロルド・ロバート・ミラーのモノクロ挿し絵を52点収録。 -
16世紀後半、当時は尾張国海西郡に属した中島は(現桑名市)を舞台に、一向宗門徒を中心とする在地勢力が織田信長軍の抵抗した一揆。1570年(元亀元)石山本願寺の廻文で蜂起した一揆勢は、織田信興(信長の弟)を自殺に追い込み、願証寺を中心に要害を築いて激しく戦った。1574年(天正2)信長は、陸路で北伊勢に侵攻する一方、伊勢湾に軍船を浮かべ、海路から総攻撃を行い、島ごとに築かれた城砦を破壊した。一揆勢は約3カ月籠城したがが死者が続出し、一揆勢は船で退去する際に砲撃を受けて、2万人の男女が城に追い込まれ焼き殺された。これにより門徒領体制は崩壊した。
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ある病院の「混合病棟」。
効能―まえがきにかえて
2010年――。
ある病院の「混合病棟」。
(ナレーション)
“俺”は、『胸』の手術のため、「混合病棟」に、1週間、入院した。
「混合病棟」で出会った5人の人々について話すことにしよう。
混合病棟301号室の面々は――
・就職を控えた経済学部生、富田くん。
・居酒屋の店長・“店長”。
・“俺”・S。
・ベテランのとび職・竜二。
・大手商社役員・不知火さん。
・謎の男・Kさん。
楽しいですよ。
「舞台劇」だと考えれば、面白いです。
目次
-1- 富田くんと
-2- 竜二さんと
-3- “店長”と
-4- 不知火さんと
-5- Kさんと
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太平洋戦争(戦争の呼称)昭和16年(1941)から1945年にかけて、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間で戦われた戦争。国際的には第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては1931年満州事変以来の対中国侵略戦争を拡大したもので、政府はこの戦争を「志那事変」を含めて「大東亜戦争」と呼称した。しかし、敗戦後の1945年9月以降は太平洋戦争と呼ぶようになった。太平洋戦争はまた、満州事変及び日中戦争とともに「十五年戦争」と総称される場合もある。なお学会には、戦争の実態を表す「アジア・太平洋戦争」の呼称を使用すべきでないという意見もある。「開戦までの経緯」1937年の盧溝橋事件で本格化した日中戦争は、日本では「志那事変」と呼ばれたが、紛れもなく全面戦争となった。当初、政府も軍部も中国の抗日民族統一戦線の力量を軽視していた。ところが中国の予想外の強い抵抗で戦闘は拡大の一途をたどり、1938年秋の武漢・広東攻略戦で、日本軍の攻撃は限界に達し、戦争は長期持久戦の泥沼に落ち込んでいった。しかも一方で中国と戦いながら、陸軍はソ連、海軍はアメリカを敵として軍備の大拡張続けていたから、軍需の拡大が国民生活をを圧迫し国内の矛盾は深刻になっていった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、1940年春以来、ドイツ軍が英仏軍を破り、フランスを降伏させるなど、西部戦線が電撃的勝利を収めと、日本はこれに便乗して東南アジアに進出してその資源を手に入れようとして行き詰った日中戦争を打開しようとした。そして南方に進出拠点として、1940年9月仏領インドシナ北部に武力進出、さらにドイツ、イタリア日独伊三国同盟を結んだために、アメリカ、イギリスとの対立が激化すた。アメリカは石油の輸出制限の強化するなど経済制裁に乗り出した。第二次近衛文麿内閣は、1941年4月から日米間の国交調整を図ろうとして日米交渉を開始した。アメリカは日本の中国からの撤兵を求め、日本は撤兵に応じず資源獲得を求めたが、交渉妥結には至らなかった。
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世界恐慌の最中に旧平価金解禁(金本位制復帰{と緊縮財政によって引き起こされた深刻な経済恐慌。明治末期に行き詰った日本経済は第一次大戦中の輸出激増で一躍債権国となったが、重化学工業化もすすんだ。戦後ブームの反動で1920年(大正9年)恐慌に陥り、さらに1922年の銀行恐慌、翌年の関東大震災で、戦中に族生した成金企業は大打撃を受け、その都度政府、日銀の特別融資で延命を図った。巨額の不良債権を抱えた鈴木商店と機関銀行化した台湾銀行は、景気回復を阻害する「財界の癌」とみなされ、その整理が不可壁となった。震災後には38ドル(旧平価は100円=49ドル8分の7)に暴落、救済政策は限界に達した。1927年(昭和2年)若槻礼次郎・憲政会内閣は国庫、日銀負担による鈴木・台銀整理法案を上程したが、政商救済と非難する野党、枢密院の拒否によって内閣瓦解、銀行が破綻休業した。代わった田中義一政友会内閣(高橋是清)は整理法案を成立させ3週間のモラリトアム)支払い猶予令を実施、金融パニックも沈静化した。フランスが1928年に平価を切り下げて金本位制復帰し、金解禁確実と予期された円は内外投資家の投機の標的となった。政財界、論壇を上げて旧平価解禁の声は高まった。「東洋経済新報」主幹の石橋湛山ら4名のジャーナリストと少数の財界人が新平価解禁(平価切下げ)論で対抗し、金解禁は政争の中心となった。「金解禁は景気回復の世直し」と謳った浜口雄幸・民政党内閣(井上準之助蔵相)が1929年7月に成立、翌年1月旧平価での金解禁を実施、緊縮財政を強行した。
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読むだけで、「英語の勉強」になる映画脚本です――。
まえがきにかえて
読むだけで、「英語の勉強」になる映画脚本です――。
小学4年生でも、英検三級に合格するのでは? という私の疑問から始まった脚本です。
漢字を、ある程度、覚えれば、英語の勉強をスタートしても良いのではないでしょうか?
文部科学省では、小学5年生から、英語の勉強を始めるように決まっているらしいですね。
『yを“愛”にかえてes』は、私の文部科学省への挑戦でもあります。
「映画」として成立すれば、『文科省特選』になるかもしれませんね。
どこから読んでも、興味深い映画脚本となっています。
目次に小見出しは、付けていません。
内容が全く分からない、というのも問題があるので、仮に、以下にだけ、目次を記しておきます――。
No.1 板垣死ストモ自由ハ死セズ/No.2 イングリッシュ・ネームを付ける/No.3 「三単現のs」を習う/No.4 発音記号を覚える/No.5 「時制の一致」を習う/No.6 先生へ英語の手紙を書く/No.7 省略できる関係代名詞を習う/No.8 関係代名詞(Why, What)を習う/No.9 文中の“I”は、何故、大文字か?/No.10 クリスマス・ソングを覚える重要性/No.11 試験直前にテキストを見ない!/No.12 ひとりだけの不合格/No.13 Goodbye everyone!
