「三木合戦の概要」秀吉が播磨征伐に着手したのは、天正5年(1577)の秋。西播磨の拠点・上月城や福原城を攻略し、播磨はまたたくまに平定されました。ところが、翌年3月、それまで織田方として活躍してきた三木城主・別所長治が、突如、離反。織田方と敵対関係にあった西国の毛利氏に寝返ります。それに呼応して播磨の諸勢力が次々と毛利方に寝返り、播磨における秀吉の優勢は一挙に後退してしまいました。このエピソードからは、長治の発言力がいかに大きかったかがうかがえるでしょう。それもそのはず。別所氏は、中世以来、播磨国の守護大名として君臨してきた赤松氏の流れをくむ名門氏族。応仁の乱の後、赤松家臣団のなかから別所則治が頭角を現し、就治の代には東播磨を基盤として主家をしのぐほどの勢力を築きあげました。長治離反の折、特に東播磨の諸勢力がこぞって長治に同調した背景には、このような長年にわたる別所氏の権威と権力が強く影響していたのです。写真は三木城内に建立されている長治の騎馬像ですが、後の天下人・秀吉に叛旗を翻した謀反人であるにもかかわらず、地元の人たちがいまでも長治および別所氏に深い思いを寄せているか、この堂々たる雄姿からもうかがえますね。鉄壁の包囲網を突破せよ!淡河弾正忠定範戦死之址碑平田・大村の合戦の翌月、それまで毛利方に与していた備前の戦国大名・宇喜多直家が、織田方に寝返った。さらに、長治と呼応して挙兵した荒木武重の有岡城が陥落。三木城は完全に孤立をしてしまった。万策尽きた長治は城内に立て籠もる将兵たちの命を助けるという条件で自害をするという道を選んだ。天正8年1月17日の事であった。ここに1年10カ月に及んだ三木合戦が幕を閉じた。