秀吉の四国攻めは天正13年戦国時代の末期の信長は本能寺で横死、秀吉は天下統一への未平定の四国征服の四国の覇者長宗我部元親と天下人目前の羽柴秀吉の戦争である。 天正3年土佐を統一した元親は信長に接近し、阿波での在陣を認めてられた。ところが秀吉の時代になって秀吉の甥の秀次と三好康長と養子関係にあって康長は讃岐から阿波に入り同族の三好康俊と元親を離反させ、信長の四国政策を三好よりに偏向させた。元親から圧力を受けた阿波の三好、伊予の河野氏らは元親の勢力拡大に信長に救援を求めた。信長は元親に土佐一国と阿波南半分を認めた。これを不満として元親は織田勢に対抗した。信長は三男信孝を総大将に四国に派兵した。所が本能寺の変で頓挫し、秀吉が取って代わって対立、元親は西讃の諸将らを集結し、反元親勢力に攻勢し、織田・徳川方に調略した。讃岐・阿波・伊予を攻略し、意見が分かれるが、長宗我部は四国を平定する勢力範囲を手中に収めつつあった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。