「永正の錯乱の概略」(1507年)細川政元の3人の養子による家督相続争い。永正の錯乱と人物相関、永正4(1507)年、管領の細川政元が暗殺された。政権を掌握した細川京兆家の当主の座にはいったい誰が座るのか。実子のいなかった政元には3人の養子(澄之・澄元・高国)がいたが、彼らは当主の座をめぐって争い、以後数十年にわたって続く事になるのである。この戦乱は、彼らを擁する勢力(三好氏、大内氏、波多野氏、内藤氏、薬師寺氏など)同士の戦いでもあり、また、ややこしいことに明応の政変でふたつに割れた将軍家の争いも絡んで、とても複雑なものに展開していった。きっかけとなった細川京兆家の家督相続争いを中心に、「永正の錯乱」の流れを追ってみると、実子を持たなかった細川政元の3人の養子、この細川氏とその周辺、さらには将軍家をも巻き込んだ壮大すぎる争いが起こった原因は何かといえば、政元が生涯妻を持つことなく、実子がいなかったこと。原因の半分以上はこれであろう。修験道に没頭し、妻を持たなかった。政元は細川京兆家の当主でしたが、修験道に没頭していたために妻帯せず、女性を近づけることなく生涯独身で過ごした。つまり、修験道に凝る政元は、女性と交わると法力が得られないからという理由で真面目に生涯を独身で過ごしたわけです。細川澄之(九条家)政元が最初に迎えた養子は、九条政基の末子の澄之で、延徳3年(1491)にわずか2歳で養子に迎えられると、細川京兆家の当主が代々名乗った幼名「聡明丸」と名付けられ、嫡子として育てられることになる。実は、政元が澄之を養子に迎えた理由には、純粋に跡継ぎがほしかったという理由だけでなく、当時政元が次期将軍にしようと考えていた足利義澄の従兄弟であるという理由があった。しかし、政元と将軍となった義澄との対立が深まったこともあってか、関係が良くなかった澄之を廃嫡することもあった。細川澄元(阿波細川家)澄元は細川氏の庶流のひとつ阿波細川家で、細川義春の子として生まれまた。政元にはすでに澄之という養子がいたが、政元自身と折り合いが悪かったこと、また内衆らが細川家と血縁ではない九条家の澄之を当主に立てることに難色を示したことから、庶流の血縁である澄元に白羽の矢が立って、文亀3年(1503)、内衆の薬師寺元一らが主導して進められて養子に迎えられた。
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