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『歴史の回想(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全65件

  • 歴史の回想

    柳生十兵衛(柳生三厳)(やぎゅうみちよし)1607年~1650年)江戸初期の幕臣、剣術者。柳生宗矩の長男。幼名七郎、通称十兵衛。1616年(元和2)徳川家康に拝謁。1619年から家光に仕え籠があつかったが、1626年(寛永3)には勘気を受けて、柳生に帰って柳生流武芸の研鑽に励んだ。1638年までには許され、1646年(正保3)父の遺領の内8300石を継いだが、44歳で急死した。若いころからかなりの暴れ者であったというが、剣術には早くから才を示し理論上の研究も深めて「月之抄」などの述作がある。隠密として諸国を回ったとか、集眼の剣豪であったなど、伝説は多いが信憑性は薄い。
  • 肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官であった。龍造寺隆信が家を継ぐと、主家を少弐氏を滅ぼし独立、異父弟の鍋島直茂、四天王と讃えられた百武賢兼・成松信勝・円条寺信胤・倉町信俊らの勇猛な家臣の活躍で、筑前・筑後・肥後に勢力を伸ばしていった。 龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であった。しかし、隆信は武勇・知略には長けていたものの、残忍な性格も併せ持ち、新参の武将のなかには彼に心服していない者も少なくなかった。 天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、嫡子政家に有馬討伐を命じたが、有馬氏は政家の妻の実家ということでもあり、有馬氏討伐は遅々として進まなかった。これにしびれを切らした隆信は自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。一方、有馬軍の兵力は約3千で、晴信は島津家に援軍要請を出し、龍造寺軍に備えようとした。 晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。 島津軍の来援で、有馬軍は活気を取り戻した、とはいえ有馬・島津両軍あわせて六千余りの軍勢でしかなく、龍造寺軍の三万に対して態勢であることは変わらなかった。そこで家久は、有馬方の諸将と協議した上で、戦場場を島原北部の沖田畷とした。沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に左右2・3人並んで通るのがやっとの畦道があるだけの地で、大軍を展開することが困難な場所であった。
  • 箱館戦争(五稜郭の戦)蝦夷地箱館を中心に道南で戦われた。戊辰戦争の最期の戦いで箱館戦争ともいう。五稜郭の戦と呼ばれるのは旧幕府軍が本拠を置いた五稜郭の攻防戦に因む。旧幕府の海軍副総裁榎本武揚らは東洋一の最新鋭軍艦開陽丸などを擁して。1868年(慶応4)4月の江戸城開城後8隻の艦隊で品川沖を脱走。前老中板倉勝静らの旧幕府、フランス軍事教官ブリュネや旧幕兵を加えて兵力1500人を集め、10月に蝦夷地鷲ノ木に到着し、南下して箱根へ向かった。新政府の箱館府知事清水谷公孝は青森に敗走旧幕府軍は、11月には松前藩の福山城を攻撃し、道南を平定した。五稜郭に本営を置き、陸海軍の仕官以上投票によって榎本武揚を総裁に選び、陸軍奉行に大鳥圭介が陸軍奉行並びに土方歳三が就任し、軍事指導に当たった。外見としては共和国制を敷いたが、政権の経済的な基盤は旧来の場所請負制と、強奪的献金にあった。1869年(明治2)2月新政府は黒田清隆らを参謀に大軍で進軍を開始した。前年11月、開陽丸は座礁し沈没しており、榎本軍は海軍の要を失っていた。榎本軍は3月25日岩手県宮古港の新政府軍艦隊に奇襲をかけたが失敗。4月、新政府軍は江刺周辺に上陸し、矢不来の激選を制し、箱館を海陸から総攻撃をした。旧幕府軍の中島三郎助らは徹底交戦して16日に戦死したが、五稜郭で防戦した榎本らは18日に降伏した。この戦争を最後に戊辰戦争は終結した。
  • 平将門の乱・平安前期、関東に起こった内乱。下総・常陸の一族間に私闘を繰り返した平将門が939年(天慶2)11月常陸国府を焼き払ってのち、下野・上野の国府を次々襲って国司を追い払って、自ら新皇を称し、坂東諸国に受領を任命するなどしたもので、古代末期の本格的な反乱。藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と言われている。はじめは女論(女性をめぐる争い)により931年(承平元)叔父で舅の良兼と争う。935年に叔父国香や前常陸国野本などの合戦で殺害し、ために族長の伯父良兼の率いる一族の軍と闘うこととなり、源護の告発で中央政府の召還を受けた。将門は上京し釈明して許され帰郷したが、なお一族と国香の貞盛を信濃国国分寺付近に追って合戦し、摂政藤原忠平より召喚を受けている。938年(天慶元)秋頃、武蔵国権守興世王らの徴税攻勢に抵抗する足立郡司武蔵武芝に加担し、939年2月頃、武力調停で興世王と和解したが、武蔵介源経基は自分が謀殺と通報した。同年11月常陸国司らに常陸国府軍闘い国府を占拠、略奪。興世王の「一国を討つ責めは軽くはない。同じことなら坂東を慮掠して様子をみよう」の言をいれ、12月に下野・上野と次々に国府に襲い掛かり手中に収めた。上野国府で坂東諸国に受領を徐目を行い、また神がかりした昌妓巫女の「八幡大菩薩菅原道真の霊が朕の位を将門に授ける」との宣託により新皇に即位した「将門記」は記す。また下総の邸何に王城を建て大臣以下百官を任じ、内印・外印の寸法を定めたと記すが、定かではない。しかし弟の平将武らを伊豆国守などに任じて坂東を制圧、新たな政権樹立を企てた可能性がある。939年12月下旬、豊前国・播磨国の国司を襲撃した藤原純友は、4月に発生した出羽国の俘囚の乱や、将門の常陸国襲撃の報せを当然耳にしたであろう。将門が純友の国司襲撃事件を知ったか定かではないが、相前後して940年初頭よリ坂東諸国の制圧を拡大させ、地域での利害衝突はなお激化していった。そこで政府は、年末に発生した純友国司襲撃事件に対して、都の防備を固め、諸国追補使を、ついで追補凶賊使を、任命し瀬戸内海に送り込んだ。
  • 「古代日本に天然痘の襲来」人類誕生後、弛まない進化によって、この地球上に高度な文明を構築し地球上の征服者として君臨してきたが、その文明科学に立ちはだかる三大脅威・苦難が「天災と戦争と疫病」がある。日本史上を見ても、平城京に襲った天然痘の大流行があって、政治の政権中枢にあって権勢を誇った「藤原四兄弟」は次々に天然痘(疱瘡)に亡くなった。一時は政治も朝廷の儀式・行事も機能しなくなったという。また民百姓まで伝染し、一説に日本の人口の4分のが失われたという。今日では放送は根絶されたというが、我々子どもの子供頃は学校で疱瘡の予防接種が腕に傷つけ菌を植え付け抗体をつけたものである。「東アジアから日本に来襲した天然痘」中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。
  • 大名家の家騒動

    越後国高田藩で、藩士が二派に分かれて争った御家騒動。1665年(寛文5)の大地震後、藩財政窮迫打開のために家老小栗美作は諸施策を進め成果をあげたが、同時に小栗と配下吏僚に権力が集中し譜代藩士大多数が反感を持った。1679年(延宝7)正月、藩主松平光長の異母妹を妻とする小栗の子、大六を藩主とする陰謀が露見したとして騒動が始まる。幕府は美作を引退させ家老たちが合議制をとるべき調停を命じたが、反対派は納得せず誓紙を集めて一層団結した。大老酒井忠清は、藩主の弟氷見大蔵家老荻田主馬ら反対派を処罰し各藩に預けた。反対派は承服せず、多数が浪人した。農民は度々巡検使に小栗に悪性を訴えた。幕府は両派首脳を再度取り調べ、結局将軍綱吉の親裁により、1681年(延宝9)6月小栗美作・大六は切腹、氷見・荻田ら八丈島へ、ほかにも流罪やお預けとなり、藩主光長は改易となった。藩主美作父子を重用しすぎ、譜代家臣統率を怠ったことが、騒動の要因である。農民層の動きは複雑で、藩主光長が1687年(貞享4)許されて江戸に帰ると、大肝煎りのなかに祝賀の挨拶に赴いたのが多数あった。
  • 平治の乱(1159年平治元)に京都に起こった争乱。後白河天皇藤原通憲(信西)は保元の乱後の朝廷を主導し、保元新制発布、記録書設置、大内裏復興など、目覚ましい活躍をした。しかし、1158年(保元3)に後白河天皇の子二条天皇に譲位すると、院の寵愛を受けた藤原信頼、二条天皇親政を目指す藤原経宗らによって反信西派が形成されていった。一方、保元の乱の後白河天皇も武力中心であった平清盛と源義朝と義朝の間に確執が生じていた。1159年12月4日に清盛が熊野詣に出立すると、信頼・義朝は9日夜半に内裏、院御所派の協力のもとに院と天皇を幽閉した。脱出した信西は宇治田原の山中に自害し、その首は京都で獄門にかけられた。急遽帰京して、16日の夜半六波羅邸に入った清盛は、信頼に名簿を提出して恭順の意を表したが、天皇側近の経宗・惟方と密かに結んで、天皇と上皇の脱出工作に成功、両人を六波羅に遷御させた。これによって形成は逆転、追討の宣旨が報じた清盛は、信頼・義朝の軍勢と戦い勝利を収めた。捕らえられた信頼は27日に六条河原で処刑され、義朝も東国に逃れる途中、尾張国の内海で永田忠致の謀殺された。義朝の三男頼朝は清盛の継母池禅尼の口添えにで一命を助られた。伊豆国に流された。この戦乱で、京都は源頼政を除き清和源氏の武力は一掃され、朝廷の軍制において、清盛の軍事力が果たす位置が圧倒的に大きなものになり、平氏の朝廷における勢力伸張の契機となった。
  • 戦国時代

