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『哲学、白水社、その他(レーベルなし)(実用、文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~23件目/全23件

  • 文化史と普遍史を往還しバフチン思想を象る

    その思想の根本問題を出来事、言語、身体と見定め、徹底的に読み解く未曾有のバフチン論。多孔的で未完結の全体像がここに生成する。
  • 「言葉をもって空気をふるわす」

    専制体制下のロシアにおいて生涯をかけて、社会体制の変革と民衆=人民の解放に向けた言論活動を行なったチェルヌイシェフスキー。ここに集められた諸論攷の多くは一八六一年の農奴解放令に関連するものである。自由主義的な貴族や知識人からは「大改革」と称讃されたが、そこにはいくつか問題があった。農奴解放によって「農奴」は人格的自由を得たものの、同時に、分与された土地に対して膨大な額の支払い義務を負わされたことや、農村共同体の位置づけなどである。「土地つき解放」を求める彼の争点はここにあった。この「リベラルな」改革は真の意味での「農奴解放」とはいえず、圧倒的に不十分だったのだ。つまり、彼の闘争の矛先は、専制体制のみならず、不徹底なリベラリズムにも向けられている。
    これらの論攷は、検閲を避けるべく意図的に晦渋な文章で紡がれることも相俟って、かなりわかりづらい。だが、彼の活動がナロードニキ運動やレーニンに影響を与えるように、われわれが今そこから汲み取るべきは、偽りの「解放」を摑まされることなく、真の解放を求め、言論活動によってそれを具現化せんとするそのあくなき魂である。
  • 「社会学は人生から生まれ、人生へ帰っていく」

    清水幾太郎ほど毀誉褒貶のある人物はいない。
    東京帝国大学社会学研究室からの「破門」、マルクス主義を標榜しての社会学攻撃、進歩的文化人・安保同伴知識人として活躍、そして「転向」と核武装論……
    しかしながら、清水は社会学者としての長いキャリアにわたって、必ずしも場当たり的に翻身を繰り返していたわけではない。その膨大な業績を改めて振り返る時、いくつかの重要な主題によって貫かれていることを見出すことができる。
    とりわけ、本書が注目するのは、彼が自伝の執筆を通じて、「人生」を語る社会学者であったという点である。清水は自身の晩年期においてではなく、むしろそのキャリアの盛期を通じて、繰り返し自身の自伝を書き連ねてきた。
    さらに興味深いのは、社会学的な著述においても、しばしば回想風の叙述スタイルを採用していることである。これは単に自分語りが好きだったわけではなく、清水にとって社会学とは、人それぞれの人生のなかの「闘争」を捉える試みであったことによる。「社会学は人生から生まれ、人生へ帰っていく」という言葉がなによりそのことを語っている。
    清水へのまったく新しいアプローチ!

    [目次]
    第I章 問題設定——清水幾太郎と社会学
     〇 はじめに
     一 問題の所在——社会学と「人生」
     二 人生の中の闘争
     三 先行研究・議論の概観
     四 視角、対象と方法
    第II章 ある社会学者の出発
     一 社会学との邂逅
     二 青年論へ——「社会学青年」とともに
     三 小括
    第III章 生きた闘争の把握
     一 公私区分の再検討——往還とその動態
     二 生存の要求とその諸形態——『流言蜚語』(一九三七・一二)
     三 倫理学と闘争——「競闘」(一九四一・一二)
     四 小括
    第IV章 家族——生きるという闘いの場
     一 清水の家族道徳論批判
     二 清水の家族集団論
     三 小括
    第V章 「人生」を語り始める清水幾太郎
     一 若き社会学者の自伝
     二 人生を語る社会学
    終章 意義と展望
     あとがき
     文献/写真出典/註
  • 生死をめぐる「差延」の論理について語る、1975~76年の高等師範学校での講義

