柳沢吉安(1658~1714)江戸中期の側用人。甲府藩主。上野国舘林城主徳、徳川吉に仕えた安忠(勘定頭、知行160石・禀枚370俵)の子。初名房安、安明。1675年(延宝2)家督を相続、小姓組を務める。1680年綱吉が5代将軍となると幕臣に入れらえ、小納戸を経て1688年(元禄元)側用人に昇進、万石以上に列した。1694年には武蔵国川越7万石2030石に封じられ、評定の席に出座を許された。ついで1698年には左近衛少将に任じられたて老中より上格となり、1701年には松平姓を許され、綱吉の偏諱を与えられ吉保と名乗った。1704年(宝永元)綱吉の後継が甥の甲府城主徳川綱豊(家宣)に決まると。その功績によって家宣の旧領のうち15万ⅰ200石余を与えられ、翌年改めて甲斐国山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになった。甲斐国は従来徳川一門にしか与えらえない領国で、しかも3郡一円の石高は22万8700石余に及び、事実上加増が行われた。新井白石は、吉保が幕政に専断したと評しているが、吉保の日記や当時の御用部屋の記録などからは、老中合議を重視する誠実な人柄が窺える。吉保の側用人政治を実務面から支えたのは舘林旧臣の勘定方たちであった。1709年、家宣が第6代将軍に就任すると隠居して保山と称して、1714年(聖徳4)11月江戸馬込の別荘六義園で死去した。