    「御館の乱・御館は新潟県上越市にあった城館。かつて越後の中心地として府中あるいは府内と呼ばれていた一角、今日のJR直江津駅の西南方、関川の自然堤防上にあった中世の城館である。東西約250m・南北約300mの規模を持ち、主郭を含め5つの郭で構成されていたもので、越後では最も規模の大きな城館とされる。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を居城としていた関東管領の上杉憲政は1551年(天文20)3月、小田原北条氏(北条氏康)が上野に侵攻したことから、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れた。謙信は憲政を迎え、その居館(関東管領館)として、弘治年間(1555~58年)に居城の春日山城(上越市)の城下に建設したといわれている。謙信はこの館を外交館としても使用した。その後、御館は謙信の死後の1578年(天正6)、上杉景勝と上杉景虎の2人の養子が争った御館の乱の主戦場の一つとなった。御館の乱では景勝が春日山城を拠点としたのに対し、景虎は春日山城を脱出して御館を拠点とした。翌1579年(天正7)2月18日、景勝は御館を包囲して食糧を遮断し、3月17日に一斉攻撃を行い、御館は炎上・落城した。このとき、上杉憲政は春日山城に和議交渉に向かう途中で景勝の兵により殺害された。上杉景勝が豊臣秀吉により会津へ移封された後、この地に入った堀秀治は御館跡を利用したともいわれるが、1599年(慶長4)時点ですでに耕地になっていたといわれる。1964年(昭和39)に行われた跡地の発掘調査で、建物や庭園、井戸跡が見つかり、櫛や簪のほか鉛製の銃弾なども発見された。現在、御館跡の一部が御館公園となっている。園内には御館があったことを記した石碑が建っている。JR信越本線・北陸本線直江津駅から徒歩約10分。
  • 戦国時代

    賤ケ岳の戦い(1583年)天正11年4月、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。秀吉は山崎の戦で明智光秀を滅し清洲会議によって織田信長の孫の(三法師)を後継者に据えたが、宿老筆頭格にあたる勝家は、信長の三男(信孝)を擁してこれに対抗した。秀吉は1582年10月に、他の宿老えお排除する形で信長の葬儀を盛大に行い、さらに越前国北ノ庄に居城する勝家が雪で行動が困難な時期を見計らって美濃から近江に兵を進め、信孝を孤立させた。勝家はこれを助けるために南下し、賤ケ岳から柳ケ瀬で合戦が行われたが敗退し、居城の北ノ庄で自殺した。
  • 源平の攻防

    保元の乱(保元元)京都で起こった争乱。同年7月2日の鳥羽法皇の死去を契機として、天皇家では崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠実・藤原頼長の父子と忠実の長子藤原忠通の対立が激化し、朝廷は崇徳・頼長の上皇方と後白河・忠通の天皇方に分かれた。上皇方は源為義・平忠正、天皇方は平清盛・源義朝・源義康らの武士を招き、都は武力衝突の緊張が高まった。このなかにあって、天皇方は天皇の近臣藤原通憲(信西)を中心に、禁中・京中の警固を固め、忠実・頼長父子の軍兵を招集を禁じる綸旨を発した。このような天皇方の挑発に追い詰められてた上皇は、同月10日に白河北殿に武士を招集して臨戦態勢にはいる。無勢を理由に為義らは退いて東国武士の来援を待つか、内裏に夜襲を行うか2案をていあんするが、大和の武士の来援を期待する頼長に退けられた。翌日11日払晩、天皇方の軍勢が三手に分かれて九州、上皇方はあっけなく敗北した。上皇方は13日に仁和寺に投降し讃岐国に配流された。頼長は流れ矢を受けて傷つき奈良まで逃れて落命した。頼長の子らは流罪・為義・忠正らの武士らは斬罪に処せられた。
  • 鎌倉時代

    宝治合戦1247年(宝治元年)6月、相模の有力御家人三浦泰村一族が執権北条時頼、安達景盛らによって滅ぼされた事件。三浦氏の乱ともいう。三浦氏は幕府創業の功臣であり、泰村も執権泰時の女を娶るなど代々北条氏と婚姻関係を結んで、相次ぐ内乱を生き抜いてき、相模・武蔵においては北条氏に比肩しうる最後の武家であった。泰村の弟で評定衆として幕府政治に関わってきた光村は、1246年(寛元4)名越光時の京都送還後も、頼経に心を寄せ時頼打倒を画していた。この動きを知った時頼の外祖父景盛は、出家先の高野山から鎌倉に戻り、19歳で執権についたばかりの時頼と謀って、光村処分を打ち出して三浦氏を挑発し、ついに、子義景・孫泰盛とともに泰村一族を滅ぼした。源頼朝の墓所法華堂で泰村とともに自殺した者500人を超え、諸国で三浦氏の与党が討伐された。この事件によって幕府膝下地域で対抗するものは無くなり、北条氏の専制体制が開かれた。
  • 源氏挙兵

    以仁王(1151年~1180年)後白河天皇の第三皇子。兄の守覚が早く出家したため、普通は第二皇子とされる。母は権大納言藤原季成の女成子。三条高倉に邸宅があったために、三条高倉とも呼ばれた。幼少時、天台座主最雲の弟子となるが、師の没後の1165年(永万元)元服。鳥羽上皇の皇女八条院の猶子となる。英才の誉れが高かったが、異母弟憲仁の母憲春門院平慈子の妨害で、親王宣下さえ受けれなかった。1179年(治承3)の平氏のクーデターで後白河院が幽閉されると、王も最雲から譲られた多年知行していた常興寺領を奪われた。よく1180年4月源頼政を誘って平氏打倒の兵を挙げ、同時に全国に平氏討伐の令旨を7発した。挙兵は事前に漏れて、園城寺から南都に向かって敗走途中の5月26日、光明山鳥居前で戦死した。挙兵は失敗であったが、令旨は大いに広まり、その後の内乱を引き起こすきっかけとなった。源頼朝によって、その生存説意図的に流された。
  • 鎌倉時代

    承久の乱・1221年(承久3年)後鳥羽上皇が討幕を図った挙兵した事件。鎌倉幕府成立によって勢力範囲内が狭めらえていた朝廷で王権の優位を唱える後鳥羽上皇が、幕府の内紛をついて滅ぼそうとしたもので、直接の前提は前々年正月の将軍源実朝の暗殺にある。暗殺の数年前には、実朝の後継者として上皇の皇子をを関東に下す約束が、上皇の側近卿二位藤原兼子と実朝の生母北条政子との間で合意されていた。実朝は後鳥羽上皇に恭順な態度で一貫して保持し来ており、後鳥羽上皇の近習の源仲章侍読として側近に加えていた。実朝を受け皿にして皇子を将軍となし、幕府の服属させていくのが後鳥羽の考え方得た方向であったろう。しかし実朝の死によって目論見が崩れたことから、上皇は幕府からの皇子の下向の要請を断り、さらに寵愛する白拍子亀菊の所領である摂津長江・倉橋荘地頭を改めるように幕府に求めて様子をうかがっていた。しかし幕府はこの要求を拒み、結局、九条家から幼少の三寅を将軍候補に迎えることになった。この時点で上皇は実力で幕府を倒す決意を固めたと考えられる。場k府は北条氏勢力の巨大化につれて、反北条勢力の台頭しつつあったこと、西国を中心に朝廷の勢力が回復してきたこと、多くの西国の守護や御家人の挙兵への協力を求めたことなどが、討幕の確信をたかめた。1221年4がつ、順徳天皇即位させ、仲恭天皇を即位させた鳥羽上皇は、天皇の代替わりを理由に5月14日に鳥羽の城南宮寺の流鏑馬揃えと称し兵を集め、翌日執権北条義時に追討の宣旨が発するとともに、誘い込んだ京都守護の伊賀光季を討った。北条政子は御家人を結束を訴えるとともに遠江・信濃以東の東国の武士に檄を発した。北条泰時・時房の率いる東海道10万騎、東山道5万騎、北陸道4万騎の大軍が京に向けて進軍した報せを入った時点で、上皇側の敗北は明らかであった。上洛を阻止するために軍勢を美濃に派遣したが防戦むなしく、京方逃げ戻った。上皇は武装して比叡山に上ったものの、支援を断られ、氏川の防衛線も突破され降伏した。幕府は、後鳥羽、順徳と土御門の3上皇を隠岐に・佐渡・土佐に流すことを決定。仲恭天皇を廃して後鳥羽の兄守貞親王を上皇に据えて、その子後堀河を即位させて朝廷の体制を一新し、京都に六波羅探題の監視下に置いた。乱の首謀者とみられる藤原光親らは関東に護送される途中で斬られた。
  • 室町時代

