小栗忠順(1827~1868)幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続,同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され,翌年1月横浜を出航し9月帰国した。同年11月外国奉行,翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが現地解決を断念し帰府,7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動,尊王攘夷運動を朝廷,雄藩による幕政介入とみて抵抗,徳川慶喜,松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1(1864)年8月勘定奉行に復職,次いで軍艦奉行,翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ,横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始,また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対,討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行,翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや主戦論を建議。かえって遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住,閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み,世界の大勢にもほぼ通じて,しかも誠忠無二の徳川武士,……三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。