『半七捕物帳(青空文庫)、新着を除く(文芸・小説)』の電子書籍一覧
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[作品について]安政3(1856)年11月16日の朝、八丁堀同心槇原の屋敷に呼ばれた半七は、裏四番町の旗本杉野家の用人中島から内密に相談を受けた。八日前、お茶の水の聖堂で行われる素読吟味(旗本御家人の子弟対象の儒学の試験)のため、早朝家を出た杉野家の嫡男大三郎が、付き添いの中小姓が草履の緒をすげ替えるわずかな間に、姿を消してしまったというのだ。とかく入り組んだ事情のある旗本屋敷のこと、直接杉野家の様子を探ろうとした半七は、失踪の際に付き添っていた中小姓山崎の素っ気無い態度に、疑問を感じる。『朝顔屋敷』という怪談の伝えられる杉野家には、いったい何が隠されているのか?(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久2(1862)年8月14日の夕方、茶店を営むお亀が娘のお蝶のことで相談があると、半七を訪れた。お蝶が武士や奥女中にかどわかされ、ときどき影を隠すというのである。お蝶の話では、どことも知れぬ武家屋敷で美しい着物を着て座っているだけ、しかし時に正体の分からぬ何者かが娘の様子を見に来るのだ。恐ろしさに震えたお蝶が泣いて頼んだので、前の二度は十両の礼金と共に返してくれたが、三度目の今回は二百両の金でお蝶を貰い受けたいと、奥女中が懇願してきたという話に、さすがの半七も思案投げ首であったが…。翌晩現れた奥女中に、半七が取った意外な態度は?(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]慶応元(1865)年5月28日の昼過ぎ、半七の許へ柳橋の芸妓お浪が駈け込んできた。その日の早朝、養父で芸妓屋を営む新兵衛、姉貴分のお照と三人で住む家に、何者かが押し入って、新兵衛を刺し殺してしまった。女中のお滝は「何か子供のような怪物、体一面黒かった。」と証言したが、係の役人は信用しない。新兵衛が最近急に店を畳んで田舎に引きこもりたいと言い出し、それに不満を持っていた姉のお照が刺し殺したと見て、同心たちがお照をしょっ引いてしまったのである。信心深い新兵衛には、恨みを買うような過去があったのか? わずかな手がかりも見逃さない半七の子分への指示は…。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久元(1861)年7月20日の朝、半七の家に馬道の庄太が駈け込んできた。前日の六つ半(午後7時)ごろ、台所で行水をつかっていた庄太の隣家の娘お作が、何者かに喉笛を啖い破られて殺されたのである。馬道近辺では、半月ほど前から、白地の手拭に白地の浴衣の若い女が出没し、すでに二人の女が喉笛を啖い切られて死んでいるのだ。鬼婆で名高い浅茅ヶ原に近いだけに、白い浴衣の鬼娘が生贄を求めてさまよっているのだろうか? 現場に向かう途中、浅草寺の境内で奉納の鶏を盗んだ男が袋叩きにあっているのを見て、半七は事件の糸口をつかんだ。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]嘉永7(1854)年7月の10日、酸漿市で知られる浅草観音の四万六千日の朝、下谷御成道の長屋で踊りの師匠水木歌女寿が蛇に巻き殺されていた。歌女寿は姪の歌女代を養女にして芸を仕込んでいたが、体の弱い歌女代が旦那取りを嫌がったのを根に持ってこき使い、一年前に病死させていた。その歌女代の幽霊の噂から「お化け師匠」と呼ばれるようになった歌女寿、ちょうど若師匠の一周忌に…人々はとうとうお化け師匠が呪い殺されたと囁きあうが、半七の眼は事件の裏面をしっかり見抜いていた。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]帯取りの池…池に美しい帯が浮いているのを見つけて取ろうとすると、たちまち巻き取られて飲み込まれる…。そんな伝説を持つ市ヶ谷にある池に、安政6(1859)年3月初めのある朝、派手な女物の帯が浮かんでいた。はじめは盗賊が捨てたとかと思われたが、帯の持ち主おみよが死んでいたことが判明。何者かがおみよを絞め殺して、帯だけを解いて池に投げ込んだのか? 半七は、おみよを囲っていた旗本を調べに雑司が谷を訪れたが、尋ね人の願掛けに鬼子母神に参詣していた清元の師匠と偶然出会ったことから、意外な事実が明らかになっていく。