私達日本人が「スリランカ」についてまず思い出すのが、旧国名であるセイロンの名を冠したセイロンティーでしょう。ですが、真に我々日本人が忘れてはならないのは、昭和二十六年サンフランシスコで開かれた対日講和会議における故ジャヤワルダナ初代セイロン(現スリランカ)大統領の演説です。
大東亜戦争(第二次世界大戦)で敗戦した日本に対する処遇を決定するこの会議において、セイロンは対日賠償の一切を放棄しました。そして「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るのである」という、お釈迦様の教えを引用して日本の完全に独立した自由を訴え、世界中の人々を感動させました。これが会議参加国代表らを動かし、日本の自主独立への道を開いてくれたのでした。
現在でも、スリランカとの外交の席上ではこの話が取り上げられるといいます。
ところが、ほとんどの日本人は、自国にとって非常に重要なこの歴史的事実を知りません。学校などで教えられてこなかったからです。
それは、俗に東京裁判史観と呼ばれているアメリカのプロパガンダにより、終戦直後から数年間にわたり全日本国民が、ラジオや新聞を中心に、雑誌やテレビなどで洗脳され、その後徹底して学校という現場において「日本=悪」の洗脳教育がなされ続けた結果であるのです。
だからいまや日本人の大半が「日本人は悪かった」と信じて疑いません。私達はなぜジャヤワルダナ氏がこのように日本擁護の演説をしたのかということも知らず、ひいては、なぜスリランカ人が日本に対して親愛の情を示してくれるのかも理解していないのです。この事を知らないのは日本人として大きな不幸です。
小社取材班が訪れたスリランカには、私達が見失ったものがありました。大東亜戦争という時代を正しく評価している人がまだ存命であったので、話を聞くことが出来たのは幸いでした。(まえがきより)
<目次抜粋>
第一章私はコロンボ上空で敵と戦いました - 元日本海軍中尉・原田要氏の証言
第二章仏教・親日・独立 - ダルマパーラとジャヤワルダナと日本
第三章私は日本の賞賛者です - サムソン・ウィジェシンハ氏の証言
第四章 日本に感謝しなければいけない - ソマシリ・デヴェンドラ氏の証言
第五章 日本軍が戦ったから独立出来た - ススリパーラ・デ・シルバ氏の証言
第六章 両国には強い絆がある - デシャマンニィ・アントニス氏の証言
(c)Sakuranohana Shuppan Inc. 2009
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「朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません」
本書のロングインタビューで日韓併合当時を熱く語ってくれた証言者の西川清氏(2016年現在、101歳)が、安倍首相への手紙で語った言葉である。(本書に収録)
西川氏は、約80年前の日韓併合時の朝鮮において、朝鮮人の知事が統括する地方行政で内務課長を勤めていた。インタビューで西川氏は、朝鮮を第二の故郷と呼び、かわいがってくれた朝鮮人の上司や同僚のことを、朝鮮から必死に持ち帰った貴重な写真を見ながら昨日の事のように熱く語った。
西川氏は、数々の虚偽で日本の尊厳が汚される現状に義憤を覚え、安倍総理へ次のような手紙を書いたのであった。(本書より一部引用)
拝啓 安倍内閣総理大臣殿
日夜国事に精励されている総理大臣に対し、名もなき一介の老耄がお手紙を差上げるご無礼をお許し下さい。
私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。 結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません。
<取材記>より