    1970年代、デリダは高等師範学校において哲学教授資格試験準備講座を担当していた。すなわち、高等学校以上の教育資格であるアグレガシオンや、中学校での教育資格である試験のテーマについて、受験希望者に対策をほどこす講座である。1976年度アグレガシオンの哲学の試験のテーマのひとつが「生と死〔la vie et la mort〕」だった。だが、デリダは生と死が対立するという伝統的な論理に疑義を呈し、生と死が不可分であること、ひいては死こそが生を可能にすると説く。そしてそのために、試験のテーマから接続詞の「と〔et〕」を削除した「生死〔la vie la mort〕」を自らの講義のテーマとした。
    生と死は、はたして対立すべきものであるのか? DNA、遺伝子、細胞……生き物にプログラムされた「非音声的エクリチュール」を踏まえながら問いかけ、ジャコブ、ニーチェ、フロイトを脱構築的に読解することで、再生産や新陳代謝のメカニズムを哲学する──「生死」をともにする全14回の講義。
    生命科学を探究する、差延の論理! 性的差異、自伝、二重拘束、補綴、隠喩……デリダ的な圧巻のテーマが語られてゆく驚くべき講義録。
  • 戦争の時代に戦後の原点へ

    「反戦」や「非戦」、「アジアの連帯」が語られなくなって久しい。
    戦後民主主義の記憶も遠くなり、中国・韓国はじめアジア諸国が台頭するなかで、ナショナリズム感情を煽る言説やパワーポリティクス論が巷に氾濫している。
    本書は「反戦」や「非戦」、「アジアの連帯」といういまや打ち捨てられようとしている問題群に、現代の世界情勢を踏まえて再接近しようとする試みである。
    まず、ウクライナ戦争やガザ戦争を受けて、真の「現実主義」がなにかが問われる。
    本書によると、それは、たとえば、井伏鱒二『黒い雨』における「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という言葉に端的に現れているという。
    そして「正義の戦争」の欺瞞、軍隊の理不尽という戦後日本の原点が何度も確認される。続いて、いまでは忘れ去られた近代日本における反戦非戦の系譜に光が当てられる。
    反戦・非戦の視点を恢復してみると、アジアはまったく異なってみえてくる。アジアの人々はだれも戦争や強権を望んでいるわけではないのだ。戦争の時代に広く読まれてほしい一冊。

    [目次]
     はじめに
    第I章 真の現実主義とは
     1 戦争と軍隊の理不尽
     2 もし武力侵攻されたら
    第II章 日本の反戦非戦の系譜
     1 日清戦争に反対した勝海舟
     2 足尾鉱毒問題に生涯をかけた田中正造
     3 幸徳秋水の平民主義・社会主義・平和主義
     4 内村鑑三の非戦論
     5 石橋湛山の「小日本主義」
     6 戦後の平和運動の担い手たち
     7 アフガニスタンで井戸ほりをした中村哲
    第III章 台湾海峡の緊張をどう解きほぐすか
     1 中台の攻防の歴史
     2 台湾の戒厳令の時代
     3 台湾アイデンティティの形成
     4 台湾の選択
     5 台湾と中国の交流
     6 共通する文化の土壌
    第IV章 香港の民主化運動はどこへいく
     1 香港の民主化デモと中国の介入
     2 植民地としての香港の歴史
     3 植民地主義をどうみるか
     4 香港の自立のディレンマ
     5 香港の相対的地位の低下
     6 香港のこれから
    第V章 中国とどう向きあうか
     1 中国とアメリカの応酬
     2 中国のアキレス腱
     3 中国への対応
    第VI章 アジア・ビジョンをどう描くか
     1 反戦非戦と文化力
     2 戦前と戦後のナショナリストのちがい
     3 アメリカと中国の反戦非戦
     4 魅力ある国とは
     おわりに
  • ポスト戦後の精神史

    数は減ったとはいえ、学者になりたい人は一定数いるはずだ。本書はそうした人たちに向けて、学者のなり方、職業としての学問を説く試みである。
    磯前さんは静岡大学の歴史学科を卒業して、生まれ故郷の茨城で高校教師になったものの、学者になることをあきらめきれず、勉強し直して、東大院の宗教学専攻に入ったという変わり種だ。
    高校教師として働きながら(そして、結婚して子どもを抱えながら)の大学院受験は一筋縄ではいかず、語学学習のやり方からはじまり、東大や京大の大学院をさまざま受けた(落ちた)ことまで赤裸々に語られている。
    磯前さんの進学先とその時代が、この本を単なるハウツーや体験記を超えたものにする。
    磯前さんは東大院で島薗進さんに師事した。このことが人生を大きく変えていく。そして当時、東大宗教学は、スピリチュアルやニューアカに乗じて、スターを輩出しつつあった。
    こうしたブームは、オウム真理教事件によって無残に瓦解した。磯前さんは事件以降、宗教学批判を展開し、酒井直樹さんらと意気投合してポストコロニアル研究に向かう。本書はこうした一大転換の貴重な記録にもなっている。

