戦後はまもなく73年を迎えようとしている。今振り返って当時の考察することによって、今日の抱えている日本の、問題点の根源と成す戦後史の史実を再検証することによって、現在抱えている課題や問題を、今後の日本の指針を探る鍵が秘められているのではないかと思われる。戦後日本を決定する「ポツダム宣言」の受諾に関して紆余曲折の過程を経て戦争終結の決断がなされた。玉音放送へ占領軍の受け入れからGHQの統治、連合軍最高司令官総司令部に全権に負託されたダグラス・マッカサー元帥であった。矢継ぎ早に繰り広げられた統治政策、戦後日本の復興の歩み、アメリカナイズされた民主主義の布教に互いに交渉と譲歩を重ねながら構築されていった。手始めに戦争責任者の追及、戦争指導者の逮捕、軍事裁判。戦前の政治家たちと高級官僚の公職追放と5財閥解体、言論統制はいかなる発言もGHQ統治に障害のあるものは禁止された。不可能を可能に、農地改革はGHQの威光を持っての実施であった。非軍事化を望んだGHQの憲法の手交は日本の未来に未解決の禍根を残す根源と成した。急速な戦後復興と戦争処理は並行して行われていった。また重くのしかかった戦争賠償、国際貿易と国交復興、サンフランシスコ講和条約が昭和27年9月8日を持って日本が独立するまでの長いGHQの統治時代の終焉し、戦後第二幕が始まった。今、70年前の混沌とした第二次世界大戦の後に、統治したGHQの痕跡によって未解決に繋がる諸問題が現存し、現代日本のGHQの功罪となる種々は一言に語り切れないが、今こそその当時を振り返り、GHQと戦後日本を検証しなければならない。復興と賠償、日本が降伏してGHQの統治下、アジア諸国からの戦争賠償に迫れていた。金が無ければ物品賠償、中間賠償として、昭和25年まで日本各地の工場機械など4、3919台梱包され撤去された。中国はじめアジア各地に送られた。軍需工業の再開を危惧したGHQ指示であった。日本が第二次世界での戦争賠償や補償は総額は約一兆円で昭和25年の予算の歳入は7、168億円だったのでその規模や負担が想像を絶する賠償と補償を課せられたのである。因みに終戦時の日本の人口は7、215万人であった。