日韓併合の実態を行政側から解説できる朝鮮総督府官吏としての証言はおそらく西川氏が最後であろう。 他に朝鮮で生活した方がいたとしても終戦時は幼少であったり、当時を知る家族から伝え聞いた話が殆どになる筈である。それは一つの貴重な体験ではあるが、「朝鮮総督府の施政がどういうものであったか」という視点で語ることは難しい。だからこそ、この元官吏である西川氏の証言及びその写真、資料は日韓併合時の実態を知る上で貴重な記録である。ここに証言されている内容は、戦後教育を受けた人にとっては、驚きであるに違いない。取材に於いて西川氏は、朝鮮のごく平穏な生活と日常に触れ、そこで語られるのは幸せな朝鮮人と日本人の姿であった。また、貴重な写真からも朝鮮人と日本人とが普通に仲が良かったことが分かる。朝鮮人が日本人の上司になることも普通であり、職場の仲間と日朝合同の野球チームを作り他のチームと戦ったり、時に桜の下で酒を酌み交わした楽しい想い出も多く、朝鮮人と日本人は共に朝鮮の発展を願い職務に精励していたという。まるで現代社会と変わらないような錯覚を覚えるが、正にこれが歴史の真実である。
私達日本人が「スリランカ」についてまず思い出すのが、旧国名であるセイロンの名を冠したセイロンティーでしょう。ですが、真に我々日本人が忘れてはならないのは、昭和二十六年サンフランシスコで開かれた対日講和会議における故ジャヤワルダナ初代セイロン(現スリランカ)大統領の演説です。
大東亜戦争(第二次世界大戦)で敗戦した日本に対する処遇を決定するこの会議において、セイロンは対日賠償の一切を放棄しました。そして「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るのである」という、お釈迦様の教えを引用して日本の完全に独立した自由を訴え、世界中の人々を感動させました。これが会議参加国代表らを動かし、日本の自主独立への道を開いてくれたのでした。
現在でも、スリランカとの外交の席上ではこの話が取り上げられるといいます。
ところが、ほとんどの日本人は、自国にとって非常に重要なこの歴史的事実を知りません。学校などで教えられてこなかったからです。
それは、俗に東京裁判史観と呼ばれているアメリカのプロパガンダにより、終戦直後から数年間にわたり全日本国民が、ラジオや新聞を中心に、雑誌やテレビなどで洗脳され、その後徹底して学校という現場において「日本=悪」の洗脳教育がなされ続けた結果であるのです。
だからいまや日本人の大半が「日本人は悪かった」と信じて疑いません。私達はなぜジャヤワルダナ氏がこのように日本擁護の演説をしたのかということも知らず、ひいては、なぜスリランカ人が日本に対して親愛の情を示してくれるのかも理解していないのです。この事を知らないのは日本人として大きな不幸です。
小社取材班が訪れたスリランカには、私達が見失ったものがありました。大東亜戦争という時代を正しく評価している人がまだ存命であったので、話を聞くことが出来たのは幸いでした。(まえがきより)
<目次抜粋>
第一章私はコロンボ上空で敵と戦いました - 元日本海軍中尉・原田要氏の証言
第二章仏教・親日・独立 - ダルマパーラとジャヤワルダナと日本
第三章私は日本の賞賛者です - サムソン・ウィジェシンハ氏の証言
第四章 日本に感謝しなければいけない - ソマシリ・デヴェンドラ氏の証言
第五章 日本軍が戦ったから独立出来た - ススリパーラ・デ・シルバ氏の証言
第六章 両国には強い絆がある - デシャマンニィ・アントニス氏の証言
少年時代、誇り高い日本軍人と楽しい時間を過ごしたフィリピン人のダニエル・H・ディソン氏が、日本軍人の真実の姿と、崇高な精神について語った。
「長い間フィリピンを植民地としてきたスペインやアメリカに比べれば、日本のフィリピン支配はほとんどないに等しいものでした。日本は、そのたった四年の間にカミカゼ精神をもたらしてくれました。それは、フィリピンにとって最良のものでした」
(本文より)
私の家にある小さなカミカゼ博物館には、定期的に高校生や大学生が訪問しますが、私はカミカゼ精神とはアジア人が到達しうる究極のものであることを、彼らに教えています。
カミカゼの精神は自らのアイデンティティ、自らの名誉や文化を守るために、自らの命を引き替えにするところまで、人は到達することが出来るのだ、ということを示しているのです。
<著者略歴>
ダニエル・H・ディソン(Daniel H. Dizon)