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]少年時代のある晩秋の日、私は「Kのおじさん」という父や叔父の知り合いに、「おふみの一件」と言われる怪談の真相を聞いた。元治元年(1864)の3月半ば、番町に住む旗本松村彦太郎の家に、妹のお道が三歳の娘お春を連れて帰ってきた。お道は小石川の旗本小幡伊織の家に嫁いでいたが、夜毎その枕もとに散らし髪、びしょぬれの女が現れ、一緒に寝ている娘のお春までが「ふみが来た!」と叫ぶというのだ。半信半疑の松村・小幡の眼前で、またもお春は「ふみが来た!」と悲鳴を上げた。この一件に首を突っ込んだKのおじさんが、神田の岡っ引半七に相談を持ちかけると、半七は二・三の質問でたちどころに真相を看破するのであった。(ぷんきゅのちち) 大正6年~昭和12年まで断続的に書き継がれたおなじみ半七捕物帳シリーズの第1回作品。雑誌『文藝倶楽部』大正6年1月号に掲載された。 ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久元(1861)年9月の雨のそぼ降る朝、半七は同心の岡崎から茅場町の女行者の探索を命じられた。年は十七か十八の美しい女で公家冷泉為清の娘と名乗り、祈祷を業として信者から多額の寄進を受けている。勤王派の跳梁の目立つ時節、浪士の運動費を調達しているのではという疑いがかかっていた。子分の聞き込みでは、葺屋町の紙屋の息子久次郎が女行者にたぶらかされて、わずか一月ばかりの間に二、三百両を運び込んだらしい。しかし確たる手がかりのないうちに、お会式(10月12日)の前日になって、久次郎が姿を消してしまった。意を決した半七は、信者を装って祈祷所を訪れる。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]安政5年(1858)の年の暮のある朝、半七の妹お粂が常盤津の師匠文字清を半七の家に連れてきた。去る19日の晩、京橋の和泉屋で素人芝居忠臣蔵六段目の最中、早野勘平役を務めた和泉屋の息子角太郎が腹を切る場面で、舞台用の刀が本身の刀とすり替えられており、深手を負った挙げ句死んでしまったのである。文字清は「角太郎は実は私の子。刀をすり替えたのは今の和泉屋のおかみ」と主張するのだが…。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]嘉永2(1849)年の秋、多くの寺があることで知られる谷中の時光寺で、住職の英善がいつのまにか狐になったという不思議な噂が立った。前夜、英善は仏事に小坊主の英俊を連れて出たが、帰途「ほかへ廻る」と英俊だけを帰したまま寺に戻らなかった。そして翌朝、英善の法衣や袈裟をつけた狐が、近くの寺の門前の溝の中で死んでいたのだ。いつのまにか狐が住職になり澄ましていたのか? 数日後、現場の溝に落ちていた何かを拾おうとする小坊主を見かけた半七は、それが時光寺の英俊であることを知る。彼の話から半七が得た結論は…。 (ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]各地の代官所が、判断の難しい裁きについて、江戸の奉行所まで問い合わせてきた記録『御仕置例書』。その中から興味深いものを半七が書き抜いたという趣向の一品。 寛延元(1748)年9月、下総国新石下村の猪番小屋で、酔い潰れた七人の若者が松葉や青唐辛の煙でいぶされ、五人が死ぬという事件が発生した。若者たちが半月前に小狐を殺していたことから、昔から土地に住みついているという『小女郎狐』が敵討ちのためにしたことだろうと、人々は噂し合った。しかし八州廻りのベテラン岡っ引常陸屋長次郎は、事件の一か月前に事故死した娘おこよに注目、娘の死の真相の中に、事件の鍵が隠されていることを暴く。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]安政6(1859)年の10月のある朝、半七は急の用事で八丁堀同心山崎に呼び出された。「ちっとむずかしい。」という用件は、鷹の探索であった。鷹慣らしの途上、品川の女郎屋に泊まった将軍家の鷹匠光井金之助が、鷹を逃がしてしまったのである。さすがの半七も胸をかかえる探索であるが、明るみに出れば鷹匠の切腹は免れないところ、半七はとりあえず現場の品川から目黒へと足を伸ばす。雨宿りの蕎麦屋で出会った鳥さしから、蕎麦屋の娘が別の鷹匠に奉公していたことを聞いた半七は、鳥さしに雀を何羽かさしてきてほしいと意外なことを頼むのだった。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]本所松坂町の尼善昌は、自宅に弁天像を祭り、信者を集めていた。