「布部山の戦いの起因」(ふべやまのたたかい)は、永禄13年2月14日(1570年3月20日)に尼子家再興を目指す尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利軍との間に起こった野戦である。戦いのあった場所が布部の中山(現在の島根県安来市広瀬町布部)であったことから布部山の戦いと呼ばれる。軍記資料には「尼子・毛利の国の戦いも今日が最後」と記される激戦であった。尼子氏の滅亡★尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。★天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。★天文23年(1554年)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって粛清された際、小川重遠によって助けられる。後に晴久が保証人となり、京都に出て東福寺の僧となった。★永禄9年(1566年)、尼子義久の代に、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡するが、永禄11年(1568年)、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。★永禄12年(1569年)に隠岐から出雲国に入ると、尼子氏の旧臣の支援を得て出雲新山城に入城。月山富田城奪還を目論むが、毛利元秋や天野隆重の奮戦により攻略は失敗に終わる。永禄13年(1570年)2月、布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。★天正2年(1574年)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。★その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577年)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略した際にその守備を命じられた。