1930年フィリピン・マニラ市に生まれる。父ヴィンセンテ・ディソン氏は著名な芸術家。その後アンヘレス市に移る。11歳の時に第二次世界大戦(大東亜戦争)が勃発し日本軍の将兵達と出逢う。戦後は高等学校に進学し、卒業後は10年以上電気会社に勤務するが、フィリピン大学美術学部の奨学生試験に合格し入学。大学在学中に歴史学に興味を持ち、植民地時代以前のフィリピンの歴史を調べ始める。卒業後に旧日本軍の神風特別攻撃隊の事実を知り衝撃を受け、特攻隊と日本の歴史の研究に没頭。1974年に特攻隊が史上初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。現在も歴史研究を続け、自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いている。
<目次抜粋>
第一章 アメリカはヒーローだった
第二章 街に日本軍がやって来た
第三章 懐かしい日本軍との蜜月時代
第四章 戦争末期の日本軍の惨状
第五章 カミカゼ記念碑建設へ
第六章 妻エンリケッタの思い出話
第七章 日本は何故戦争に突入したか
第八章 真の友情こそ私の願い
シリーズ「日本人の誇り」刊行によせて
<目次>抜粋
第一部 私は今でも親日家です-ユスフ・ロノディプロ氏の体験
誇りの持てなかったオランダ植民地時代
戦時中に見た日本人たち
インドネシア独立のための戦い
第二部 日本軍との出逢いと私の人生-ハッサン・ラハヤ氏の体験
オランダ支配下の子供時代
日本の兵隊さんたちとの出会い
日本語を習い軍政監部へ
南方特別留学生として日本に渡る
広島で被爆する
戦後再び大学へ進学する
帰国後インドネシアと日本の架け橋に
アジアの解放は日本によってもたらされた
第三部 日本軍政下で愛国心を育てた-プロボ・スウォンド氏の体験
第四部 日本軍の占領は幸運だった-スリオ・ウィリオハディプトロ氏の体験
第五部 スカルノ大統領は日本人を尊敬していた-ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ氏の証言
日本人は誇りを取り戻さなければいけない
【証言者】年齢は発刊当時
◆ユスフ・ロノディプロ氏
1919年生まれ。戦争中は日本の軍政監部宣伝部やラジオ放送局に勤務。日本の敗戦直後にインドネシアの独立宣言文を密かにラジオ放送したために日本軍憲兵に殺されかかる。独立後は各国インドネシア大使を歴任。86歳。
◆ハッサン・ラハヤ氏
1922年生まれ。戦争中は日本の軍政監部人事課に勤務。南方特別留学生として来日中に原爆に被爆。帰国後は日イの貿易に従事し国会議員、最高諮問会議議員を歴任。日イ親善に尽くす。2005年旭日中綬章を受ける。83歳。
◆プロボ・スウォンド氏
1927年生まれ。高校生の時に大東亜戦争が始まる。16歳の若さで日本軍が設立した郷土防衛義勇軍に参加し小団長となる。インドネシア独立戦争中はゲリラ隊として活躍。インドネシア国軍中将。国連大使。78歳。
◆スリオ・ウィリオハディプトロ氏
1917年生まれ。オランダ系電気会社勤務中に大東亜戦争が始まる。郷土防衛義勇軍に参加し小団長となる。独立戦争中は軍司令部で戦闘を指示。インドネシア国軍大将。89歳。
◆デヴィ・スカルノ氏(デヴィ夫人)
1959年スカルノ・インドネシア共和国初代大統領と結婚。大統領の政治理念を補佐し日イの相互扶助に貢献。大統領亡き後も社交界にて華やかな話題を振りまきつつ、インドネシアで事業を行い、更に国連環境計画基金のための募金、アジア先住民の権利と生活の促進に必要な種々の援助や寄付活動等を行う。日本でもテレビ出演、講演会等で活躍、日本の誇りを復興させようと尽力している。
古き良き日本時代の台湾で育ったかつての少年兵が「日本へのご恩返しに」と語った日本の本当の歴史
大東亜戦争末期の台湾。
日本は苦戦を強いられ、当時日本だった台湾への米軍上陸も間近と予想されていた。
その台湾で、内地の学徒兵と同様、まだあどけなさの残る
15歳、16歳の学生たちが祖国を守ろうと立ち上がった。
ある者は志願して、ある者は召集令状を受け取って。
皆が抱いたのは「僕たちがやらなければ、誰が国を守るのか!」という悲しくも強い想いだった。
平和しか知らないあなたに読んで欲しい
国とは戦争とは、人間とは、
そして生きるとは何か
<目次より抜粋>
