甲申政変(こうしんせいへん)1884年(甲申)朝鮮のソウルで、クーデターによって閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が切迫してくると、支配層内部でも、実学の流れをくむ洪英植(こうえいしょく)、金玉均(きんぎょくきん)、朴泳孝(ぼくえいこう)らを中心とする開化派は、明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうと、留学生の派遣、『漢城旬報』の発刊などに努める一方、高宗にも接近、啓蒙(けいもう)にも努力した。しかし当時清(しん)国と結んだ守旧派が政権を握り、改革を阻んでいた。84年清仏(しんふつ)戦争で清国が敗れたのを機会に、開化派は日本の援助を得て守旧派打倒のクーデターを行った。すなわち、12月4日、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊(びんえいよく)らを殺傷し、ただちに王宮に入り高宗を掌握、クーデターは一時は成功した。開化派は新政府を樹立、6日には14か条からなる新政綱を発表した。内容は門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特権商人の廃止、軍制の改革など、上からのブルジョア改革の志向を反映していた。しかし6日清国軍が介入し、新政権は三日天下に終わった。洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は日本に亡命した。日本公使館は焼かれ、公使竹添進一郎は仁川(じんせん)に逃れ、ふたたび守旧派政権が樹立された。この政変の評価は朝鮮近代史の論争点の一つで、北朝鮮では反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命と評価しているが、単なる支配層内の政権争奪戦という見解もある。