20人中、19人が英検三級に合格するという、お話です。
では、あなたも未知なる英語の世界へと進んでください――。
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大正期の大地震、関東大地震によって起きた災害。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方南部に大地震が発生、規模マグネチュード7,9、震源は相模湾西北部と計算された。自身は小田原、根布川方面が最も激烈であったが、東京、横浜では地震による火災が加わり甚大な被害を生んだ。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山手の一部にかけて前史の三分の二が焼失し、本所の被服廠跡では火の旋風で一挙に3万8000人が焼死。横浜では煉瓦造りの洋館などが倒壊し多くの圧死者を出し、前史買いがほとんど消失ないし全半壊し、4日までに救助の手が届かなかった。被害者は9万9331名、負傷者は10万3733名、行方不明者は4万3746名、全半壊家屋12万8266名、半壊家屋12万6233戸、焼失家屋、流失家屋868戸、被災者340万名。〈デマを信じた人〉大災害であったが、この震災を利用して今日まで判明しているだけでも6000名以上の在日韓国、朝鮮人と600名以上の在日中国人が600人以上の虐殺され、亀戸事件・甘粕事件と言われる、日本人社会主義者・無政府主義者・共産主義者、労働運動者・青年運動の指導者総計14名が殺害された人災でもあった。とくに韓国・朝鮮人・中国人への大虐殺は全く無実無根の流言蜚語は放火、暴動、井戸に毒を入れたなどを信じて自警団に組織させられた日本人の民衆が軍隊、警察とともに行ったものである。当時日本経済は世界恐慌、昭和金融恐慌など経済が混乱、低迷し、手形決済や紙幣の焼失し、流通、住居、公共の施設の焼失で遷都を考えざるを得ないほどに混迷した。この大災害に大阪など関西に人口が流出し、また大阪をはじめ日本各地から救援の援助物資や金融の援助がなされた。
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大政奉還は慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権の朝廷返上を申し出、翌日勅許された政治事件。開国をめぐる外圧と激動する政局のなかで、幕府と朝廷の二元政治かのように状況を、政権一元化(政権復帰一問題)で克服しようとする動き、文久期(1861~1864)に顕在化し、1853年3月と1864年(元治元年)4月の2度にわたる朝廷から幕府への庶政委任んお確認がなされた。それは幕朝関係から朝幕関係への変化を示した。この朝廷(天皇)と結びついて幕府に対抗しようとする西南雄藩討幕派と幕府との対立は、慶応期(1865~1868)には決定的となる当時西南雄藩の背後にはイギリスが幕府側にはフランスがいた。「公議政体論」国際勢力の動向と絡む討幕派の武力倒幕路線と幕府の政治路線の間に公議政体論が登場する。これは諸侯会議を中心とした幕府体制の改編で、上下議員など欧米の議会制度などで色揚げされた体制構想であった。土佐藩主山内容堂や越前藩主松平春嶽らはこの構想で調整を図ろうとした。前者は武力倒幕を目指す討幕派を抑え、後者は幕府内部強硬論者に押し切られないようにしようとしていた。土佐藩の公議政体論の背景には坂本龍馬の「船中八策」などにみられる政治構想を、つまり政治の実権を朝廷に移し、諸侯は会議を上院として、下院には各藩の人材を登用し、この上に上下義政局中心として統一国家の体制を整えようとした計画があった。坂本との構想に賛同した土佐藩土佐藩の後藤象二郎が山内容堂に説き、容堂が受け入れた。後藤は藩主の名で大政奉還建白書を老中板倉勝静を通じて将軍に提出した。将軍慶喜はこれを受け入れて、1867年10月13日から14日にかけて幕府の有史及び在京の諸藩の重臣を二条城に集めて問い、13日の夜に側近の洋学者西周に三権分立やイギリスの議会制について聞き、西は翌日ヨーロッパ近代統一国家の制度について手記を提出したとされる。14日慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。15日に勅許。これを同じくして「討幕の密勅」(薩摩藩主あての13日分、長州藩しゅあての14日)を討幕派は入手した。これは公議政体派と討幕派とが、それぞれ情報を入手していたからに他ならない。両派は交錯していたのである。
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中国最後の先制王政清を倒し、共和制を樹立を目指した革命。干支の辛亥1911年10月10日年の、武昌で軍隊の反乱がおこり全国へ波及、翌1912年1月1日南京で中華民国が成立が宣言され孫文が臨時大統領に就任した。【辛亥革命で樹立され、共和政体をとった中国最初の国民国家。南京を首都に1912年1月1日成立。それは「漢民族主義国家を目指し「建立民国」(国民主権主義)の具現として実現した。ただし、それは、漢族主体とはいえ五族共和を建前ににし、国旗は五色旗、共和制も国制転換の手段の域をとどまった。その量要素の結節点に救国と言い、いわゆる洋務があった。またその国家イメージも大きなふり幅を随伴し、北洋軍系の北京政府、国民党系の南京国民政府、抗日戦争期国共再合作による重慶政府と、親日的南京政府など、その内実は絶えず変化させた。】清朝最後の皇帝溥儀は2月2日に退位した。中国同盟会に集結した革命派の勢いは、若い知識人らを中心とする小さなものだった。しかし、清朝の立憲主義的改革の限界が明らかになり、その鉄道国有化政策や財政政策に対しても蜂起に合流、革命に協力した。諸列強も早い時期に清朝を見限り革命への干渉を避けた。革命後政治体制は、軍部の介入や党派間の対立のために容易に安定しなかった。加盟以降、纏足や宮廷儀礼が廃止され、欧化主義の風潮が広がるなど社会的雰囲気も大きく変化した。
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「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸に逃げ帰った。この鳥羽・伏見の戦いの結果、新政府内で武力討伐派が主導権を掌握した。西日本の諸藩は戦わずして新政府の軍門に降り、大商人の多くも新政府の支持に回った。新政府は1月7日に慶喜征伐令を発し、有栖川宮熾仁親王を東征軍は江戸へ進軍させた。これに対して、慶喜は江戸城を退去し、旧幕府陸軍総裁の勝海舟が東征大総督参謀西郷隆盛に降伏状の交渉を重ねた。4月4日には東海道先鋒総督府橋本実染(1834~1885)が勅使として江戸城に入り、慶喜の水戸藩御預かり、江戸城明け渡し、軍艦兵器の引き渡し、城内居住の旧幕臣などの処置などの勅旨を田安慶頼(1828~1876)に伝え、4月11日には開城となった。旧幕臣は脱走し彰義隊は上野に立てこもり新政府に敵対した。関東では世直し一揆が激化し、開城後も新政府、旧幕臣との闘いが小山・宇都宮・舟橋などで散発的に起こった。5月15日には上野の戦争で彰義隊を壊滅させ徳川家達に70万円を与えて駿河に移した。東北については奥羽鎮憮総督を仙台に派遣し、藩主松平容保が会津藩に追討が命じられた。北陸諸藩は奥羽越列藩同盟は結んでいた新政府への敵対に対して、
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黒船は江戸時代にかけて来航したヨーロッパの木造航洋船、いわゆる南蛮背のこと。船体が黒いタールを塗装した船で黒船と呼んだ。その後日本も技術を取り入れ輸入したりして保有はしていたが、当時の南蛮船はカラック、ガレオンなど大航海時代の主力となった。外洋を航行する堅牢で頑丈な船体作りになっていて、ペリー艦隊四集は蒸気船と帆装船各二隻で強引に鎖国の日本に開国を迫った。目的は捕鯨で鯨油を目当てに寄港できる開港を求めて交渉したがうまく進まず、大砲の空砲で驚かせ交渉しようとしたが国内事情で成立しなかった。何よりアメリカの思惑はヨーロッパ諸国の植民地化に出遅れて焦りがあった。アメリカ合衆のアジア市場への進出に産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。当時の人口は、アメリカ合衆が1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