二、三年前には賽銭泥棒が供物を盗み食いして悶死し、仏罰だろうと評判が上がるほど。万延元(1860)年の6月、近くの竪川で幾万という蝶が乱れ飛んだときも、善昌が予言していた凶事の前兆と信者は囁いた。翌7月、凶事除けに15日間の大護摩焚きを行う最中、善昌が突然像を隠してしまった。「百か日の間姿を見せるな」というお告げがあったと善昌は説明したが、像が無くなったという噂も立つ。護摩焚き終了の翌日、善昌は姿を消した。弁天道に集まった信者たちが見たのは、いつも通り内陣に輝く弁天像と、尼の首なし死体だった!(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]弘化4(1847)年6月半ばの夕暮れ、常盤津の師匠文字春は、寺参りの帰りに十六・七の娘が後をついてくるのに気付いた。島田の髪に白地に撫子の浴衣の娘は、文字春と同じ町内の酒屋『津の国屋』の娘お雪に逢いに、八王子から来たのだと言う。不意に暗がりに消えた娘にぞっとした文字春は、事情をよく知る兼吉の話に声も出なかった。長く子のなかった津の国屋は、八王子の遠縁の娘お安をいったん貰い子にしながら、実の子が生まれると口実を作って追い出してしまった。恨みを呑んでお安は自殺し、姉娘のお清がお安と同い年の十七で急死したとき、撫子の浴衣を着たお安が現れたという人の噂。今度は妹のお雪の命を奪いにやってきたのか? はたして津の国屋に怪しい出来事が続き出した‥‥。怪談を地で行くようなこの事件に挑むのは、色白の二枚目桐畑の常吉。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久2(1862)年も秋深い9月。芝神明宮近くの裏店に住む老女おまきは無類の猫好き。魚屋を営む息子の七之助は、働き者で評判の孝行息子だが、おまきの方は十五、六匹の猫を飼い、近所の住人達に『猫婆』と呼ばれて嫌われている。迷惑した隣人達が家主と語らって猫を捨てに行くが、すぐに戻ってきて埒があかない。化け猫との評判まで立ち、結局俵に詰めて海に投げ込むという荒療治でカタがついたが、その七日後おまきが頓死した。脳天には打ち傷が一つ。病気か、殺しか、それとも猫の祟りか? 子分湯屋熊が聞き込んできたこの話に、半七は俄然興味を示す。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]慶応元(1865)年の正月末、雪のちらつく入谷田圃を急ぐ半七は、風雅な建物の門前で、按摩を呼び込もうとする女とそれを振り切ろうとする按摩を見かけた。芝居さながらの光景が印象に残った半七は、数日後また同じ場面に遭遇、按摩に声をかけて事情を聞く。按摩の徳寿の話によれば、そこは吉原の辰伊勢の寮で、花魁の誰袖(たがそで)が出養生しているのだが、なぜかそこにはいるとからだ中がぞっとするのだと言う。興味を感じた半七が調べるうち、誰袖の生まれた金杉で若い辻占売りが行方不明になっていることが判明。再び出会った徳寿から半七が聞き出した事実は?(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]ある年の晩秋から初冬にかけて、江戸のとある下町で奇妙な事件が起こった。火事でもないのに町内の半鐘を鳴らす者があるのだ。火の見櫓を警戒するようになると、今度は若い女の傘の上に何者かが圧し掛かったり、洗濯物を引っかぶって屋根を走ったり、町内は大騒ぎ。鍛冶屋の弟子の権太郎が、悪戯の犯人と決め付けられて自身番に捕えられたが、まさにその夜、久方ぶりに半鐘が鳴った。権太郎でなければ、狐狸妖怪の類の仕業か? 町内は震え上がった。その後も頻々と続く怪事件、半七の読みはいかに?(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久元(1861)年も押し詰まって11月24日のこと、日本橋の豪商河内屋の元へ、本郷森川宿の旗本稲川伯耆の用人が、狩野探幽斎の鬼の図の軸を五百両で売りたいと持ちかけてきた。河内屋の命で番頭の忠三郎が稲川の屋敷へ赴く。首尾よく半金の二百五十両で軸を手に入れた忠三郎だったが、品物を預かっての帰り、森川宿で名高い松円寺の化け銀杏の下で何者かに投げ飛ばされて気絶、気がつくと予備の百両ともども軸が消え失せていた。屋敷の連中か、それとも寺の留守居か、半七は探索を重ねるが、化け銀杏に女幽霊まで出るという噂。二十日ほどたって、芝の豪商三島屋が探幽斎の鬼の軸を手に入れたことがわかる…。 (ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]葉桜どきの昼下がり、浅草から向島まで隅田川沿いを歩きながら、半七老人が聞き手の青年に、界隈の昔の事件を語るという趣向の作品で、二つの独立した物語からなっている。 「広重」:安政5(1858)年正月17日の朝、浅草袖摺稲荷そばの旗本黒沼家の大屋根の上に、三、四歳くらいの女の子の死骸が横たわっているのが発見された。身許は不明、屋敷内の者にも全く心当たりがなく、結局八丁堀にもその詮議が依頼される。同心の命を受けた半七は、子分の庄太を意外な場所へと誘う。「十万坪まで附き合わねえか?」遠く深川の向こう、砂村新田の稲荷社まで、半七は一体何をしにいこうというのか? 「河獺」:弘化4(1847)年9月の秋雨の降る夜、本所中の郷の荒物屋に血だらけで転げ込んで来た男がいた。暗い中で突然傘の上から何かが襲ってきたというのだ。荒物屋の亭主は河獺の仕業だと言って、彼を介抱してやった。翌日、下谷の道具屋の隠居十右衛門から、中の郷の川っぺりで何者かに襲われ、五十両入りの財布を奪われたという届け出。十右衛門は、自分が囲っているお元の従弟と称する政吉が、河獺の仕業に見せかけて自分を襲ったのではないかと半七にほのめかす…。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]慶応3(1867)年の残暑厳しい8月、下谷広徳寺前の筆屋『東山堂』の娘おまんが急死した。『東山堂』は十八の姉娘おまんと、十六の妹娘お年という二人の容 貌好しが、筆の穂先を舐めて毛を揃えてくれることから『舐め筆』の店として繁盛していたが、その姉が毒を飲んで苦しみ死にしたのだ。近所の徳法寺の若い僧善周も翌朝急死したことから、覚悟の心中とも思われたが…。半七は、妹娘お年と馬道の質屋『上州屋』の息子の間に縁談が持ち上がっていたことに目をつけ、明神下で常盤津の師匠をする妹お粂の助けを借りて手がかりをつかんだ。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]安政と改まった年(1854)の3月18日、神田明神下の質屋山城屋の番頭利兵衛が、半七宅へ相談に訪れた。小僧の徳次郎が半月前から口が腫れる病気になり、前日実家で息を引き取った。ところが死に際に徳次郎は、店の一人娘お此に殺されたと兄の徳蔵らに言い残し、徳蔵が三百両寄越せと山城屋に掛け合いに来たのだ。主人夫婦が弁天様に願掛けして生まれたことから『弁天娘』の異名を持つお此が、本当にやったのか? 半七の推理は真相に鋭く迫る。ところが一件落着と思われたその時、意外な殺人事件が発生して…。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]文久3(1863)年か、翌元治元年(1864)の12月27日の朝、神田鎌倉河岸の道端に、若い男の死体が転がっていた。その腕の中には、まだ息のある三ヶ月くらいの嬰児。しかし、その赤子の口には牙にも似た二本の歯が生えていた。因果者の子供を扱う香具師(やし)の線か、それとも右手の鼓だこから想像される三河万歳の才蔵の線か。子分が聞きこんできた、赤子ならぬ猫の児をなくした香具師がいるという話に、半七が当の香具師富蔵に事情を聞くと、なぜか彼は知らぬ存ぜぬを通した。腑に落ちない半七の探索の前に、物語は意外な展開をたどる。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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[作品について]慶応2(1866)年6月の梅雨の長引くある日、半七の許に生薬屋の主人平兵衛が相談に訪れた。同店の女中お徳の妹お通が、年三両という法外な給金につられて向島の奥のとある大家の寮に奉公したが、気味が悪いので契約を反古にしたいのだという。大蛇を祭っているという土蔵に食事を持って行くのだが、ある日二階から若い娘が降りてお通に声をかけた。しかもお通が娘に興味を持ったのを寮番の夫婦が知って、土蔵に押し込めると脅かしたというのだ。その寮は米問屋三島の所有で、半七は三年前に駆け落ちした三島の娘おきわが、土蔵に閉じ込められていると目星をつけた…。(ぷんきゅのちち) ぷんきゅのちちさんによる、より詳細な解説はこちら。 「半七捕物帳」[文字遣い種別]新字新仮名
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