平清盛(1118年~1181年)平安後期の武将。最初の武家政権の樹立者。刑部卿平忠盛の嫡子、実は白河法皇院の落胤。母は白河法皇の身辺の女性で、懐妊後忠盛の妻として下賜され、1118年(元永元)1月18日に生まれたのが清盛である。これに関して母を祇園の女御もしくは彼女を妹とする伝承があるが、根拠がない。居館が六波羅にあり、武家として初めて太政大臣従1位に昇ったので、六波羅殿、六波羅入道・平相国・平禅門などと呼ばれた。清盛は祖父正盛・父忠盛が院の近習として、また院政の武力的支柱として政界に地歩を築いたのを受けて、発展させた。保元の乱では後白河天皇方として勝利に導いた、乱後は藤原通憲(信西)と組んで勢力を伸張。平治の乱では源義朝らを破り、その後は圧倒的な軍事力を背景に、中央の政局を左右する政治勢力に成長した。清盛は、二条天皇親政派と後白河上皇方の対立のなかを巧みに遊泳。1160年(永暦元)の参議正三位を手始めに急速な官位の昇進を果たした。1160年(仁安元)内大臣、翌年1167年2月には太政大臣に進み、平氏は後白河院を従属的に同盟しながら国家権力掌握した。清盛は同年2月に病により出家し家督を重盛に譲るが、以後摂津福原に有って影響力を行使し続けた。清盛室の妹慈子を母にする高倉天皇が即位し、1171年(承安元)には清盛の娘徳子が天皇の後宮に入り、平家は摂関家にも接近、清盛の娘盛子を近衛基実に嫁がせ、基実が早世すると摂関家領を事実上押し領した。治承年間(1177~1181)には鹿ケ谷事件、重盛の死後による没収などで、院と対立した。高倉天皇が譲位、徳子が産んだ安徳天皇が即位し、清盛はついに外祖父になった。1180年以仁王の挙兵以来源氏が挙兵すると、平家は福原に遷都し失敗し、平家の立て直し図ったが、2月には病に倒れ、4日に死去した。