    【目次】
    はじめに 学者って何者?
    第一章 書物が友だちだった――私の生い立ち
    少年探偵団と活字の匂い/ドリトル先生物語/キリストの死
    古代の息吹
    第二章 学問への目覚め――シラケ世代の悩み
    いつでも音楽があった/放任主義とシラケ世代
    マルクス主義歴史学と感情/ロンドンと異星人
    第三章 修行時代――自立という課題
    高校教師失格/大学院受験/大学院合格/東大助手になる
    第四章 大学教員という仕事――意気揚々の時代
    オウム真理教事件/資料の公開/国際学会/ロンドンの闇
    第五章 国際日本研究――ひとつの回心
    ハーバード滞在/国際日本研究文化センター
    東日本大震災/ザ・タイガース
    終章 世界が自分の家だから
    あとがき――存在の語りのあわいに
  • デリダで/とともに、「存在と時間」を考える。

    ハイデガーの『存在と時間』をデリダ自身が翻訳・読解し、「歴史」を揺るがした全9回の講義を、日本の哲学研究者たちが読み解く!
    本書は、ジャック・デリダ講義録『ハイデガー──存在の問いと歴史』を共通のテクストとして、6人の執筆者(峰尾公也、加藤恵介、齋藤元紀、亀井大輔、長坂真澄、須藤訓任)が、それぞれの視点から光をあてた論考を収録。「デリダのハイデガー講義」を立体的に照らし出し、講義録に含まれた論点を浮かび上がらせ、デリダによるハイデガー読解の内実を検討しながら、その革新性を明らかにしてゆく。それは、ハイデガーとデリダとの関係を解明する研究の集成でもある。
    デリダで/とともに「存在と時間」を考える……ハイデガーとデリダとの関係について考えたい読者にはもちろんのこと、デリダの講義録をこれから読みすすめる読者にも、副読本として最適。
    『存在と時間』などのハイデガーの哲学から、「脱構築」はどのように生まれてきたか? デリダの「ハイデガー講義」をひもとき、解明してゆく待望のガイドブック。
  • 20年間の「旅の記録」

    この20年間はどんな時代だったのか? 浮かび上がってくるのは、「公共性」・「性」・「文明」という巨大な問題群だ。
    著者は第一論集『ショッピングモールの法哲学』で、1970年代以降の政治理論、とりわけ正義論の枠組みを「郊外」という具体的な場で再考してみせた。社会の境界で考えるという基本姿勢は第二論集である本書でも変わらない。
    著者の大きな転換点となったのは2003年のいわゆる「性同一性障害」特例法の立法運動だ。そこで拓けた地平は、法を根幹から見つめ直すだけでなく、法と政治、法と社会の関係を問い直すものだった。
    こうした視座は「立憲主義」が時代のキーワードとなった2010年代に計り知れない意味を持った。ジェンダー/セクシュアリティ、移民/難民はじめ、よりいっそう先鋭化していく問題について、政治的、社会的足場を重視しつつ、分析することを可能にしたのだ。
    著者は、スナック研究を軸に「夜の公共圏」を提唱したことで知られる。もちろん、そこにも「公共性」・「性」・「文明」という問題が貫かれている。社会の最前線を走り抜けてきた法哲学者の「旅の記録」。
  • 新全体主義の時代経験

    世の中が地滑り的に変化していくなかでは、何が起きているのか正確につかむことは難しい。この20年間の中国がまさにそうだった。
    社会主義市場経済による輝かしい経済成長と習近平を頂点とする党=国家体制の再建、そして中国の再興――。過ぎ去ってみると、自明にみえる展開は一齣一齣つぶさにみていくと、まったく違ってみえてくる。
    本書で触れる重慶での政治騒乱はその最たるものだろう。腐敗一掃を叫ぶカリスマ的指導者のもとに革命歌をうたう民衆が寄り添い、全国からも「重慶詣」と称して学者たちが馳せ参じた。
    ところが、突然の舞台転換ですべてはなかったことになってしまう。カリスマだと思っていた人物は犯罪者となり、民衆は手のひらをかえし、学者は何事もなかったかのように日常に回帰していく。こうした光景が2010年代には繰り返された。
    本書は、この20年の「特異な時代」を記述する試みである。その際の拠り所になっているのは、ハイデガーであり、またハンナ・アーレントである。全体主義のもとで最低限度の道徳を保つことは可能なのか? いまや「新全体主義」とも言われる現代中国社会の精神的考察。
  • 学者たちの戦争、そして帝国の崩壊