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満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境付近で起こった日本・ソ連両軍の大規模な武力衝突。ハルハ河戦争ともいう。ノモンハン一帯の国境線は不明確で日ソ間の紛争の種となっていたが、1939年(昭和14年)関東軍は国境付近に強硬な方針を決定した。たちまち同年5月ノモンハン駐屯の満州国軍衝突すると、日本軍はハイラル駐屯の第23師団の部隊を出動、外蒙軍をげきした。さらに7月2日第23師団は、反撃に転じた外蒙軍とソ連軍の圧倒的優勢な火力と戦車群の前に日本軍は苦戦を強いられた。戦況不利を知った大本営は事件の不拡大方針を決め、政府も外交的解決を求めた。これを無視した関東軍はソ連に対する攻撃を続けたが、8月20日ソ連軍の総攻撃を受けて、一個師団壊滅の大敗をきした。おりからの独ソ不可侵条約を締結と第二次大戦の勃発で国際情勢が急変すると、日本は停戦を申し入れ9月15日モスクワで停戦協定を調印され、関東軍司令官と同軍参謀長は引責待命となった。日本軍の敗北は陸軍の対ソ戦略に深刻な打撃を与え、対ソ開戦の企画を挫折に導いた。
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京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると、所司代がさらにその家人を小所司代に任命し、雑事を務めさせるようになる。室町時代の侍所は京中の検断・断罪を掌握としており、所司代は小舎人・雑色らを指揮して将軍外出の警護、犯罪人の逮捕などにあたった。京極持清の下で同役を務めた多賀高忠や、赤松政則の下で活躍した浦上政則の下で活躍した。応仁文明の乱後は、所司補任が断絶するとととに同代官として所司代も廃絶したが、戦国時代以降、時々の権力者は京都を実質的に支配する要職に所司代の名を用いた。
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話の主人公・溝口鉄平は、奨励会出身の棋士ではない。
前書き-序盤戦
話の主人公・溝口鉄平は、奨励会出身の棋士ではない。
規定の年齢までにプロ棋士になれなかったため、プロ編入試験で、プロになった棋士だ。
現実に編入試験でプロになった棋士はいる――。
祖父・溝口平蔵九段が到達した三冠を越えるのが、鉄平の当面の目標だ。
鉄平は、まだ二十代という若さ。
「六冠」を狙っている。
さあ、当面の目標である、祖父・平蔵を越えることができるのか?
一緒に、読んでいってみよう!
目次
前書き-序盤戦
(1)R王の記者会見
(2)記者会見の続き
(3)千日手
(4)二歩
(5)K聖の記者会見
(6)プロ編入試験でプロになった鉄平
(7)TV出演
(8)じいさんと対局
後書き-感想戦
奥付
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「ゾルゲ事件」昭和16年(1941)に起こったスパイ事件。ソ連赤軍諜報員のゾルゲは新聞記者として1934年び来日、道津大使館に出入りをしながら、ヴーケリッチ、クラウゼン、宮城与徳、尾崎秀実らを協力者として組織、ナチスドイツの動向や、日本の政治・経済・社会・軍事等の関する情報をはじめとする7極東情報を、ソ連赤軍情報部に送った。1940年12月以降独ソ海戦に至るまでゾルゲはドイツがソ連を攻撃する可能性が高いことを報告し続けたが、スターリンはこれを一切無視したといわれる。1941年6月の独ソ開戦後は日本の中立をいち早く伝え、また近衛文麿首相側近の朝飯会メンバーであった尾崎を通じて政治情報を入手するとともに政治工作も行った。1941年9月、宮城が組織化した北林トモが特高に逮捕され、その自供によって宮城も10月に逮捕、宮城の全面的な自供から同15日に尾崎が、18日にゾルゲ、ヴーケリッチ、クラウゼンらが逮捕され、ゾルゲ情報網は壊滅した。主要メンバーは治安維持法・国防保安法・軍機保護法違反で起訴され宮城は獄死、ヴーケリッチ、クランゼンは終身刑に、ゾルゲ、尾崎は死刑判決を受け1944年11月7日に処刑された。
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維新の十傑(いしんのじっけつ)は、1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す。また、このうち特に枢要な3人を「維新の三傑」と称する。小御所会議を経て王政復古の大号令を達成し、明治維新の新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物という点でも共通している。明治新政府に協力した有名な幕臣として、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいるが、維新前に討幕に動かなかったことから含めない。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、賞典禄は後藤象二郎と板垣退助の1,000石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州藩の元老である。なお、金澤正造の著書『維新十傑傳』(1941年)では、明治以後の政治家とは別に、幕末期に維新へと至るまでに導いた主な革命家10名に、吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、高橋多一郎、清河八郎、伴林光平、平野国臣、佐久間象山、高杉晋作、坂本龍馬を挙げた。明治になるまで活躍した吉田松陰や坂本竜馬、中岡慎太郎は当然維新十傑に入っても不思議ではない。少なくとも没後、彼らの活躍や足跡、文献をを掘り起こし、世に知らしめた、歴史研究家や小説家の努力の賜物だと思われ、若くして没した高杉晋作など日本人の維新の立役者に思えるのも、偉大なる先駆者の運命かも知れない。
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極東国際軍事裁判(東京裁判)第二次大戦後、連合国が日本の指導者を戦争犯罪につき審理した国際軍事裁判。通称東京裁判。大戦中から米、英、ソ、三国はナチス指導者主要戦犯として処罰する方針を宣言しており、昭和20年(1945)8月、米英仏ソ4国がドイツの国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)に関してロンドン協定を締結、ここに侵略戦争を国際法上の犯罪とする「平和に対する罪」一般住民への非人道的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という2つの新しい戦争犯罪が定立された。日本を直接対象とする戦犯処罰を明示したのはポツダム宣言10項であり、これを日本が受諾したことで東京裁判を実施の法的根拠が生じた。かくして連合国最高軍最高司令官マッカーサーは、1945年9月から戦犯容疑者を逮捕しはじめ、同年12年GHQの一部局として国際検察局を設置した。判事と検事を派遣したのは、米、英、ソ、欄、加、オーストラリア,ニージランド、インド、フイリッピンの11か国である。検察側は1946年4月、戦前期日本の指導者28名をA級戦犯として選出「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」の3類にわたり極東裁判所に起訴した。起訴状では、1928~1945年に日本の「犯罪的軍閥」アジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したとの告発が注目されるが、この点、英米法特有の共同謀議という犯罪概念(2名以上の違法な合意だけで独立犯罪が成立する)を用いることで、立証が容易にし、かつ単純明快な陰謀史観で日本の行動を説明しょうというのが検察側の意図であった。公判審理は1946年5月から1948年4月に及び、特に満州事変から太平洋戦争に至る日本政治外交史が検討された。
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〈母〉については、いつか書かなければならないと思っていた。
まえがき
こんな話だ!