    「長享・延徳の乱の起因」(ちょうきょう・えんとくのらん)とは、室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。文明9年(1477年)に応仁の乱が収束したのち、各地では守護や国人らが寺社領や公家の荘園などを押領して勢力を拡大していた。旧西軍に属していた近江守護・六角行高も荘園や奉公衆の所領を押領していた。しかし、長享元年(1487年)7月、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こした。さらに寺社本所領押領も発覚、幕府はその威信回復を企図して六角氏討伐の兵を挙げ近江に遠征した。文明11年(1479年)11月、第9代将軍・足利義尚は判始を行ったが、先代将軍の足利義政は政務移譲を渋って対立し、文明17年(1485年)4月には奉公衆と奉行衆の諍いから、布施英基が義尚の小川御所にて奉公衆に殺害されている。そして、長享元年(1487年)9月12日、足利義尚は、管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信等の守護大名、在京奉公衆、在国奉公衆、さらには公家衆も率いて近江坂本へ出陣した。この時、義尚は奉行衆も連れており、鈎の陣は実質的に幕府の政務も担ったが、奉行衆のうち義政側近であった伊勢貞宗、飯尾元連、松田数秀等は同行を許されず政務から外された。義尚の遠征に対し、六角行高は観音寺城を放棄して撤退した。しかし、甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開し、戦闘は膠着状態に陥った。
  • 室町時代

    明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。
  • 源平合戦

    1180年(治承4)の以仁王・源頼政の挙兵から。1189年(文治5)の奥州合戦に至るまでの、10年間にわたって全国的に展開した内乱。1179年11月、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して政権を樹立すると、翌年以仁王・源頼政らは、以仁王の令旨を発して諸国の反平氏武士に蜂起を呼びかけるとともに、平氏の政策に反発する園城寺・興福寺などの權門寺院勢力と糾合して挙兵の準備を進めた。1180年5月個の挙兵は事前に露顕し、平氏軍によって鎮圧されたが、8月伊豆国で源頼朝、9月に信濃国源義仲が挙兵し、甲斐・紀伊・豊後・土佐・伊予などの諸国でも蜂起が相次ぎ、内乱は同時多発的形態をとって瞬く間に全国的に広まった。子の内乱が地域社会に巻き込んで一斉に広まった理由について、かつては古代的貴族階級に対しする在領主階級闘争として理解されてきた。しかし」王朝貴族の、封建領主としての性格が指摘されとともに、鎌倉幕府に結集することが必ずしも在地領主制一般の発展コースではなかったことが主張されるようになり、この見方は後退ししつつある。むしろ荘園公領制の形成に伴って、地域社会の在地領主間の競合・矛盾が展開されてきた。富士川の戦のあと上洛を主張した源頼朝に対して、有力御家人の上総広常や千葉常胤らが反対して、彼らと所領紛争を続けていた。平氏軍の北陸道遠征での敗戦であり、7月の平氏西走、木曾義仲・源行家軍の入京と、情勢は急激に変化していった。1184年1月、義仲軍を破って入京した頼朝派遣軍は2月に一の谷の戦で勝利し畿内、近国を軍事制圧し。翌年1185年(元暦2)3月壇ノ浦で平氏一門を滅亡させた。
  • 戦国時代

