石田三成(1560年~1600年)安土桃山時代の武将。近江国坂田郡石田村に生まれる。父は佐々木京極氏の被官の隠岐守正継、兄は正澄。幼名は佐吉、初名は三也。単会木簡攫」は幼少時寺院に属したと伝える。秀吉への献茶は有名。近江長浜城主であった。羽柴秀吉に認められ近侍する。秀吉の中国攻め、山崎の合戦に従い、賤ケ岳の戦いで活躍する。1585年(天正13)秀吉が関白に就任した際、緒大夫12人の一人として従五位下治部少輔に叙任された。その後堺奉行となり、1587年の九州攻めや1590年の小田原攻め、および奥羽州攻めでは兵站の確保などに手腕を発揮し、同年に佐和山城主となった。領地は近江国犬上・坂田・浅井・伊香4群に18万国(一説に19万4000石)を与えらえた。さらに、坂田・犬上郡内の秀吉直轄領3万7000石余の代官も兼ねた。吏務に長じた三成は、1584年の近江検地をはじめとして九州・関東・奥羽諸国の検地を担当した。また、所領支配にも意を用いた。1596年(文禄5)3月1日に領内に通達した民政に留意した掟書きは著名である。1592年(文禄元)に朝鮮出兵が始まると船奉行に任じられて肥前名護屋に駐留しその後朝鮮に渡って明軍と戦い、壊し説を伴って帰国した。秀次切腹事件後、五奉行の一員と成。一五九八年(慶長3)秀吉が没したのち、有力大名間の抗争が激化、三成は徳川家康に反対する立場をとるが、同年3月には加藤清正、黒田長政らの武闘派に追われて一時、家康に頼る一幕もあった。1600年大谷吉継、安国寺恵瓊らと、毛利輝元を盟主に家康に挙兵をしたが関ケ原の戦いに敗れ、三成は近江国の伊香郡古橋で捕縛され、京都は六条河原で処刑された。