島津久光(1817~1887)29代薩摩藩主島津忠義の実父。幼名晋之進、後又次郎忠教、三郎と称した。父は27代斉興。母は側室由良。島津忠公の養子になって重富島津家を継ぐ。1858年(安政5)異母兄斉彬が急死、その遺言により久光の長男忠義が家督を継承して薩摩藩主となったため本家に戻り、忠義の後見役となって藩の実権を握り、国父と呼ばれた。斉彬の遺志にを継承して公武合体論を唱え、大久保利通ら藩内の攘夷派を諭して突出を押さえた。1862年(文久2)には藩内攘夷過激派を弾圧(寺田屋事件)。この時に命令を背いた西郷隆盛を流刑に処した。さらに同年、勅使大原重徳とともに東下し、幕府に改革を迫った。その帰途に、供の藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)。翌年にはこれが原因となって薩英戦争が勃発した。1864年(元治元)の参与会議では、長州処分・横浜港問題を巡って徳川慶喜と対立。事態打開のために西郷隆盛を呼び、第一次長州征討、薩長同盟締結、第二次長州征討などにあたらせた。この間に藩論を王政復興後は、政府の開明政策に不満を抱きつけた。1871年(明治4)玉里島津家をおこす。1873年内閣顧問、1874年左大臣に任じられたが、1876年政府の欧化政策に批判して鹿児島に帰り隠棲した。1884年公爵になる。国葬により鹿児島市の旧福昌寺墓地に葬られた。