    「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)の本能寺の変に端を発して実質的に統治者不在となった甲斐・信濃・上野で起こった戦役である。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。天正10年6月の本能寺の変後、織田政権を離反した北条氏は織田氏による仕置が行われたばかりの旧武田領に侵攻した。これに対し、織田体制下の一大名である徳川氏が織田体制の承認のもと、討伐に当たったことによって引き起こされた紛争である。さらに上杉景勝や、真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。
  • 紀州攻めは当初織田信長が始め、天下統一志半ばで本能寺の変であ結光秀の謀反んで横死、代わって羽柴秀吉が紀州の諸勢力を平定した合戦(紀州平定)戦国末期の紀州北部では高野山、粉河寺、根来寺、雑賀一揆が地域の勢力を構成し、本能寺の変後、秀吉との対立先鋭化させていた。1585年(天正13年)3月21日、秀吉は10万の大軍を率いて大坂城を出発。その日のうちに紀州勢の防衛線の中心戦国彫城を経汽船の末落城させている。23日、秀吉軍が根来寺に進むと。何の抵抗もなく、その夜は根来寺の大半が焼亡した。翌日は雑賀衆一揆が解体され、粉河寺も焼亡した。4月22日、水攻めにされた太田城が開城、この間に、高野山を武装化解除の上降伏させた。かた、紀州南部の国人湯川直春を追放し、堀内氏善を服属させた。紀州攻めの圧勝で、秀吉による全国統一は大きく前進することになった。
  • 1572年(元亀3年)12月、武田信玄と徳川家康が遠江国三方ヶ原(現静岡県三方原)で行った合戦。信玄は、織田信長・徳川家康包囲網を形成後、信濃伊那谷から信遠国境を超えて南下、徳川方の二俣・掛川城を攻略し、家康の本拠浜松城に迫った。しかし信玄は無理な攻撃を避け、西方の三方ヶ原に進み、家康を迎え撃った。家康は惨敗し浜松城に逃げ帰り、勝利した信玄はさらに西進し翌年三河野田城を攻略した。
  • 「月山富田城の戦いとは」(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。家督相続永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。幼名が、父祖たちも用いた又四郎でなく三郎四郎であったのは政久の長男にあたる兄がいたからである(ちなみに晴久の子の義久も同様である)。しかし、政久の嫡男(跡取り)となる筈であった兄(名乗りは又四郎か)は夭折。これに伴い次男の三郎四郎が代わって政久の跡目と成る。さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。このため祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった。元服後の初名は詮久(あきひさ)と称した。大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。この頃、尼子氏は重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗した事で、毛利氏の大内氏への転属を許し、備後国や安芸国への支配力低下を招いていた。享禄3年(1531年)、叔父・塩冶興久が謀反を起こす。同年5月28日付の大内氏家臣・陶興房の書状には大内氏が塩冶興久・尼子経久の両者から支援を求められ、最終的には経久を支持していることから、経久の代には大内氏と和睦していたことが判る。
  • 「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。永享11年(1439年)の永享の乱で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、享徳3年(1454年)に関東管領上杉憲忠を暗殺、上杉氏との全面戦争を始めた。成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。古河公方との戦いで扇谷家は山内家を支え、特に扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍によってその力を増していた。資清・資長父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における守りと攻めの拠点とした。享徳の乱は互いに勝敗を分けながら20年以上に及び続いた。古河公方と対立する両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。
  • 「豊臣秀吉が九州統一を主目的に自ら行った戦役。九州攻めともいう。戦国末期九州では大友氏と島津氏が勢力を振るっていたが、1578年(天正6年)に島津氏が日向高城で大友氏を破り、勢力を拡大し、1585年には肥後・筑後を支配した。全国統一を目指す秀吉は、同年島津と大友に和睦を諭すが島津氏は、豊臣に対決姿勢を示し、九州北上を開始。大友義鎮はよく1586年4月に上坂、秀吉に謁見し、島津氏の侵攻に対する救援を求めた。秀吉は仙谷秀久らを先発隊として豊後へ派遣し、畿内をはじめとする37か国へ20余万の軍事動員を命じ、1587年3月1日自ら京都を発ち、同28日に豊前小倉城へ到着。そして、弟秀長に豊後路を南下させた、自らは筑前から肥後路を通り南下した。攻略は順調に進み5月には川内に至り、泰平寺を本営とした。島津義久は同8日剃髪をし、龍伯と号し秀吉に降伏した。6月7日には、筑前国箱崎で九州平定の論考行賞を行い。島津氏に侵略地の返上と、掠奪をした他国の民衆の返還並びに売買の禁止を命じ、大友義統には一国、従軍将校へ九州内の領地を与えた。また博多を直轄としとして再興させた、伴天連追放令を発布し、秀吉の九州平定は完了した。
  • 「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将に北進を続けた。12月、幕府の危機を救うために高師直の軍勢を投入させた。南北両軍は翌年1月四条畷で激突、師直軍はこの合戦で正行軍を壊滅させるや、直ちに吉野に侵入し行宮をはじめ蔵王堂以下の諸寺社を焼き払った。吉野攻略の成功によって幕府内における師直の声望が高まった。この状況を危機感を深めて直義は1349年6月、師直の室辞職罷免を尊氏に強請した。師直はこれに屈することなく、同年8月には自派を京都に結集、直義の所に逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、逆に直義の政務を取り上げ、鎌倉から足利義詮を上洛させて政務につかせるように要求した。尊氏は、紛争を早急に解決しょうと、直義派の武将上杉重能、畠山直宗を越前に流刑、のちに殺害した。1350年(観応元年・正平5年)になると直義派の武将たちが各地で蜂起し、同年10月に、直義は京都を脱出して大和に赴き南朝に帰服した。かくして、尊氏・師直派らは直義派との全面武力対決になった。よく351年2月、摂津打出浜の合戦において高氏派は敗れ、師直・師泰らは武庫川で上杉能憲に殺害された。打出浜の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することになったものの内訌は鎮静化に向かわず、その後も尊氏・義詮派と直義派は全国各地で合戦を繰り返した。そのため尊氏は南朝と和睦し正平統一、駿河・伊豆で直義軍を破り、1352年正月鎌倉を占拠したうえで、2月に直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。
  • 本能寺の変は1582年(天正10年)織田信長が家臣のあ結光秀によって殺害された事件。信長は備中高松城(岡山市)を囲んで毛利軍と戦っている羽柴秀吉の応援のために、光秀に先鋒を命じた、自分は僅かな近臣を率いて四条坊門西洞院の本能寺に、嫡男の信忠は室町薬師町の妙覚寺に入った変の前日、信長は多くの公家や町衆から挨拶を受けて、茶の湯で接待し、夜は本因坊算砂らに碁を打たせて楽しんだ。信長は終日上機嫌で西国遠征の勝利を確信していた。光秀は1万余名の兵を率いて居城の丹波亀山城を出発、6月2日払晩本能寺を襲った。本能寺は一応の構えがあるが、東を西洞院川が流れるほか、残る三方は堀があったかどうかは不明。信長の警固は守蘭丸以下の小姓や中間数十人で、手練の馬廻衆は市中に分宿しておらず、信長はあえなく自刃した。信忠は妙覚寺が構えがないので、隣の二条御所に立て籠もり、駆け付けた馬廻り衆らを率いて戦たが、明智光秀の鉄砲隊にが撃破されて自刃。辺は終結されたが、明智光秀の謀反の理由が、怨恨説、立身絶望説、天下取り説などあるが、定説がない。光秀は山城、近江を平定したが、備中高松城で毛利と和睦して東上、大軍を山城山崎付近に集める中国大返しに成功した秀吉のために山崎の戦いに大敗し、野伏に討たれその天下が10日余りで終わった。
  • 石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は苦境に陥り、義昭の斡旋により浅井・朝倉と和睦した。1571年(元亀2年)~1573年(天正元年)まで。和睦は破れ、信長は浅井・朝倉と抗争を再開。近江門徒は浅井・六角を支え、越前門徒は朝倉を支えて戦った。やがて義昭は信長と対立、義昭は武田信玄を味方につけて信長の同盟を断行し蜂起した。しかし信長の攻撃に屈して和睦。義昭は信玄の病死後再び放棄するもはブレ、京都を追われた。浅井・朝倉も相次いで滅ぼされ、本願寺は信長に和睦を請い承認された。1574年~1575年まで。義昭は京都を追われた後も幕府を再興を意図して抵抗をし続け、本願寺はこれにこたえて蜂起、また朝倉滅亡後織田方の支配する越前門徒が蜂起し、一国を制圧。信長は軍勢を大坂にはけんして本願寺を攻撃する一方、自ら門徒の拠点伊勢中島を攻撃し、立てこもる門徒を大虐殺し手一揆を壊滅させた。さらに翌年越前に大軍で攻め込み、一揆勢を全滅させた。本願寺は和睦請い、信長も承認した。最後は1576~1580年まで、毛利氏に扶助された義昭は、諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。毛利・上杉・武田が呼応して籠城し、諸国の門徒が兵士を送ったり、武器・金銭・兵糧を送るなど戦いを支えた。信長は軍勢を大坂に派遣、5年にわたる石山籠城戦始まった。
  • 小牧・長久手の戦いは1584年(天正12年)羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が尾張及び北伊勢を主要な舞台として繰り広げた戦い。織田信長の死後、両者は対立関係を深めたが、家康は信雄と連合して小牧に陣をとり、大坂城を発した秀吉は犬山に対峙した。4月に秀吉側の一隊は家康の本拠を衝こうとして尾張東北部の長久手で合戦となり、家康側が勝利した。しかしこの局地な戦いでは決着せず、同年末に講和が結ばれた。結果としては秀吉は家康を服従させることに成功したが、両者の緊張関係はその後も続き、政局の展開に大きな影響を与えた。2「小牧・長久手の戦いの起因」(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。
  • 織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。