    加藤弘之が創り上げ、井上哲次郎に継承された官学アカデミズムは、煩悶青年が社会問題化した日露戦後、生命主義に傾倒していく。
    しかし、国体論に「無意識」を取り入れる試みは、東京帝大の心理学者、福来友吉の念写実験が巻き起こした社会的混乱によって絶たれ、官学アカデミズムは歴史へと回帰することになる。
    他方、大正デモクラシーの潮流のなかで国体を語る裾野は広がっていく。
    早稲田の漢学を中心とした私学勢は、南北朝正閏問題や宮中某重大事件、大東文化学院の運営をめぐって、官学アカデミズムが彫琢した国体論に揺さぶりをかける。
    とりわけ、大東文化学院の覇権を争う戦いは熾烈をきわめた。漢学教育の再興を目指す早稲田と、それを封じようとする官学アカデミズムの争いは、「暴力専門家」も動員しながら、井上の不敬事件やテロをも誘発していく。
    あとの時代から見ると、「国体」と聞くだけで、狂信的な雰囲気が漂うが、そこには「国体論的公共性」とも呼ばれる広範な討議空間もあった。暴力に覆われる前の思想空間を辿り直す稀有な試み。
  • もう一度、生き直すために

    人文学は役に立たないと言われて久しい。一方、それぞれの分野では、複雑化と専門化が進行して、一般の読者との距離は開くばかりだ。
    私たちはなぜ学ぶのか? そして、どう生きていくのか?
    いつしか人文学の現場で問われなくなった問いかけに本書は立ち返る。それは単なるアウトリーチや学問の社会的還元ではない。むしろ、学ぶことの本質に関わる。
    本書は、高知県立大学文化学部で開講している「米文化・文学論」を書籍化したものである。
    思想や文学の根本問題は「自分自身がどう生きるか」にある――ここから本書では、アメリカの「声」に耳をすませる。フランクリン、トマス・ペイン、エマソン、ソロー、ホイットマン、そしてアンダーソン。彼らの声に耳をすませることで、自分の内側にも反響する声を聴き取り、そこから意識的に自身の「ネイチャー(自然・本性)」に基づいた生き方を探っていく。
    人間の成熟は、自分の内側にたくさんの人の生、たくさんの人の声を取り込んでいくことであり、多くの声を「聴く」ことで、「いま・ここ」とは別のアナザー・ポシビリティの可能性が見えてくる。
  • 全体主義の時代の基底へ

    2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まった。
    戦争が始まってから、大量の情報が流れてくる。プーチンの思惑やゼレンスキーの戦略、東西の軍事的分析がその中心にある。
    戦争を受けて書き下ろされた本書が注目するのは、『全体主義の起源』を書き、ナチスドイツとソ連の体制の〈嘘〉を暴いたハンナ・アーレントである。
    というのも、ブチャの虐殺はじめ、多くの「事実」が〈嘘〉によって歪められているからだ。
    こうした事態はいまに始まったことではない。むしろ全体主義体制の本性といえるかもしれない。欺瞞や虚偽は心地よい。圧制下の人々は不意打ちしてくる飾りのない真実より、心地よい嘘を好むのだ。
    そして、この戦争をアーレントと同じ眼差しで眺めているのがウクライナの映画監督セルゲイ・ロズニツァだ。彼による『バビ・ヤール』が本書の拠り所になっている。キーウ近郊のバビ・ヤールは「銃殺によるホロコースト」が行われた痛ましい場所だ。
    心地よい虚偽にいかに抗していくのか? 本書では、アーレント=ロズニツァに寄り添いつつ、「真理の語り手」の意味を考える。
  • 「文明化」を夢見た明治日本

