佐久間象山(1881年~1864年)幕末の思想家。名は啓(ひらき)。通称は修理。象山は号。信濃国松代藩士佐津間国善の子として浄化に生まれる。幼少期から家老鎌原桐山から経学文章を、町田源左衛門から和算を学ぶ。18才で家督を継ぎ、1833年(天保4)江戸に出て佐藤一斉に師事し、1839年象山書院を開き、1841年江戸藩邸学問所で頭取となる、翌年藩主真田幸貫が海防掛老中に就任すると、海外事情の調査研究を命じられ、これを契機にこれまでの儒学(朱子学)を信奉してきた象山の思想的回転が始まる。象山はアヘン戦争(1840~1842)に強い衝撃を受け、伝統的華夷思想に安住してきた中国は西洋諸国が科学的技術の進歩の上に強国を実現したことを知らず、学問の実現・実用性を喪失したためにイギリスに敗れたととらえ、そして「彼を知る」ことで「己を知る」孫氏の兵法に倣い、日本が中国の轍を踏まないためには西洋の科学技術を積極的に摂取することが必要だと考えた。1842年西洋砲術を学ぶために江川太郎左衛門に入門、かた藩主あてに上書(海防八策)を提出した。さらに1844年(弘化元)からオランダ語を学び洋学研究に打ちこんだ。1851年(嘉永4)江戸木挽町に塾を開いて西洋砲術を教え、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門。西洋の学問に目覚め、それを通じて旧来の学問のあり方等直すという姿勢は、対外的に危機意識を抱いていた青年強い衝撃を与えた。1854年(安政元)松陰の密航事件に連座して蟄居を命じられ、松代で8年間を過ごす。1862年(文久2)書面となり、1864年(元治元)将軍後見職一橋慶喜の召命を受けて上京したが、公武合体と開国進取論をもって奔走中7月17日尊攘激派の志士に暗殺された。