  • 1「はじめに信長包囲網」(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、同5日に本圀寺の足利義昭、明智光秀を急襲したが、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度、阿波に逃亡した(本圀寺の変)。こうした足利氏 - 織田氏と、阿波三好氏 - 三好三人衆との対立とは別に、同1月、織田信長は義昭の行動を制約する殿中御掟を出している。内容は信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的としたものだったが、義昭は各地に密書を出すなど、これを無視して動くことがままあった。そして、形式的には臣下である信長に縛られることを嫌った義昭と、コントロールしようとする信長の間での対立は深刻化していくことになる。 永禄12年2月、播磨の赤松政秀が織田信長に救援を要請。8月から九月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。
  • 「桶狭間の戦い」は1560年(永禄3年)5月19日、織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現名古屋市緑区)を含む丘陵地帯で敗死させた戦い。1550年代、三河を勢力圏に組み入れようとして織田氏と今川氏は、調略によって尾張鳴海城を奪取。これに対して信長は鳴海城の周辺に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて封鎖した。鳴海城の南にある大高城も鷲津砦、丸根砦を築き抑えようとした。1560年5月、義元は鳴海城の確保と織田軍の撃破を目的として出陣、19日に鳴海城外の桶狭間山に本陣を置いた。今川軍は早朝から織田軍の砦群を攻撃、鷲津砦、丸根砦を攻略、昼頃戦場に到着した信長は、温存していた主力群を率いて今川軍の正面から破り、混乱に乗じて義元を倒した。この結果、今川氏は衰亡へ向かい、信長は美濃の斎藤氏対策に専念、徳川家康は今川氏と服属関係を断って信長と同盟するに至った。戦闘の経緯は信長の家臣太田牛一の「信長公記」に詳しく書いてある。なおこの戦いを、天下を目指して上洛する途上の義元を、信長が豪雨の中、善照寺砦から大きく迂回して、田楽狭間の窪地に休息する義元の本体を丘の上から奇襲で倒したものとする説が有力とされている。
  • 「永禄の変の起因」(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるために一旦、御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。一方、三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。奉公衆の進士晴舎が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない。しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である。将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟・福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。
  • 「奥州仕置の起因」(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。宗洗は天正16年までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し、奥羽の無事実現へ大きく前進した。秀吉は天正17年1月に政宗に書状を遣わし、天正17年前半の上洛を求めた。しかし、その天正17年の前半である5月に政宗は蘆名領の会津へ侵攻したのだった。秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを明らかにした。11月、北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆し、真田領・名胡桃へ侵攻したことをきっかけに翌春に北条氏の征伐が行われることになり、東国に征討軍が派遣されることになった。天正18年、秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。
  • 室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。
  • 明徳の乱は。1391年(明徳2)も山名氏清・満幸らが室町幕府に背いて挙兵し、討たれた戦乱。南北朝期、山名氏は一時足利直冬党に属して山陰地方に勢力を伸ばし、一族で11か国の守護を兼ねて六分の一殿と呼ばれた。将軍足利義満は惣領山名時義の死を機に強大な山氏一族の勢力の削減を図った。まず1390年山名氏清・道幸らに命じて同時煕・氏之を討たせたが、時煕らが降伏すると、逆に彼らを起用して満幸を退けた。そこで翌年末、満幸は氏清・義理らを誘って藩幕府の兵を起こし、京都に迫った。義満は自ら馬廻り(直属軍)3000騎余を率いて出陣するとともに細川・畠山・大内らの大名を集結し、洛西に反乱軍を迎え撃ってこれを破った。氏清は討ち死に、清幸は参院に逃れたが後に討たれた、義理は遁走して出家し、山名氏は時煕が但馬、氏之が因幡の守護を保つのみとなった。この乱の結果、幕府権力の強大さが明らかになり、余勢をかった義満は翌1392年南北統一を実現した。
  • 上杉禅秀の乱は、1416年(応永23年)から翌年にかけて鎌倉で起こった内乱。首謀者は前関東管領上杉氏憲(禅秀)で鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基を討とうとして持氏の叔父満隆を擁し、千葉・武田・大掾・岩松ら関東の多くの武家を誘い、10月2日に鎌倉で決起した。このクーデター一端は成功したが、持氏と憲基は逃走するが、将軍の継承を廻って対立していた弟の足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍義持が持氏支持の姿勢を明示し、諸将に氏憲討伐を呼びかけると、各地の武士たちは挙兵し鎌倉に進み、結局氏憲は敗れて、よく1417年正月10日に自殺した。この乱は鎌倉府を二分にし、関東の武家のほとんどを巻き込んだ大規模なもので、この事件のきかっけに関東は混乱状況に入った。
  • 室町幕府後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方【室町時代関東を統轄した鎌倉府の長。関東公方ともいう。1333年(正慶2年元弘3年)に足利尊氏は子の義詮を鎌倉に置き関東の統轄を命じた。これが鎌倉公方の始まりである。その弟の基氏(2代)の代に地位が確立した。基氏は上杉氏を関東管領に任命して補佐役を置き鎌倉府築きその子氏満と孫の満兼の代に鎌倉公方の安定期を迎えた】足利成氏の戦いで20年にも及んだ。」鎌倉府の政務を担ったが足利利氏と上杉氏とが次第に対立を深め1454年(享徳3年)成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺氏らことがきっかけで、翌年から全面戦争となった。成氏は下総古河を居所としながら、梁田氏や北関東の大名たちに糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉とその家老の長尾・太田、さらに越後の上杉氏に連合して、相模・武蔵・上野の国境を中心に展開したが解決を見ないままに長期化したが、1477年(文明9)になって両者は和睦してようやく終結をした、成氏方がこの間京都の年号認めず長く享徳年号を使用したことからこの乱を享徳の乱と呼ぶ。
  • 応永の乱、1399年(応永6)大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。大内氏は室町幕府の全国統一に多大な貢献をしたため、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6か国の守護に任じれられ、その地理的条件を浮かした対外貿易で巨利を上げていた。このため、より安定的な幕府財源の獲得めざし3代将軍足利義満はと対立し、他の足利一門以外の大氏内氏族同様討伐の対象になった。1396年渋川満頼が九州探題に就任したのを機に、九州地方では戦乱が頻発したが、幕府の満頼援助の命令を受けた義弘は弟満弘を派遣、満弘戦死後は自ら下向しこれを鎮圧した。しかし、幕府の対応に不信感を持った義弘は、その後容易に上京せず、義満に不満を持つ鎌倉公方足利満兼との連携を強めた。そして1399年10月、大軍を率いて和泉国堺に着任して籠城、これを機に各地に反幕府勢力が挙兵したが、悉く鎮圧され、義弘も12月21日戦死し、弟弘重は降伏した。
  • 北条高時の子、北条時行が1335年(建武2年)7月、建武政権に対抗して東国で起こした反乱。乱名は北条氏を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したことによる。同月初旬信濃の諏訪頼重ら北条旧臣が時行を擁して挙兵、鎌倉将軍府を運営していた足利直義を破り、鎌倉を占拠した。直義は拘禁中の護良親王を殺害を指示し、成良親王とともに鎌倉を退去したが、8月19日京都から下ってきた足利尊氏の軍勢鎌倉を奪回、時行は逃亡した。この反乱は鎌倉幕府と関係の深かった西園寺公宗の京都における建武政権転覆計画と絡み、北条残党の反乱の内で最も大規模で影響も大きかった。乱の鎮定後、尊氏は鎌倉で武家政権の債権の構想を練った。だが死んだはず時行が生きて再び挙兵し鎌倉を奪還した。それが後北条氏だという噂が未だ残っている。誰も時行の最期を知る者はいないという。
  • 永享の乱は、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実、将軍足利義教と展開した抗争。鎌倉府は氏満の頃から自立性を強め幕府と関係を悪化させていたが、持氏は上杉禅秀の乱を機に東国大名、国人への圧力を強める一方、奉公衆の整備や結城・佐竹氏らとの連携を強めた。これに対して幕府は持氏が圧迫する大名、国人を京都扶持衆として支援、憲実は守護領国支配を基盤に自立的動きをとり持氏氏と対立を深めた。1438年(永享10)持氏は嫡子の元服将軍を偏諱を拝領する前例を無視、これを諫めた憲実は危機を感じて本国上野へ退避したため、持氏の追討を受け幕府に援軍を求めた。将軍義教が関東・奥羽に持氏追討を命じと、憲実は今川、武田、小笠原氏らと関東に出陣、持氏は抗しきれず剃髪し永安寺に入った。翌年2月、持氏は幕府軍に攻撃を受けて自殺。1年余りのち、持氏の遺児・与党が幕府・上杉方に巻き返しを図り結城合戦が起こるが鎮圧され、持氏の遺児成氏の復帰まで鎌倉府は断絶、関東は機内に先駆けて内乱状態になる