〈母〉については、いつか書かなければならないと思っていた。
母と神社仏閣を訪ねる。
お参りした後、私が何か気にかかる。
私の、いつものことだ!
「外で待ってるね」と、いつも母は言う。
私は戻って、神社仏閣の人に聞きに行く。
聞いて帰って来た私に、母は必ず次のように言う。
母「わかった?」
私「わかった」
母「良かったネ!」
私「良かった」
楽しく読める話だと思う!
もくじ
まえがき
「良かったネ!」
マックイーンの映画
美術展
太秦では
オールナイト上映
愛犬・チェリー
トップ校合格
夏の工作大会
妹だけと行くはずが。
母が病気になった
あとがき
奥付
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時空の迷いネコと過ごした10日間
夏休みでも、司書のわたしは、中学の図書室を開ける。そんなところに、真っ黒いネコが迷い込んで来た。その飼い主探しをしないといけないのに、クロコ・クロノニクス社の弁護士がやってきて、家が抵当に入っている、夏の終わりまでに出て行ってくれ、などと言う。どうも二五年も前、父がクロクロ社研究所に移ったときに、なにか問題があって、それで父は失踪してしまったらしい。母の認知症も悪化し、ネコのこと、母のこと、家のことで、わたしはもう手に負えない。おまけに、クロクロ社のバカ息子とかが家捜しに押しかけてくるし、あげくにネコまでさらおうとする。そんなときに、母が銀行から帰れなくなって、いよいよたいへんなことに……。 -
幕末の外国人殺人事件。文久2年(1862)9月14日、当日、街道に出ることを控えることとした幕府の通告を知らずに馬で遠乗りに出かけたイギリス人4人が、神奈川県近郊の生麦村で、勅使大使大原重徳を擁して幕政改革を朝命を伝達して京都に帰る途中島津久光の行列と遭遇。行列を乱したとして奈良原喜左衛門ら薩摩藩士により上海商人リチャードソンが殺害され、貿易商人マーシャルとハード商会のクラークが負傷、ボロデール夫人は難を逃れた。事件を知った横浜居留民団は激高し、報復を要求をしたが、イギリス代理公使ニールは冷静に対処し即時交戦を回避。翌年4月に、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(焼く40万ドル)、第二次東禅寺事件の賠償金と合わせ11万ポンドを要求、幕府は賠償金支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には犯人の処罰と貴族負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求、幕府は賠償金を支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には藩に処罰と遺族・負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求しクーパー司令官指揮の下イギリス艦隊7隻が鹿児島に遠征し交渉したが決裂、8月15日16日、薩英戦争を引き起こした。薩英戦争、生麦事件に端を発した翌1863年6月27日イギリス東洋艦隊司令長官ALキューパーは7隻で鹿児島湾に侵入、翌日犯人処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸など3隻wp拿捕した。薩摩藩の天保山砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスルング大佐、副長、水兵名が戦死し、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたので、砲撃が2時間も遅れたという。翌3日も小戦闘が続いたが、4日に至りイギリス艦隊は、食料、弾薬、石炭が欠乏し、船体朱里のために退去、横浜に帰った。イギリス艦隊の旧式方の4倍の所定距離を持ち、集成館。
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三里塚闘争は千葉県成田市に建設された新東京国際空港建設に反対して、昭和41年(1966)以来続いた地元農民、新左翼各派による闘争。1965年11月、政府が成田市三里塚への新東京国際空港建設に抜き打ち的に閣議決定をしたことに反発して成田空港反対同盟を結成、成田空港反対闘争が始まった。当初は日本社会党、日本共産党も農民の闘いの場として入り込み、日本史上有数の政治闘争となった。反対派と警察隊の衝突で双方に死者が出、逮捕者は1990年(平成2年)まで3000人以上になり、1978年5月開港した成田空港は、反対闘争によって計画の3本の滑走路4000M滑走路一本だけで二期工事行き詰まった。反対同盟は1983年、北原派と熱田派に分裂して支援党派も両派に系列化、1986年には二期工事用地内農家8戸のうち北原派に属する6戸中の4戸小川派に分裂した。1991年から学識経験者の仲介による熱田派と運輸省・航空公団側の「成田シンポジュウム」と「円卓会議」での強制収容申請取り下げなど調停案を1994年に熱田派が受け入れて逃走に終止符打ち出した。二期工事反対派用地内の反対派農家も次第に脱落、1997年11月までに8戸のうち6戸が空港公団と土地売買契約を結んだ。しかし、北原派と中核派など支援党派はゲリラ活動を活発化、空港公団関係者など個人宅を狙うテロ性を強めていった。
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シベリア抑留、昭和20年(8月15日1945)のポツダム宣言受諾後、無条件降伏を受けた日本にソ連の満州、北朝鮮、樺太、千島で敗戦を迎えた日本軍に将兵約60万を軍事捕虜としてシベリアを中心とするソ連各地におよびモンゴルに抑留、強制労働を課した。厚生省援護局の資料によると、抑留された者焼く7万5000人、現在まで帰国したもの47万000人、死亡したと認めらえるもの約5万5000人、病弱などのため入ソ直後に満州や北朝鮮に送還された者4万7000人、ソ連から中国に戦犯として引き渡された者969人である。しかし、ソ連側の記録ではその実数は把握されていない。この中には開拓団員、満州国の官吏「、満鉄の幹部なども含まれ他に婦女子(主として従軍看護婦)も含まれていた。収容所は000か所、東はカムチャッカ半島から西はドニエプル川の流域、北は北極圏から南はパミール高原の西麓まで、全ソ連地区といえる範囲に及んだ。労働は地域によって異なったが、建築・道路・鉄道工事や森林伐採やその関連作業、鉱山、探鉱作業、農業作業その他の戦後ソ連の復興の必要な広い分野にわたり、環境の激変した抑留初期に、厳寒に飢餓・重労働の3重苦による犠牲者が集中した。抑留者は1950年4月末までほとんどが帰国、戦犯として残留したものもスターリンの死後1956年末までに釈放された。抑留者名簿の公表、墓参は、補償要求など残された問題は多い。復員引き揚げ問題、第二次世界大戦で海外在留の日本軍人・軍属および一般日本人の帰還問題、特にソ連、中国の本土地域からの引き上げが遷延した問題。復員は動員体制の軍隊を平時の体制に戻すことを指すが、第二次世界大戦後の日本では軍の解体で、召集が解かれ、兵役が解除されるまでをいう。引揚者は敗戦時に海外在留の軍人・軍属・一般人が帰国することをいう。厚生省の調べで敗戦時の旧陸軍海軍・軍属の総兵力が陸軍550万、海軍役242万、このうち内地部隊は陸軍200万弱であった。内地部隊の復員は陸軍は1945年8月末日までに8割が帰郷をした。また外地部隊の復員はアメリカ管理地域から始まったが、順次実施され1948年1月まで一応完了した。
