毛利元就(1497~1571)中国地方の戦国大名。毛利弘元の次男。兄沖本は十嫡子幸松丸が相次いで早世したために、重臣の合意により1523年(大永3)27歳で家督を継いだ。当時の毛利は出雲尼子氏と周防大内氏の一国人領主に過ぎず、家臣団も庶家や中小領主の一揆結合的性格を強く残し、毛利氏は秩序紊乱者への制裁を委任されてた立場だった。元就は尼子方の高橋氏を滅ぼし遺領を獲得、熊谷・宍戸氏ら有力国衆と同盟・婚姻関係を結び地位を強化、1541年(天文6)3万の大軍による尼子氏に吉田郡山城を包囲を大内氏も援軍も得て撃退したが、翌年の大内氏出雲遠征の失敗によりアマゴが勢力を盛り返した。元就は、妻妙玖の死後1546年に隠居し家督を嫡子隆元に譲るが、これを機に政治的手腕を発揮する。すでに1544年に三男隆景を竹原小早川氏の養子に入れ、この年次男春元の大朝新荘入部を実現、吉川興教父子の謀殺などの反対勢力を一掃した。家中においても、攘夷を軽んじて勝手な振舞があったとして重臣井上一族を誅殺、毛利家の公議として支配権を認めて裁判・軍事動員・行政命令に従うこと、家臣に制約させた。それに基ずき奉行人制や軍法書などが整備され、毛利氏権力は飛躍的強化された。1551年陶晴賢がクーデターで大内氏を倒すと、芸備の国衆は毛利に統率化に独立の動きを強め、陶氏との対決を余儀なくされた。1555年(弘治元)厳島の戦いに奇襲に勝利を収めた。土一揆などの抵抗勢力を排し、大友氏と大内氏領の分割を訳して1557年周防・長門を征服、石見の大内方国衆も服属させた。広大化した領国の統治と拡大のために山陰地方を元春、山陰地方を隆景が担当し当主隆元は補佐する毛利両川体制を形成し、1563年(永禄6)隆元が急死し、孫の輝元を後見し譜代重臣の福原貞俊・口羽通良にこれを補佐させた。北九州・山陰のに正面での戦いを、将軍足利義輝の調停の工作を利用して切り抜け、1566年に尼子を降伏させた。以降大友氏と本格的対峙するが、尼子勝久の出雲進出、大内輝弘の周防上陸、備前、浦上氏の備中進入、能島村上氏の離反など後方かく乱に追われる中安芸郡山城で病死した。