  • 日本の山東出兵で起こった日中両軍の武力衝突。1928年’昭和3年)の国民革命軍の北伐再開に際し、日本が第二次山東出兵を断行すると、(第一次山東出兵の昭和2年(1927)北伐の国民革命軍が山東省に迫ると、東北(満州)権益の動揺を恐れた田中儀一内閣は、邦人保護を名目に5月に2000人を同省に送り、7月には2200人を増派した。この間東方会議で対中強硬方針が確認されたが、中国側が北伐の矛先を緩め、内外の出兵批判も高まって、9月撤兵した。第二次出兵の際1928年の北伐再開で田中内閣は再度出兵を決め、4月、5000の兵力で山東の要所を占領。その結果5月、済南で日中双方の武力衝突が起こった。第三次では済南事件の発生で日本は師団単位の兵力を送って山東省全域から華北各地に展開させる一方、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明を出した。しかし1928年6月、関東軍参謀河本大作が政府の思惑を超えて東北の実力者張作霖を爆破、軍閥を継いだその息子張学良を石未革命支持の方向に追いやることになった。結局出兵は日本の侵略姿勢を印象付けただけに終わった。国内ではこの出兵を反対して対支非干渉運動が起こった。)5月3日済南で日中間の市街戦が起こった。8日には全面戦闘に発展、日本軍は総攻撃し済南城を占領。この一連の戦闘で一般市民・在留邦人、中国外交官にも犠牲者を出した。一方、国民革命軍は済南を迂回して北上し、戦闘は11日には終息したが、日本はこの事件を契機に出兵兵力を増加させ(第三次山東出兵)中国の反日民族意識を決定的なものにした。国民革命へ武力干渉という意味で、日中十五年戦争の端緒になった銭湯といえる。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    乙丑の獄(いっちゅうのごく)は、1865年(乙丑年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件。乙丑の変、または乙丑の政変と呼ぶ場合もある。幕末の福岡藩、江戸時代末期、福岡藩は藩主黒田長溥の元「尊王佐幕」を掲げ、幕府を助けながら天皇を尊ぶ公武合体論に似た政治運動を進めていた。長溥自身非常に開明的で、城下に鉄鉱炉を建設し、また鉱山開発を進めるなど「蘭癖大名」と呼ばれるほどであった。また幕末の政治において「開国し政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さず、朝廷と合同しそのまま改革すべし」という保守的な立場から幕府を助け、強い影響力を持つに至った。これに対し家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする筑前勤王党は「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を唱え、藩主に対し決意を迫っていた。そればかりか、彼らは上意を越え暴走を始める。福岡藩士の勤王派は土佐勤王、薩長の勤王派と連携しますます攘夷を進め藩佐幕派にばく進する中、藩主と思いは対立し行く中、藩主黒田長溥は勤王、佐幕と心は揺れ動き、勤王の藩士に弾圧を加える。勤王の藩士の末路は藩主の乙丑の獄を招き、切腹・加藤司書・斉藤五六郎・建部武彦・衣非茂記・尾崎惣左衛門・万代十兵衛・森安平・斬・・月形洗蔵・海津幸・鷹取養巴・森勤作・江上栄之進・伊藤清兵衛・安田喜八郎・今中祐十郎・今中作兵衛・中村哲蔵・瀬口三兵衛・佐座謙三郎・大神壱岐・伊丹信一郎・筑紫衛・流刑・野村望東尼・野村助作らの死によって福岡勤王党は終末を迎えた。
  • 柳条湖事件は「満州事変」の発端となった謀略事件。かねて満州の武力占領を画策をしていた関東軍参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは、昭和6年(1931)末に南満州鉄道沿線にある中国軍(東北辺防軍)兵営の北大営付近で9月下旬に軍事行動を起こすことを計画した。しかし企図が政府側に漏れたために、予定を繰り上げ、9月18日午後10時20分頃、独立守備隊の河本末守中尉らが奉天東北7,5キロの北大営に近い柳条湖の満鉄線で爆薬を爆発させた。線路にはほとんど被害はなく、直後に列車が無事に通過した。爆音を合図に演習と称して待機していた川島正大尉の率いる部隊が北大営を攻撃した。板垣・石原らは、これは中国軍が満鉄線を爆破し日本軍を攻撃したものと偽り、関東軍を出撃させた。事件の真相は敗戦後まで秘匿された。なお事件直後関東軍は地名を柳条溝と発表し、二通りの呼称がされてきたが柳条溝は事件とは無関係の地名である。
  • 大政翼賛会は昭和15年(1940)から終戦の昭和20年まで5年間で発足したアジア・太平洋戦期を通じて活動した中心的国民運動と動員組織。新体制運動の結果。1940年10月12日に戦時体制を担う中核組織として結成された。近衛文麿首相が総裁を兼任し有馬頼寧が事務総長になるなど、当初は近衛グループが主導し、軍部・革新右翼がそれぞれ支えた。中央本部には総務局・組織局・政策局・企画局・議会局の5局が置かれ、地方組織として道府県支部一郡支部・6大都市支部一市区町村があり、その末端に町内会・部落会・隣組が組み込まれた。道府県支部長には途中から知事が就任し、独自の組織を作ったものの内務省の影響力を免れることができなかった。別に協議機関として中央協力会議一道府県協力会議一市区町村協力会議が置かれたが、実際には「下情上通」の組織であった。近衛グループは新党において指導権得ることを期待して解党した政党勢力を議会局に押し込んで、強力なヘゲモニーを発揮しようとしたが、近衛が主導することを嫌う観念右翼は、翼賛会を唯一の政治活動団体として政事結社を主張した。これを内務官僚や財界人などが呼応したため、結局1941年2月に公事結社と認められ、能動的な政治活動が禁止された。さらに4月の改組では有馬事務総長以下が辞任を余儀なくされ、内務省の「上意下達」の行政補助機関として機能することになった。有馬に代わる事務総長にはk大蔵官僚出身の石渡壮太朗が就任し、以後横山助成・後藤文夫・丸山鶴吉・小畑忠良・安藤狂四郎と官僚出身者が引き継いだ1942年1月には実践組織として大日本翼賛壮年団を発足させ、6月には産業報国団、商業報告国会・大日本青少年団など6団体を統合した。また8月には町内会・部落会の会長翼賛会の世話役に、隣組長を世話人に指名して事実上両組織の一体化図り、住民の日常生活を管理する唯一の国民運動組織・行政補助組織として戦争動員体制を支えた。1945年6月23日の国民義勇隊の結成に伴い解散し
  • 16世紀後半、当時は尾張国海西郡に属した中島は(現桑名市)を舞台に、一向宗門徒を中心とする在地勢力が織田信長軍の抵抗した一揆。1570年(元亀元)石山本願寺の廻文で蜂起した一揆勢は、織田信興(信長の弟)を自殺に追い込み、願証寺を中心に要害を築いて激しく戦った。1574年(天正2)信長は、陸路で北伊勢に侵攻する一方、伊勢湾に軍船を浮かべ、海路から総攻撃を行い、島ごとに築かれた城砦を破壊した。一揆勢は約3カ月籠城したがが死者が続出し、一揆勢は船で退去する際に砲撃を受けて、2万人の男女が城に追い込まれ焼き殺された。これにより門徒領体制は崩壊した。
  • 太平洋戦争(戦争の呼称)昭和16年(1941)から1945年にかけて、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間で戦われた戦争。国際的には第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては1931年満州事変以来の対中国侵略戦争を拡大したもので、政府はこの戦争を「志那事変」を含めて「大東亜戦争」と呼称した。しかし、敗戦後の1945年9月以降は太平洋戦争と呼ぶようになった。太平洋戦争はまた、満州事変及び日中戦争とともに「十五年戦争」と総称される場合もある。なお学会には、戦争の実態を表す「アジア・太平洋戦争」の呼称を使用すべきでないという意見もある。「開戦までの経緯」1937年の盧溝橋事件で本格化した日中戦争は、日本では「志那事変」と呼ばれたが、紛れもなく全面戦争となった。当初、政府も軍部も中国の抗日民族統一戦線の力量を軽視していた。ところが中国の予想外の強い抵抗で戦闘は拡大の一途をたどり、1938年秋の武漢・広東攻略戦で、日本軍の攻撃は限界に達し、戦争は長期持久戦の泥沼に落ち込んでいった。しかも一方で中国と戦いながら、陸軍はソ連、海軍はアメリカを敵として軍備の大拡張続けていたから、軍需の拡大が国民生活をを圧迫し国内の矛盾は深刻になっていった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、1940年春以来、ドイツ軍が英仏軍を破り、フランスを降伏させるなど、西部戦線が電撃的勝利を収めと、日本はこれに便乗して東南アジアに進出してその資源を手に入れようとして行き詰った日中戦争を打開しようとした。そして南方に進出拠点として、1940年9月仏領インドシナ北部に武力進出、さらにドイツ、イタリア日独伊三国同盟を結んだために、アメリカ、イギリスとの対立が激化すた。アメリカは石油の輸出制限の強化するなど経済制裁に乗り出した。第二次近衛文麿内閣は、1941年4月から日米間の国交調整を図ろうとして日米交渉を開始した。アメリカは日本の中国からの撤兵を求め、日本は撤兵に応じず資源獲得を求めたが、交渉妥結には至らなかった。
  • 大正期の大地震、関東大地震によって起きた災害。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方南部に大地震が発生、規模マグネチュード7,9、震源は相模湾西北部と計算された。自身は小田原、根布川方面が最も激烈であったが、東京、横浜では地震による火災が加わり甚大な被害を生んだ。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山手の一部にかけて前史の三分の二が焼失し、本所の被服廠跡では火の旋風で一挙に3万8000人が焼死。横浜では煉瓦造りの洋館などが倒壊し多くの圧死者を出し、前史買いがほとんど消失ないし全半壊し、4日までに救助の手が届かなかった。被害者は9万9331名、負傷者は10万3733名、行方不明者は4万3746名、全半壊家屋12万8266名、半壊家屋12万6233戸、焼失家屋、流失家屋868戸、被災者340万名。〈デマを信じた人〉大災害であったが、この震災を利用して今日まで判明しているだけでも6000名以上の在日韓国、朝鮮人と600名以上の在日中国人が600人以上の虐殺され、亀戸事件・甘粕事件と言われる、日本人社会主義者・無政府主義者・共産主義者、労働運動者・青年運動の指導者総計14名が殺害された人災でもあった。とくに韓国・朝鮮人・中国人への大虐殺は全く無実無根の流言蜚語は放火、暴動、井戸に毒を入れたなどを信じて自警団に組織させられた日本人の民衆が軍隊、警察とともに行ったものである。当時日本経済は世界恐慌、昭和金融恐慌など経済が混乱、低迷し、手形決済や紙幣の焼失し、流通、住居、公共の施設の焼失で遷都を考えざるを得ないほどに混迷した。この大災害に大阪など関西に人口が流出し、また大阪をはじめ日本各地から救援の援助物資や金融の援助がなされた。
  • 大政奉還は慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権の朝廷返上を申し出、翌日勅許された政治事件。開国をめぐる外圧と激動する政局のなかで、幕府と朝廷の二元政治かのように状況を、政権一元化(政権復帰一問題)で克服しようとする動き、文久期(1861~1864)に顕在化し、1853年3月と1864年(元治元年)4月の2度にわたる朝廷から幕府への庶政委任んお確認がなされた。それは幕朝関係から朝幕関係への変化を示した。この朝廷(天皇)と結びついて幕府に対抗しようとする西南雄藩討幕派と幕府との対立は、慶応期(1865~1868)には決定的となる当時西南雄藩の背後にはイギリスが幕府側にはフランスがいた。「公議政体論」国際勢力の動向と絡む討幕派の武力倒幕路線と幕府の政治路線の間に公議政体論が登場する。これは諸侯会議を中心とした幕府体制の改編で、上下議員など欧米の議会制度などで色揚げされた体制構想であった。土佐藩主山内容堂や越前藩主松平春嶽らはこの構想で調整を図ろうとした。前者は武力倒幕を目指す討幕派を抑え、後者は幕府内部強硬論者に押し切られないようにしようとしていた。土佐藩の公議政体論の背景には坂本龍馬の「船中八策」などにみられる政治構想を、つまり政治の実権を朝廷に移し、諸侯は会議を上院として、下院には各藩の人材を登用し、この上に上下義政局中心として統一国家の体制を整えようとした計画があった。坂本との構想に賛同した土佐藩土佐藩の後藤象二郎が山内容堂に説き、容堂が受け入れた。後藤は藩主の名で大政奉還建白書を老中板倉勝静を通じて将軍に提出した。将軍慶喜はこれを受け入れて、1867年10月13日から14日にかけて幕府の有史及び在京の諸藩の重臣を二条城に集めて問い、13日の夜に側近の洋学者西周に三権分立やイギリスの議会制について聞き、西は翌日ヨーロッパ近代統一国家の制度について手記を提出したとされる。14日慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。15日に勅許。これを同じくして「討幕の密勅」(薩摩藩主あての13日分、長州藩しゅあての14日)を討幕派は入手した。これは公議政体派と討幕派とが、それぞれ情報を入手していたからに他ならない。両派は交錯していたのである。