    文明化を追い求めた明治日本は、翻訳書が果たした役割がいまと比較にならないぐらい大きかった。そして数多くの翻訳書が刊行されるなかで、新たな概念もたくさん生まれた。
    本書では、アレクシ・ド・トクヴィルと『アメリカのデモクラシー』に焦点を当てて、その営為を明らかにする試みである。
    トクヴィルによって見出された「諸条件の平等」としてのデモクラシーについて、あるいはその帰結である「個人主義」や「多数の圧制」について、明治の日本人はいかに理解したのか? またいかに誤解したのか? 本書は徹底的に解明している。
    その際、目を向けるのは、福澤諭吉ら明治思想界のスターだけでなく、むしろ時代の脇役たちである。
    時代のあり方や将来を真剣に考えていたにもかかわらず、英傑に遮られ、注目されなかった人々。実は、彼らの西洋受容こそがその時代の典型であり、そこからしか時代の全体像は描けないのだ。
    自由民権運動に邁進した肥塚龍、社会における宗教の意味を考えた中村敬宇や明治キリスト教界、国会開設の意味を自治論からとらえ直した植木枝盛や星亨、高田早苗……トクヴィルを軸に描く、新たな明治思想史へ。
  • なぜこれほどまでに彼の言葉は刺さるのか

    「心には心の言い分があるが、理性はそれらをまったく知らない」
    「この無限の諸空間の永遠の沈黙が私を恐怖させる」
    「人間は天使でも獣でもない。そして不幸にも、天使のふるまいをしようとすれば、獣のふるまいをすることになるのだ」

    優れた数学者、物理学者、また哲学者にして神学者でもあったブレーズ・パスカル(1623―1662)。彼は人間と信仰について思索を重ね、未完の断章を大量に残してわずか39歳でこの世を去った。のちに『パンセ』というタイトルでまとめられた主著は、「考える葦」「賭け」「クレオパトラの鼻」など、忘れがたい名句やイメージに溢れ、世界中で読み継がれて今日に至る。
    本書は、そんなフランス屈指の名文家パスカルの選りすぐりの断章(パンセ)を、フランス文学界最高の案内人が豊富かつ巧みに紹介しながら、その思想の真髄に迫る刺激的なエッセイ。好評を博した毎日5分の人気ラジオ番組が元となっている。本格派でありながら広く開かれたテクストが、最良の研究者・翻訳者を得て、いま日本の読者に届けられる。
  • 現在のルーマニア、ユダヤ教徒の家に生まれたエリ・ヴィーゼルは、少年時代にアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、凄惨な体験をして、生還する。終戦後、10年を経て発表した自伝的小説『夜』は、ホロコースト証言の古典として、世界中で読み継がれている。やがて米国に帰化して、様々な平和活動に関わり、1986年にノーベル平和賞を受賞。自らを「教師」とし定義し、ボストン大学などで長年教鞭を執り、2016年に逝去した。
    著者は15歳のときヴィーゼルに出会い、ボストン大学に入学、その後、同大学で教育助手としてヴィーゼルの「弟子」となり、5年間、薫陶を受ける。
    本書は、ボストン大学におけるヴィーゼルの講義ならびに対話を、7つの章にまとめたものだ。アウシュヴィッツでの体験、文学テキストの解読、歴史・記憶・活動をめぐる議論をさまざまに検討し、読者を啓発する。ヴィーゼルの人生に密着した思想と理論、その神髄が説得力をもって明かされる。
    本書は「全米ユダヤ図書賞」を受賞し、読者からも熱い共感を集めている。混迷する現代世界において、とくに学校・教育関係者には、おおいに示唆に富む1冊だ。
  • デカルト、パスカル、ニーチェなど、後世の思想家たちに影響を与えた、フランス・ルネサンス期の思索と経験の書『エセー』。随筆という意味での「エッセイ」の出発点であり、数々の名句が散りばめられた知識人の教養書としても知られる。
    いつかは挑戦してみたい古典の名著ではあっても、その分量(全3巻107章、白水社版で全7冊、2000ページ超!)に尻込みしてしまう読者も多いだろう。でも心配ご無用。
    『エセー』を気軽に味わうための格好の案内図となるのが本書である。「仕事について」「名声について」「結婚について」「夫婦について」「快楽について」「老いについて」……テーマごとに印象深い名言が厳選されており、テーマを眺めるだけでもモンテーニュの関心が身近で日常的な、我々人間にとって普遍的・根源的な問いであることがよくわかる。『エセー』に正しい読み方などない。どこからでも気になったところを好きなように読んで構わないのだ。宮下志朗氏による新訳の軽妙さにも、親しみが増すこと間違いナシ。「名言篇」に続く巻末の「要約篇」では、『エセー』全章の内容がコンパクトにまとめられており便利。1日1名言で、『エセー』があなたの「人生の書」となるだろう。
  • いま世界を覆っているのは、真実の声をかき消すほどの過剰なことばの氾濫である。インターネットでSNSを開くと、そこには匿名性をいいことに罵詈雑言が溢れ、次々に「炎上」が起こり、敵が敵を生んでいく。ことばへの応接はかつてないほど困難を極めている。
    本書は、東京大学教養学部で行なわれた講義「グローバル化時代の現代思想」をもとにしている。きっかけは、2011年の東日本大震災と原発事故だった。
    この災害を近代の必然ととらえたとき、「人文学」はいかなるあり方が可能なのか? 日常の感覚から思考を再出発し、学問の世界にもう一度、人間を取りもどすこと――その試みが本書ということになる。
    食べる、味わう、話す、聞く、触れる、知る、分ける、待つ、耐える、歌う、忘れる、書く、隠れる……
    ことばの過剰と氾濫から解放されたとき、近代社会が忘れた行為が恢復していく。福澤諭吉が軽んじた「味わう」という行為、「待つ」ことの背後にあった世界の持続、まだ「歌う」ことはできるのかという根源的問い、「隠れる」ことが孕む可能性。ともに生きる自由への珠玉の講義録。
  • シリーズ7冊
    1,5402,090(税込)