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「世界恐慌は1929年10月24日、ニューヨークの株式市場(ウオール街)の大暴落を発端として始まり1934年頃まで続いた。第一次大戦後、賠償やインフレ高進で混乱したドイツが安定を取り戻し、イギリスも金本位制に復帰し(1925)1920年代に世界は金地金制のネットワークに再編された。アメリカは対外援助、対外投資で「相対的安定期」のスポンサーとなり、「永遠の繁栄(パーマネント・プロしぺリテイ)」を謳歌した。しかし、戦中に拡大した農業は1929年4月頃に生産過剰で価格が暴落し、アメリカでも自動車、建築の生産が減退し始めた。余剰資金はキャピタルゲインを求めて株価を押し上げ、ついにが同年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落の日「暗い木曜日」を招き、長い深刻な大恐慌に陥った。日本では浜口雄幸内閣が1930年(昭和5年)1月に金本位制に復帰したが、世界恐慌の渦中にあって、井上財政(旧平価解禁、緊縮財政)は、巨額の正貨流出(いわゆるドル買い)と不況深化、失業増大、飢餓水準、カルテル結成が広まった。銀行は連盟融資で企業を支え、政府は重要産業統制法、産業組合合法や預金部資金その他を動員して景気対策に追われ緊縮財政は崩壊した。1931年9月満州事変勃発、イギリスは金本位制を停止し、12月、第二次若槻礼次郎内閣は瓦解した。代わった政友会犬養毅内閣は直ちに金輸出を再禁止し、事実上平価切下げた管理通貨制へ移行、軍需と結びついたインフレ政策で景気回復の軌道を敷くことになる。
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1人の青年牧師がイスラエル留学中に出会った、若いパレスチナ人女性。
パレスチナ問題と聖書の背景を扱う中で、真実な愛と信仰、和解について問いかける小説、『サムソンのように・・・ではなく』。
(112ページ)
「楔形文字」の研究や「第一神殿期の記述預言者」の研究に、長年に渡って従事して来られた、中出 繁 氏による「〜パレスチナ紛争の和解を願って〜」の青春小説です。
長きに渡る会社勤めの中で、若い牧師や青年たちを見守り仕えて来た、メノナイト派(プロテスタント)の教会員、また役員経験者としての思いが溢れる、まさに現代の「キリスト教青春小説」。
電子書籍とPOD(プリント・オン・デマンド)出版により、あなたのもとへ!!
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<著者紹介>
中出 繁 (なかいで しげる)
1937年 札幌市生まれ
札幌北高等学校卒
明治大学・電気工学部卒
日本精蝋 ( 株 ) 入社・定年
1980年 日本メノナイト・ブレザレン教団にて受洗
2004年 アミ立舎 起業
「私のイザヤ書」 上梓・絶版
2006年 「亡国の預言者」 上梓・絶版
2007年 「ダビデ王の戦い・上下」 上梓 ¥5000
2015年 「歴年体・第一神殿期年表」上梓 ¥5000
「動乱の預言者エリシャ」 上梓 ¥1800
2016年 「編年体・エレミヤ書詳解・二冊組」上梓 ¥9200
2017年 「預言者イザヤの生涯」 上梓 ¥2700
2019年 「サムソンのように・・ではなく」 上梓
( *電子書籍版 ¥200 *POD版 ¥1000 )
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土佐勤王党の下士(郷士、足軽等)庄屋(村役人)階層を基盤として結成された尊攘派同盟。文久元年(1861)8月、江戸遊学中の郷士武市瑞山(半平太)らが水戸・薩摩・長州の尊攘志士らと京都に集結を約束、帰郷して190余名の血盟者110余名の支持者を得た。参政吉田東洋は公武合体路線をとり、主張は退けられた。武市らは反吉田の保守的門閥派と結託し1862年4月登用を暗殺し、朝廷から土佐勤王への国事周旋の命をを得、藩主山内豊範を擁して入京、薩長に並ぶ勤王藩の名声を得た。盟主武市は土佐藩勤王派の代表として朝廷政府に影響力を行使、攘夷督促の勅使(三条実美、姉小路公知)に随行し幕府に攘夷実行を迫った。しかし、幕府準顧問の隠居山内容堂は1863年2月に腹心の吉田を殺した勤王党への復讐を開始、八月十八日の政変を機に武市ら幹部は収監、東洋暗殺事件を厳しく糾明、慶応元年(1865年)5月、武市を断罪した。同志多数が迫害を受け脱藩、坂本龍馬も中岡慎太郎が代表となって薩長同盟の周旋するなど幕末動乱期最終局面での重大な運動に尽力し、王政復興の方向性に甚大な影響を与えた。
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下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。
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あの夏をもう一度
作者、崗本 健太郎の小学生時代の回顧録であり、
誰しも経験する子供の頃の懐かしい思い出が詰まっている。
短編が150話ほど収録されており、
通勤や就寝前など隙間時間にも読みやすい構成だ。
作者と読者との地域性や遊びの違いや、
平成初期の時代を感じさせる作風も魅力である。
日常の喧騒を忘れて癒されたい人は是非!! -
満州事変、日本の中国東北・内蒙古への武力侵略戦争。昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件を端を発し、狭義には1933年5月31日の塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)まで広義には1937年7月7日の露溝橋事件までを指す。15年戦争の第一段階。中国側の呼称は九・一八事変。「前史」日本はポーツマス条約、対華二十一か条要求などにより中国東北地方(満州)南部を勢力範囲を収め、満蒙特殊権益と称していた。しかし、第一次大戦後、中国の反帝ナショナリズムが成長し、特に張学良政権による国権回収運動が進められた結果、日中間には紛争は頻発し、世界大恐怖による打撃も加わって、1930年末頃から「満蒙危機」が叫ばれるようになる。関東軍参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは武力行使による満州の領有を計画し、軍中央の容認の下に、奉天北郊の柳条湖の南満州鉄道路線上で爆薬を爆発させ、これを中国軍による満鉄線爆破と偽り、中国軍を急襲攻撃し、一挙に満鉄沿線を武力制圧をした。「満州国の成立」だ2次若槻内閣は不拡大方針をとったが、関東軍は軍中央の協力のもとに朝鮮軍の協力の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、政府は既成事実の追認を余儀なくされた。関東軍は1932年2月までに東北の主要な都市、鉄道を占領し、3月1日清朝内後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を発足させ、その実権を握った。「日中戦争への道」中国は不抵抗方針をとるとともに国際連盟に提訴し、連盟はリットン調査団を派遣したが、日本は9月15日日満議定書により満州国を承認し、1933年2月連盟総会が日本の主張を否認するリットン報告書を採択すると、3月に国際連盟脱退通告をした。前後して関東軍は内蒙古東部の熱河省さらに河北省に侵攻し塘沽停戦の協定により河北省東部に非武装地帯を設定し、熱河小の一部を満州国に編入した。。