  • 中国最後の先制王政清を倒し、共和制を樹立を目指した革命。干支の辛亥1911年10月10日年の、武昌で軍隊の反乱がおこり全国へ波及、翌1912年1月1日南京で中華民国が成立が宣言され孫文が臨時大統領に就任した。【辛亥革命で樹立され、共和政体をとった中国最初の国民国家。南京を首都に1912年1月1日成立。それは「漢民族主義国家を目指し「建立民国」(国民主権主義)の具現として実現した。ただし、それは、漢族主体とはいえ五族共和を建前ににし、国旗は五色旗、共和制も国制転換の手段の域をとどまった。その量要素の結節点に救国と言い、いわゆる洋務があった。またその国家イメージも大きなふり幅を随伴し、北洋軍系の北京政府、国民党系の南京国民政府、抗日戦争期国共再合作による重慶政府と、親日的南京政府など、その内実は絶えず変化させた。】清朝最後の皇帝溥儀は2月2日に退位した。中国同盟会に集結した革命派の勢いは、若い知識人らを中心とする小さなものだった。しかし、清朝の立憲主義的改革の限界が明らかになり、その鉄道国有化政策や財政政策に対しても蜂起に合流、革命に協力した。諸列強も早い時期に清朝を見限り革命への干渉を避けた。革命後政治体制は、軍部の介入や党派間の対立のために容易に安定しなかった。加盟以降、纏足や宮廷儀礼が廃止され、欧化主義の風潮が広がるなど社会的雰囲気も大きく変化した。
  • 黒船は江戸時代にかけて来航したヨーロッパの木造航洋船、いわゆる南蛮背のこと。船体が黒いタールを塗装した船で黒船と呼んだ。その後日本も技術を取り入れ輸入したりして保有はしていたが、当時の南蛮船はカラック、ガレオンなど大航海時代の主力となった。外洋を航行する堅牢で頑丈な船体作りになっていて、ペリー艦隊四集は蒸気船と帆装船各二隻で強引に鎖国の日本に開国を迫った。目的は捕鯨で鯨油を目当てに寄港できる開港を求めて交渉したがうまく進まず、大砲の空砲で驚かせ交渉しようとしたが国内事情で成立しなかった。何よりアメリカの思惑はヨーロッパ諸国の植民地化に出遅れて焦りがあった。アメリカ合衆のアジア市場への進出に産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。当時の人口は、アメリカ合衆が1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
  • 満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境付近で起こった日本・ソ連両軍の大規模な武力衝突。ハルハ河戦争ともいう。ノモンハン一帯の国境線は不明確で日ソ間の紛争の種となっていたが、1939年(昭和14年)関東軍は国境付近に強硬な方針を決定した。たちまち同年5月ノモンハン駐屯の満州国軍衝突すると、日本軍はハイラル駐屯の第23師団の部隊を出動、外蒙軍をげきした。さらに7月2日第23師団は、反撃に転じた外蒙軍とソ連軍の圧倒的優勢な火力と戦車群の前に日本軍は苦戦を強いられた。戦況不利を知った大本営は事件の不拡大方針を決め、政府も外交的解決を求めた。これを無視した関東軍はソ連に対する攻撃を続けたが、8月20日ソ連軍の総攻撃を受けて、一個師団壊滅の大敗をきした。おりからの独ソ不可侵条約を締結と第二次大戦の勃発で国際情勢が急変すると、日本は停戦を申し入れ9月15日モスクワで停戦協定を調印され、関東軍司令官と同軍参謀長は引責待命となった。日本軍の敗北は陸軍の対ソ戦略に深刻な打撃を与え、対ソ開戦の企画を挫折に導いた。
  • 「ゾルゲ事件」昭和16年(1941)に起こったスパイ事件。ソ連赤軍諜報員のゾルゲは新聞記者として1934年び来日、道津大使館に出入りをしながら、ヴーケリッチ、クラウゼン、宮城与徳、尾崎秀実らを協力者として組織、ナチスドイツの動向や、日本の政治・経済・社会・軍事等の関する情報をはじめとする7極東情報を、ソ連赤軍情報部に送った。1940年12月以降独ソ海戦に至るまでゾルゲはドイツがソ連を攻撃する可能性が高いことを報告し続けたが、スターリンはこれを一切無視したといわれる。1941年6月の独ソ開戦後は日本の中立をいち早く伝え、また近衛文麿首相側近の朝飯会メンバーであった尾崎を通じて政治情報を入手するとともに政治工作も行った。1941年9月、宮城が組織化した北林トモが特高に逮捕され、その自供によって宮城も10月に逮捕、宮城の全面的な自供から同15日に尾崎が、18日にゾルゲ、ヴーケリッチ、クラウゼンらが逮捕され、ゾルゲ情報網は壊滅した。主要メンバーは治安維持法・国防保安法・軍機保護法違反で起訴され宮城は獄死、ヴーケリッチ、クランゼンは終身刑に、ゾルゲ、尾崎は死刑判決を受け1944年11月7日に処刑された。
  • 極東国際軍事裁判(東京裁判)第二次大戦後、連合国が日本の指導者を戦争犯罪につき審理した国際軍事裁判。通称東京裁判。大戦中から米、英、ソ、三国はナチス指導者主要戦犯として処罰する方針を宣言しており、昭和20年(1945)8月、米英仏ソ4国がドイツの国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)に関してロンドン協定を締結、ここに侵略戦争を国際法上の犯罪とする「平和に対する罪」一般住民への非人道的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という2つの新しい戦争犯罪が定立された。日本を直接対象とする戦犯処罰を明示したのはポツダム宣言10項であり、これを日本が受諾したことで東京裁判を実施の法的根拠が生じた。かくして連合国最高軍最高司令官マッカーサーは、1945年9月から戦犯容疑者を逮捕しはじめ、同年12年GHQの一部局として国際検察局を設置した。判事と検事を派遣したのは、米、英、ソ、欄、加、オーストラリア,ニージランド、インド、フイリッピンの11か国である。検察側は1946年4月、戦前期日本の指導者28名をA級戦犯として選出「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」の3類にわたり極東裁判所に起訴した。起訴状では、1928~1945年に日本の「犯罪的軍閥」アジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したとの告発が注目されるが、この点、英米法特有の共同謀議という犯罪概念(2名以上の違法な合意だけで独立犯罪が成立する)を用いることで、立証が容易にし、かつ単純明快な陰謀史観で日本の行動を説明しょうというのが検察側の意図であった。公判審理は1946年5月から1948年4月に及び、特に満州事変から太平洋戦争に至る日本政治外交史が検討された。
  • 三里塚闘争は千葉県成田市に建設された新東京国際空港建設に反対して、昭和41年(1966)以来続いた地元農民、新左翼各派による闘争。1965年11月、政府が成田市三里塚への新東京国際空港建設に抜き打ち的に閣議決定をしたことに反発して成田空港反対同盟を結成、成田空港反対闘争が始まった。当初は日本社会党、日本共産党も農民の闘いの場として入り込み、日本史上有数の政治闘争となった。反対派と警察隊の衝突で双方に死者が出、逮捕者は1990年(平成2年)まで3000人以上になり、1978年5月開港した成田空港は、反対闘争によって計画の3本の滑走路4000M滑走路一本だけで二期工事行き詰まった。反対同盟は1983年、北原派と熱田派に分裂して支援党派も両派に系列化、1986年には二期工事用地内農家8戸のうち北原派に属する6戸中の4戸小川派に分裂した。1991年から学識経験者の仲介による熱田派と運輸省・航空公団側の「成田シンポジュウム」と「円卓会議」での強制収容申請取り下げなど調停案を1994年に熱田派が受け入れて逃走に終止符打ち出した。二期工事反対派用地内の反対派農家も次第に脱落、1997年11月までに8戸のうち6戸が空港公団と土地売買契約を結んだ。しかし、北原派と中核派など支援党派はゲリラ活動を活発化、空港公団関係者など個人宅を狙うテロ性を強めていった。
  • シベリア抑留、昭和20年(8月15日1945)のポツダム宣言受諾後、無条件降伏を受けた日本にソ連の満州、北朝鮮、樺太、千島で敗戦を迎えた日本軍に将兵約60万を軍事捕虜としてシベリアを中心とするソ連各地におよびモンゴルに抑留、強制労働を課した。厚生省援護局の資料によると、抑留された者焼く7万5000人、現在まで帰国したもの47万000人、死亡したと認めらえるもの約5万5000人、病弱などのため入ソ直後に満州や北朝鮮に送還された者4万7000人、ソ連から中国に戦犯として引き渡された者969人である。しかし、ソ連側の記録ではその実数は把握されていない。この中には開拓団員、満州国の官吏「、満鉄の幹部なども含まれ他に婦女子(主として従軍看護婦)も含まれていた。収容所は000か所、東はカムチャッカ半島から西はドニエプル川の流域、北は北極圏から南はパミール高原の西麓まで、全ソ連地区といえる範囲に及んだ。労働は地域によって異なったが、建築・道路・鉄道工事や森林伐採やその関連作業、鉱山、探鉱作業、農業作業その他の戦後ソ連の復興の必要な広い分野にわたり、環境の激変した抑留初期に、厳寒に飢餓・重労働の3重苦による犠牲者が集中した。抑留者は1950年4月末までほとんどが帰国、戦犯として残留したものもスターリンの死後1956年末までに釈放された。抑留者名簿の公表、墓参は、補償要求など残された問題は多い。復員引き揚げ問題、第二次世界大戦で海外在留の日本軍人・軍属および一般日本人の帰還問題、特にソ連、中国の本土地域からの引き上げが遷延した問題。復員は動員体制の軍隊を平時の体制に戻すことを指すが、第二次世界大戦後の日本では軍の解体で、召集が解かれ、兵役が解除されるまでをいう。引揚者は敗戦時に海外在留の軍人・軍属・一般人が帰国することをいう。厚生省の調べで敗戦時の旧陸軍海軍・軍属の総兵力が陸軍550万、海軍役242万、このうち内地部隊は陸軍200万弱であった。内地部隊の復員は陸軍は1945年8月末日までに8割が帰郷をした。また外地部隊の復員はアメリカ管理地域から始まったが、順次実施され1948年1月まで一応完了した。
  • 「世界恐慌は1929年10月24日、ニューヨークの株式市場(ウオール街)の大暴落を発端として始まり1934年頃まで続いた。第一次大戦後、賠償やインフレ高進で混乱したドイツが安定を取り戻し、イギリスも金本位制に復帰し(1925)1920年代に世界は金地金制のネットワークに再編された。アメリカは対外援助、対外投資で「相対的安定期」のスポンサーとなり、「永遠の繁栄(パーマネント・プロしぺリテイ)」を謳歌した。しかし、戦中に拡大した農業は1929年4月頃に生産過剰で価格が暴落し、アメリカでも自動車、建築の生産が減退し始めた。余剰資金はキャピタルゲインを求めて株価を押し上げ、ついにが同年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落の日「暗い木曜日」を招き、長い深刻な大恐慌に陥った。日本では浜口雄幸内閣が1930年(昭和5年)1月に金本位制に復帰したが、世界恐慌の渦中にあって、井上財政(旧平価解禁、緊縮財政)は、巨額の正貨流出(いわゆるドル買い)と不況深化、失業増大、飢餓水準、カルテル結成が広まった。銀行は連盟融資で企業を支え、政府は重要産業統制法、産業組合合法や預金部資金その他を動員して景気対策に追われ緊縮財政は崩壊した。1931年9月満州事変勃発、イギリスは金本位制を停止し、12月、第二次若槻礼次郎内閣は瓦解した。代わった政友会犬養毅内閣は直ちに金輸出を再禁止し、事実上平価切下げた管理通貨制へ移行、軍需と結びついたインフレ政策で景気回復の軌道を敷くことになる。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦」
    レーベル: 歴史研究会

