明治時代の軍人、政治家。弘化4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖陸軍卿に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望と交互に政権を担当した(いわゆる桂園(けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬(はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗」と評したという。 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した