「三好長慶」(1523年~1564年、戦国の武将、父は三好元長。1523年(天文元)主人の細川晴元と対立した父は一向一揆に包囲され堺で敗死したが、長慶は1534年晴元と和して被官となり摂津国越水城に拠って反晴元勢力と戦った。その後、叔父政長との対立を機に晴元と決裂、1549年敗れた晴元が将軍足利義輝と京都を脱出する細川氏綱を擁し上洛、事実上京都を支配した。1552年近江国の守護六角義賢の斡旋により和議がなり、義輝は帰京したが、翌年和議を破って挙兵した義輝を追放、摂津国芥川城に本拠を移した三好政権の絶頂期を迎えた。長慶は管領・管領代制というとうじの室町幕府の支配体制を否定し、自ら裁可を行った。しかし、1558年(永禄元)義輝を再び帰京させるをえず、弟十河一存(?1561)の病死、三好義賢(1526年~1562年)の戦士が相次ぎ、家臣勝永久秀が台頭し、嫡子義興も不慮の死を遂げる中、失意のうちに河内国飯森山で病死した。