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GHQは連合国最高司令官総司令部の略称で第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下に置かれたときの日本占領管理機関の一つであり、極東委員会およびアメリカ政府の対日占領政策の実施機関。俗称に連合国総司令部、連合国総司令部、総司令部、最高司令部などがある。昭和20年(1945)10月2日成立、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と同時に廃止。戦後設置された米太平洋陸軍総司令部は東京有楽町の第一生命ビルを本部として何か所に分駐した。GHQは参謀本部・幕僚部から構成され、軍事的機能を果たす米太平洋陸軍の内、極東軍、総司令部と非軍事機能(民事)を果たす連合国最高司令官総司令部の二重構造になしている。すなわち幕僚部はスタッフ機能を果たし、SCAPの局長はしばしばFECの部長を兼任することもあった。参謀部(参謀課長、副参謀長、参謀長補佐=第一部長~第4部長)はライン機能を果たし最高司令官の命令は参謀長―副参謀長を経て管下部隊に伝達された。GHQ幕僚長の構成は費用に応じて存廃が決せられたが、極東軍事裁判を担当した国際検察局(1945年12月8日設立~1949年2月12日廃止)法務局財政・経済を担当した経済科学局、マスコミ、宗教、教育関係の民間情報教育局、放送、郵便、電話関係(1945年10月2日~1952年4月28日)民間通信局、立法、行政、地方自治など13局はそれぞれ設置と廃止が定めらえた。管理監督、許認可など絶大な権力行使ができるGHQ内部の部局内などで激しい対立があった。
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下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。
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「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。
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「明治10年(1877)鹿児島私学校士族を中核に結集し・決起した西郷隆盛を擁して起こした反政府の士族反乱、国内で最後の内戦、大久保利通は征韓論をきっかけとした明治6年の政変後に内務卿に就任していた、事実上ナンバーワンの位置に立った。大久保は政府は学制、徴兵制、地租改正など近代化政策として対士族政策閉じて廃刀令と金禄公債の支給を断行したのであるが、これが士族特権のすべてを奪うこととなったもので事実で、一部士族層は反発を急激に強めた。とくに鹿児島では西郷の下野とともに帰鹿した私学校の党城士族層の反発が、県令大山綱良と結んで憲政を牛耳り政府の反目した。西郷の生活ぶりに対して誇張され伝えられ、士族の反政府の感情を煽った。熊本神風隊の乱、前原一誠の萩の乱際しては西郷は動こうとしなかったが、政府は鹿児島の動向を注視しつつ、ひそかに鹿児島にある陸軍火薬庫の弾薬を運び出そうとし、また密偵も派遣していてた。しかしそうした政府の挑発行為が発覚して、私学校士族が激高、ついに西郷も立ち上がったのである。明治10年81877」2月14日西郷を薩軍総司令官に13000の鹿児島士族を7大隊に編成し、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府晋佑(1847~1877)らが体調になって鹿児島を出発し、熊本に向かった。挙兵際して西郷は「政府への尋問の筋」があってと武装してするのだと大山鹿児島県令に届けを出していた。まず熊本城の熊本鎮台を陥れ、九州を制したうえで大坂を目指す、そうすれば九州や四国に、さらに諸国に士族の応援がある、というのが薩軍の計算であった。事実熊本、高鍋、延岡ほか九州各地から7000名余り反政府の士族の呼応があり、その中には熊本共同体の宮崎八郎など著名な民権派も加わった。
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安政の大獄は安政5年(1858)9月から本格的に開始された幕府井伊直弼政権による反対派への大弾圧事件。当時、中央政局では、日米修好通商条約締結に賛成する開国派とそれに反対する鎖攘派とが、また、13代将軍家定の後継として一橋家当主徳川慶喜をさし海防体制の構築に積極的な一橋派と紀州藩主徳川慶福を戴こうとする保守的な南紀派とが対立していた(将軍継嗣問題)。南紀派、譜代大名の筆頭彦根藩主井伊直弼を同年4月23日大老に擁立し、幕閣内の主導権確立した。直弼は5月6日、勘定奉行川路聖謨、大目付土岐頼旨を左遷したい国の端緒を開きつつも、勅諚に沿って条約締結に関して諸大名に再諮問するなど「叡慮」を人心収攬の基本とした政策を行ったが、翌6月19日(1858年7月29日)アメリカの圧力に無断違勅調印をした。同月24日の一橋派親藩大名水戸藩前藩主徳川斉昭、同藩主徳川慶篤、名古屋藩主徳川義恕、徳川慶喜、福井藩主松平慶永が不時登城し違勅調印を詰責したが、井伊政権はこれを切り抜け、翌25日に、継嗣を慶福に決定し、家定の危篤を受けて、7月5日、斉昭を急度慎、慶恕、慶永を隠居.急度慎、慶篤、慶喜を登城停止に処し反撃を封じた。これに対して、一橋派や尊攘派志士は、8月8日戊午の密勅(違勅調印と斉昭らの処罰に関し井伊政権を非難し、幕閣と御三家ら諸大名の軍議を命じたもの)を水戸藩へ、同10日幕府に降下させるとともに南紀派の巨頭関白九条尚忠の代わりに一橋派の左大臣近衛忠煕が内覧の地位につき朝政を掌握する形成をとった。井伊政権は、慶福への将軍宣下実現、条約勅許獲得、密勅の処理を目的として上京中老中間部詮勝と京都所司代酒井忠義の指揮の下、9月5日に近藤茂左衛門逮捕に踏み切り京都で公家家臣、志士、一橋派藩士を多数逮捕したい国を本格化させ江戸などでも多数検挙した。このような実力行使にり尚忠を内覧に復帰させ、1859年2月から4月にかけて一橋派公家前関白鷹司政通、近衛忠煕、右大臣鷹輔煕、前内大臣三条実万を辞官・落飾・慎に、尊融法王を慎に処した。
