天武天皇(?~686年)古代の天皇。673年~686年在位。父は舒明天皇、母は皇極天皇で、天智天皇・入間皇女の母妹、同母弟。大海人皇子と言い、天智天皇皇女のウノノサラサ皇女(持統天皇)を皇后とした。「日本書紀」によれば、皇后の産んだの草壁皇子他・大津皇子・長・弓削・高市・新田部・忍壁・磯城の諸皇子と大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・託基諸皇女とがあった。「日本書紀」には668年(天智天皇7)立太子したとあり、天智朝において重要政務に参画したと思われるが、やがて天智天皇と疎隔を生じ、671年には天智天皇の子大友の皇子が太政大臣となった。同年天智天皇の死の直前に大海人皇子は近江を去って吉野に引退、翌671年(天武天皇元)には吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒して(壬申の乱)、翌年天武天皇となった。即位後の天皇は、朝鮮半島を統一を完成した新羅との国交を保持しつつ、中国の唐とは交渉を断ち、強大な皇権の下で政治の主導権を握り、畿内豪族層の結集の上に立つ中央集権的政治体制を確立に努めた。天皇は豪族層を国家の官人として組織することに意を用い、673年には大舎人の制を、678年には官人の勤務の評価・昇進の法を定め、また685年には親王をも授与の範囲を含める新しい官位制を施行した。この前年のh八色の姓の制定も、位階の制と結合した朝廷の新しい身分秩序を定めたものである。皇族・豪族の経済的基盤についても、675年、天智朝に諸氏に賜わった部曲を廃止し、食封性にも改革を加え、封主・封民間の私有民的な関係に徹しせしめた。天皇はまた理念的な面で天皇を中心とする支配層の結束に努めた。大来皇女を斎宮とするなど伊勢神宮の祭祀を重んじ、広瀬・龍田の神の祭祀を国家の手で行い、国造を諸国の大祓いにに奉仕させるなど、神祇の祭祀権を天皇に集中させた。仏教については大官大寺等の造営し、また地方に普及に進める一方で、寺院・僧尼には厳しい統制を加え、鎮護国家のためのものとしの位置づけを図った。宮廷においては中国風の衣服をや礼法を定め、礼楽備わった威容を誇示することによって務めるとともに、官人には武装を整え、乗馬に習熟することを命じた。