    知識人の教養書として、古くから読みつがれてきた名著、待望の新訳! これまでのモンテーニュのイメージを一新する、平易かつ明晰な訳文で古典の面白さを存分にお楽しみください。
  • 実存主義哲学者としてはもちろん「左翼」の精神的支柱として有名な著者による、待望の新刊。サルトルが1961年の12月にローマのグラムシ研究所で行なった講演(「マルクス主義と主体性」)がついに刊行された。フランス語では長らく未刊であったが、講演のみならず、その後の討議録もあわせて収録(フレドリック・ジェイムソンによる巻末の解説も秀逸)。サルトルは、1940年代の後半に『存在と無』にもとづいて具体的倫理学を構想したものの、頓挫し、その草稿は『倫理学ノート』の形で残された。一方、1960年に刊行された『弁証法的理性批判』第一巻における歴史や社会に関する基礎的考察を経て、1960年代に入って構想されたのが「第二の倫理学」であり、『主体性とは何か』は、その序論部分に相当するものといえる。マルクス主義においては客観性が重視され、主体性が蔑ろにされがちだが、各人の行為において重要なのは「主体性の問題」であるというのがサルトルの基本的スタンスであり、本書では、仮想敵としてルカーチをとりあげてゆく――。マルクス主義哲学からバタイユやドゥルーズの問題系へとつながる、主体性をめぐる幻の講演録!
  • シリーズ2冊
    2,2002,640(税込)
    著:
    アンリ・ベルクソン
    訳者:
    竹内信夫
    レーベル: ――
    出版社: 白水社

    哲学者であるとともに数学者・文学者であり、仏教にも造詣が深い──ベルクソンの統一的な全体像がわかる、本邦初の個人完訳! 全7巻+別巻の口火を切るのは『時間と自由』として有名な論考。
  • 堕落した17世紀スペイン社会を生きた著述家による、世間をぬかりなく生き抜くための実践哲学書。人々の愚かさ、悪意、欺瞞に向きあい、人生の勝利者となる方法を説く。待望の完訳!
  • ニーチェ思想が近代日本の知識人に与えた衝撃を鮮やかに描く労作。「近代」に直面した樗牛、漱石、新渡戸、安倍能成、朔太郎、芥川らの苦悩と自己救済の格闘の様が浮き彫りにされる。
  • ヨーロッパを揺るがしたナポレオン戦争、普仏戦争、第一次・第二次世界大戦、そして現在、カントからハーバーマス、デリダにいたる思想家は戦後、いかに戦争について思考していったのか。

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