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日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。
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明治27年(1894)一年間、日本が清国と戦った戦争。「政治危機下の日本」1894年5月、朝鮮では東学奉ずる農民の蜂起(甲午農民戦争)により全羅道の首府全州が陥落した。朝鮮政府は宗主国の清国に救援を求め、清国はそれに応じた。天津条約(1885年)の規定によりその通告を受けた日本政府は、議会で内閣不信任案が可決された政治的危機に直面していたため、世論転換のために公使館と在留邦人保護を名目に川上操六参謀本部次長と陸奥宗光外相の謀議により混成旅団を出兵を決定した。内閣が宣戦を決議する以前の平時にもかかわらず戦時大本営条例により大本営を設置、参謀総長が用兵の全権を握り出兵した。両国の派兵で擾乱は収まり、清国代表の袁世凱も日清同時に撤兵を提案したが、陸奥外相は膨大な経費を要いて出兵したからには何らかの権利を得ないまま撤兵は世論が許さないと判断、清・朝鮮両国が到底承認できないと赴援清国軍の朝鮮国外退去と、日清両国が対等な立場で朝鮮内政を改革する要求を期限付き最後通牒の形式で両国に送付した。期限切れの7月23日、日本軍は朝鮮王宮を攻撃、親日派政権を樹立させて牙山の清軍攻撃の依頼をもぎ取り豊島海戦と成歓の戦いを経て8月1日清国に宣戦布告。9月15日、平常総攻撃、翌日占領、同17日黄海海戦で制海権を確保した。天皇は大本営を広島に進めた。10月15日同地に召集された臨時議会は一変臨時軍事費特別会計を満場一致無修正で可決した。1894年10月24日、日本軍は鴨緑江を渡河して中国領内に侵入、11月24日、旅順要塞を一日で落とした。このとき、のちの国際問題となる虐殺事件が起きた。伊藤博文首相は、大本営列席を求め、陸軍が主張した大本営大陸動座と、列強の干渉を招くこと必然の直隷平野の決戦に反対をし、清国が優勢な艦隊打破のための威海衛攻略と講和条件を有利とするための澎湖島占領を提案事項させるなど統師を抑え政戦両略の一致を図った。北京に鬼気迫った清国は1895年4月17日下関条約に調印し講和した。
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二・二六事件は昭和一一年(1936)早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件。陸軍第一師団下の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校20名、下士官88名、兵1375名などが総理大臣岡田啓介、内務大臣斎藤実(即死)大蔵大臣高橋是清(即死)教育総監渡辺錠太郎(即死)らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯が原町で前内大臣牧野伸顕を急激した。蜂起部隊は永田町・三宅坂一帯を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。収集を急ぐ陸軍大臣川島義之は宮中の協議の結果、この日の午後3時30分「陸軍大臣告示」を決起舞台に下達した。そこのは「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノと認ム」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかに見えた。しかし、翌27日午前8時50分、東京市には戒厳令が施行され、28日午前5時8分には「反乱軍」の原隊復帰を命ずる「奉勅命令」が下された。この状況転回には、重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐するとさえ言った昭和天皇の強い意思が働いていた。事態は杉山元参謀総長と石原莞爾作戦課長を中心に鎮圧に向けて動くが「紅軍相撃」の危機も切迫、これを回避するため「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送が流され、帰順を勧めるビラがまかれた。こうして29日の午後、反乱軍は帰順し事件が終結した。同年3月4日「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」の特設陸軍軍法会議が設置され。7月5日には死刑17人を含む判決が出された。また翌年8月には村中孝次、磯部浅一、とともに思想的指導者として北一輝、西田税が処刑された。この事件の背後には、権力の掌握によって「高度国防国家」の次元を目指す統制派幕僚と「君側の奸」を排除した「一君万民」の理念の実現(昭和維新)を目指す皇道派青年将校との、国家構想をめぐる二重の対立が含まれていた。その意味で、反乱軍の鎮圧は軍幕僚の主導権の確立を意味し、以後、軍部は政治的発言を増し、戦争への道を突入していった。
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「恋には犠牲がつきもの」「犠牲には血がつきもの」――。
みどりは兄と、とあるマンションに腰を落ち着けたが、その街では奇妙な傷害事件が起きていた。また、前後して姿を現した川辺の見世物小屋とは……。
吸血鬼をテーマにした長編小説『サンギーヌ』派生作品、主要登場人物の過去エピソード。少し昔の都会の片隅で起きた、奇妙な事件に巻き込まれた少女の、冷たい情熱と欲望。 -
そのノイズは銃声へと変わる。
AIが作成したVR技術を使用したバーチャルヒューマノイドーーVHの出現により、世界中のエンターテインメントから人間が淘汰されかけていた。
だが、人間の奏でる音楽に魅入られた少年、成沢奏は路上で出会った流浪のギタリスト清音に教えられギターの道に邁進していく。
VHがエンターテインメントに飽き足らず、政治にまで介入しようとしている社会でも奏はボーカリストの少女と共に社会にギターを抱え挑む。
人間の魂を込めた音で。
その音がやがて、世界を壊すトリガーを引く事になるとも知らずに……。
DESTROCKERSシリーズ第5弾!!AIの世界浸食はまだまだ止まらない。 -
復讐の為に生きる彼女の、その相手は……?
監視された街・サベイランス市。
無法地区とも称される歓楽街。通称アンダーグラウンドでショウガールとして生きるエミィの夢はトップアイドルになる事だった。
成り行きでエミィのショウを見る事になった『彼女』は、エミィに心惹かれその夢を叶えようと奔走する。
だが、エミィとの会話の最中に植え付けられた自分自身への疑問から、現実を突きつけられる事となる。
親を殺害した犯人に復讐するべく生きていた『彼女』が辿り着いた犯人とは……。
DESTROCKERSシリーズ第4弾!!