第一部 日本統治時代の語り部として-蕭錦文氏の証言
第二部 私は今でもサムライです-許江陶氏の証言
第三部 終戦間際の北京は平和だった-李延益氏の証言
第四部 十五歳、命の覚悟-郭鏡川氏の証言
【証言者紹介】
◆蕭錦文
大正15年、台北生まれ。4歳で父が他界し祖母の元で育てられる。14歳の時、義勇志願兵に志願し合格。シンガポールに駐屯した後、ビルマに転任、プノンペンで終戦を迎える。戦後、台北で新聞社在勤中に二・二八事件が起き、弟を銃殺刑で亡くす。自身も捕らえられ拷問の末、処刑寸前で助かる。現在は台湾総統府や台北二二八紀念館にてボランティアで日本語ガイドを務める。
◆許江陶
昭和2年、高雄生まれ。高雄工業学校在学中に学徒兵として出征。分隊長を務める。終戦は高雄で迎える。二・二八事件で兄と義兄を亡くす。復員後は高雄港務局に勤務する。台湾の国家公務員の多くは国民党に加入する中、反国民党の立場を貫く。楽しみは日本のNHK大河ドラマ鑑賞。戦国武将や侍の生き様に共感している。
◆李延益
昭和2年、台南生まれ。高雄工業学校在学中に「陸軍特別幹部候補生航空兵」の試験に合格。1944年7月に青森の陸軍航空学校八戸教育隊に入隊し、翌年5月に北京へ派遣される。3ヵ月後に終戦を迎える。除隊後、難民となり北京、上海に滞在後、翌年5月に台湾に帰還。復員後は高雄港務局に勤務し主任土木技師として活躍。
◆郭鏡川
昭和4年、台南生まれ。高雄工業学校在学中に15歳で学徒兵として出征。寿山で爆撃に遭うが一命を取り留める。戦後、肥料会社や鉄鋼メーカーに勤務した後、フリーのインテリアデザイナーに転身し活躍。引退後は悠々自適な修養の日々を送る。読書家であり自然科学、脳科学、仏教、芸術、文学にも造詣が深い。
「朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません」
本書のロングインタビューで日韓併合当時を熱く語ってくれた証言者の西川清氏(2016年現在、101歳)が、安倍首相への手紙で語った言葉である。(本書に収録)
西川氏は、約80年前の日韓併合時の朝鮮において、朝鮮人の知事が統括する地方行政で内務課長を勤めていた。インタビューで西川氏は、朝鮮を第二の故郷と呼び、かわいがってくれた朝鮮人の上司や同僚のことを、朝鮮から必死に持ち帰った貴重な写真を見ながら昨日の事のように熱く語った。
西川氏は、数々の虚偽で日本の尊厳が汚される現状に義憤を覚え、安倍総理へ次のような手紙を書いたのであった。(本書より一部引用)
拝啓 安倍内閣総理大臣殿
日夜国事に精励されている総理大臣に対し、名もなき一介の老耄がお手紙を差上げるご無礼をお許し下さい。
私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。 結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません。
<取材記>より
日韓併合の実態を行政側から解説できる朝鮮総督府官吏としての証言はおそらく西川氏が最後であろう。 他に朝鮮で生活した方がいたとしても終戦時は幼少であったり、当時を知る家族から伝え聞いた話が殆どになる筈である。それは一つの貴重な体験ではあるが、「朝鮮総督府の施政がどういうものであったか」という視点で語ることは難しい。だからこそ、この元官吏である西川氏の証言及びその写真、資料は日韓併合時の実態を知る上で貴重な記録である。ここに証言されている内容は、戦後教育を受けた人にとっては、驚きであるに違いない。取材に於いて西川氏は、朝鮮のごく平穏な生活と日常に触れ、そこで語られるのは幸せな朝鮮人と日本人の姿であった。また、貴重な写真からも朝鮮人と日本人とが普通に仲が良かったことが分かる。朝鮮人が日本人の上司になることも普通であり、職場の仲間と日朝合同の野球チームを作り他のチームと戦ったり、時に桜の下で酒を酌み交わした楽しい想い出も多く、朝鮮人と日本人は共に朝鮮の発展を願い職務に精励していたという。まるで現代社会と変わらないような錯覚を覚えるが、正にこれが歴史の真実である。
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