元弘三年(1333)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。 幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。尊氏、京都の後醍醐天皇に忠誠を誓い、南朝方に与していった。 後醍醐天皇の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていくなか、鎌倉方の残党が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せた。 これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。 後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に脱出し南朝を創始することになった。 幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。 直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。 後醍醐天皇の崩御後はその菩提(ぼだい)を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。