『OUTLET CHILDREN』で起きた戦争の真実も遂に明かされる。 -
非現実と現実の曖昧な境界で彷徨う少年の結末は……。
監視された街・サベイランス市。
この街ではVHと呼ばれるVR式のヒューマノイドが流行していた。
コンタクトレンズ型のデバイスを使用すれば、自分で作成した好みのキャラクターが現実に入るように見えるというサービスに中学生のレノは夢中になった。
夢中になった故に、現実とのその境界を見失う事になってしまう。
一方で、VHの社会進出は留まる事を知らない。
それを『有害』と判断した『彼女』は立ち上がった。
DESTROCKERSシリーズ第3弾!!
物語は世界の片鱗を見せ始める。
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誰でも自由になりたい
短編よりも短い小説 、掌編とは、「ショートショート」、「○行小説」、「一枚小説」、「手のひら(掌)小説」などと呼ばれることもあります。 お読み頂くのに、さほどお時間は取らせません。サラッとお読みください。 そんな短い文章の中にドラマを興し、登場人物たちに命を吹き込み、そして読後、あなたの心に何かを残せることができれば、幸いです。***中学受験まで、残り一年の拓也。そして、ハッパを掛ける母親の美枝子。いつまでたってもヤル気の起きない拓也に思わず手を上げてしまう美枝子。拓也は、耐えきれず家を飛び出してしてしまう。 -
人生を棒に振って自己顕示欲に負けた対価はなんだった?
娘を殺された滝沢圭司は警察の捜査に協力しながらも、独自の捜査を続け犯人を追う。
犯人に攪乱されながらも事件を担当していた小柳未来は、交通課の葵青児の協力により真犯人に辿り着くが……。
SNS・動画配信が日常となった今の時代に宮間灰人は問う。
「その動画の再生回数と同時に君は何を得た?」
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滅亡した町の中では、二人は世界の半分ずつだから
体が溶けて死んでしまう奇病、通称『メルト』が急に勃発した波南町は、外部への感染を防ぐために急遽高い壁で隔離された。
波南町に住む『わたし』は、壁の中に閉ざされたまま、壁の外にいる友人にも恋人にも排斥され、壁の中にいた人々も死に絶えた……はずだった。
死ぬまで一人でいることを覚悟した少女が、誰もいない町で見つけたのは、真新しい落書き。自分しか生き残っていないと思っていた場所に残される誰かの痕跡。
たった二人だけ生き残った町で『もう一人』の名前を呼ぶまでの物語。 -
暗がりを浸し流れるわたしの血だけが惨劇の海への道標だった
平凡な四人家族が惨殺される事件。十二歳の誕生日に起こった『最初の事件』でただ一人残った少女、万里はそれ以前の過去を全て失っていた。
犯人が万里の体に刻んだ逆三角形の印。悪夢を見るたび、塞がったはずの傷から血が流れる。
少女が養親の家で穏やかな日常を取り戻した頃、『マリ事件』と呼ばれた四人家族の連続殺人が起こり始め、その現場には必ず万里へのメッセージが残されていた。あの夜に起こったことは何か、自分が失ったものは何なのか。万里が失ったあの夏の夜の欠落を埋められる日は訪れるのか──
痛みを抱える少女のための青春サスペンスホラー。 -
ただ恐怖していたあの日に戻ることができればいいのに
自分が恐怖を抱いているのは『ここ』だ。ヒヅメ坂だ──
もうすぐ秋の祭を迎える頃。閉鎖的な集落、ヒヅメ坂に住む少年、来(きたる)は何の理由も兆候もなく強い恐怖感が起こり、外に出ることが困難になった。
大切な四人の幼馴染み達と共に、何に恐怖しているのかを探ろうとするが、その合間にもヒヅメ坂は刻々と異様な場所へと変わりつつあった。その頃から徘徊しているらしい不審な女。家庭訪問に来た担任教師が体を引きちぎられて死亡した頃から、自分の周囲の人々が変化しつつあることに気付く。
このヒヅメ坂で何が起こっているのか。少年は自分の恐怖の根源を知ることができるのか?
クトゥルー神話をモチーフとした青春怪異譚。 -
墜落死する彼らは天使を願った。その痛みすら、きっと僕には手に入らない。
通っていた塾の屋上から、生徒が一人飛び降りたのを目撃してしまった伊藤章生は、他校で流れている『勇気を代償に天使を買う』噂を知る。死んだ少年は『天使を買うために勇気を出して死んだ』のだという。
章生は『天使』と目された少女、美景や、事件の際に知り合った少年達と共に、連続して起こる事件に巻き込まれていく。
死んでしまった、壁画の作者である『彼女』の思い出と死を追いかけて、少年達は真実に辿り着く――少年少女の夏はどんな形で終わりを告げるのか。少年少女の死と傷をはらむ夏の日の物語。 -
文庫本の解説を最初に読む人! きっとあなたもそうにちがいない!
そんな解説が100本以上!
20年にわたるSF、ファンタジー、ミステリー等々エンターテイメントを網羅した解説集の決定版。
解説:池澤春菜 -
戦国の世で共に成り上がりを夢見る、“武人”と“商人”の立身出世伝、第2弾。
21世紀より激動の戦国時代に転生した青年、山田俊明。
両親の仇である野盗集団シガル衆を撃破した彼は、1554年の甲賀において、なお戦い続けていた。
そんな彼の前に現れたのは、織田信長の弟・信勝、柴田勝家、そして熱田の銭巫女と名乗る謎の女の3人。
目的のためなら子供さえ利用する銭巫女のやり方に怒りを覚える俊明だったが、その彼に藤吉郎(豊臣秀吉)がある依頼を持ってくる。それは甲相駿三国同盟によって政情が変わった今川氏の領土の偵察であった。藤吉郎と共に、三河、遠江、駿河へと旅をする俊明。その過程で出会ったのは、大泥棒の石川五右衛門、頭陀寺城の松下嘉兵衛、そして江戸幕府初代将軍の徳川家康。人と人が織りなす数々の縁を経て、物語は銭巫女との決戦へと移行する。織田信長と織田信勝、山田俊明と熱田の銭巫女、ふたつの激突。『稲生の戦い』の幕開けであった――
戦国の世で共に成り上がりを夢見る、“武人”と“商人”の立身出世伝、第2弾。
主人公の転生前を描いた完全書き下ろし小説『山田俊明、十七歳の秋』を収録。
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