    土佐勤王党の下士(郷士、足軽等)庄屋(村役人)階層を基盤として結成された尊攘派同盟。文久元年(1861)8月、江戸遊学中の郷士武市瑞山(半平太)らが水戸・薩摩・長州の尊攘志士らと京都に集結を約束、帰郷して190余名の血盟者110余名の支持者を得た。参政吉田東洋は公武合体路線をとり、主張は退けられた。武市らは反吉田の保守的門閥派と結託し1862年4月登用を暗殺し、朝廷から土佐勤王への国事周旋の命をを得、藩主山内豊範を擁して入京、薩長に並ぶ勤王藩の名声を得た。盟主武市は土佐藩勤王派の代表として朝廷政府に影響力を行使、攘夷督促の勅使(三条実美、姉小路公知)に随行し幕府に攘夷実行を迫った。しかし、幕府準顧問の隠居山内容堂は1863年2月に腹心の吉田を殺した勤王党への復讐を開始、八月十八日の政変を機に武市ら幹部は収監、東洋暗殺事件を厳しく糾明、慶応元年(1865年)5月、武市を断罪した。同志多数が迫害を受け脱藩、坂本龍馬も中岡慎太郎が代表となって薩長同盟の周旋するなど幕末動乱期最終局面での重大な運動に尽力し、王政復興の方向性に甚大な影響を与えた。
  • 下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。
  • 満州事変、日本の中国東北・内蒙古への武力侵略戦争。昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件を端を発し、狭義には1933年5月31日の塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)まで広義には1937年7月7日の露溝橋事件までを指す。15年戦争の第一段階。中国側の呼称は九・一八事変。「前史」日本はポーツマス条約、対華二十一か条要求などにより中国東北地方(満州)南部を勢力範囲を収め、満蒙特殊権益と称していた。しかし、第一次大戦後、中国の反帝ナショナリズムが成長し、特に張学良政権による国権回収運動が進められた結果、日中間には紛争は頻発し、世界大恐怖による打撃も加わって、1930年末頃から「満蒙危機」が叫ばれるようになる。関東軍参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは武力行使による満州の領有を計画し、軍中央の容認の下に、奉天北郊の柳条湖の南満州鉄道路線上で爆薬を爆発させ、これを中国軍による満鉄線爆破と偽り、中国軍を急襲攻撃し、一挙に満鉄沿線を武力制圧をした。「満州国の成立」だ2次若槻内閣は不拡大方針をとったが、関東軍は軍中央の協力のもとに朝鮮軍の協力の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、政府は既成事実の追認を余儀なくされた。関東軍は1932年2月までに東北の主要な都市、鉄道を占領し、3月1日清朝内後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を発足させ、その実権を握った。「日中戦争への道」中国は不抵抗方針をとるとともに国際連盟に提訴し、連盟はリットン調査団を派遣したが、日本は9月15日日満議定書により満州国を承認し、1933年2月連盟総会が日本の主張を否認するリットン報告書を採択すると、3月に国際連盟脱退通告をした。前後して関東軍は内蒙古東部の熱河省さらに河北省に侵攻し塘沽停戦の協定により河北省東部に非武装地帯を設定し、熱河小の一部を満州国に編入した。。
  • GHQは連合国最高司令官総司令部の略称で第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下に置かれたときの日本占領管理機関の一つであり、極東委員会およびアメリカ政府の対日占領政策の実施機関。俗称に連合国総司令部、連合国総司令部、総司令部、最高司令部などがある。昭和20年(1945)10月2日成立、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と同時に廃止。戦後設置された米太平洋陸軍総司令部は東京有楽町の第一生命ビルを本部として何か所に分駐した。GHQは参謀本部・幕僚部から構成され、軍事的機能を果たす米太平洋陸軍の内、極東軍、総司令部と非軍事機能(民事)を果たす連合国最高司令官総司令部の二重構造になしている。すなわち幕僚部はスタッフ機能を果たし、SCAPの局長はしばしばFECの部長を兼任することもあった。参謀部(参謀課長、副参謀長、参謀長補佐=第一部長~第4部長)はライン機能を果たし最高司令官の命令は参謀長―副参謀長を経て管下部隊に伝達された。GHQ幕僚長の構成は費用に応じて存廃が決せられたが、極東軍事裁判を担当した国際検察局(1945年12月8日設立~1949年2月12日廃止)法務局財政・経済を担当した経済科学局、マスコミ、宗教、教育関係の民間情報教育局、放送、郵便、電話関係(1945年10月2日~1952年4月28日)民間通信局、立法、行政、地方自治など13局はそれぞれ設置と廃止が定めらえた。管理監督、許認可など絶大な権力行使ができるGHQ内部の部局内などで激しい対立があった。
  • 「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。
  • 下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。

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