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『信長 3、歴史研究会(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~28件目/全28件

  • 天正元年(1573)8月、織田信長は朝倉氏を滅ぼして(朝倉征伐:刀禰坂の合戦~一乗谷の戦い)越前国を所領に収めると、前波吉継を一乗谷城に置いて守護代に任じるとともに、降伏した朝倉旧臣にも旧領を安堵し、その支配を委ねた。この前波吉継は、かつては朝倉氏の重臣であったが元亀3年(1572)に織田氏へと寝返り、朝倉征伐において侵攻の案内役や国衆の調略などで功績を挙げた武将である。越前国の隣国・加賀国は長享2年(1488)6月に一向一揆が守護・富樫政親を滅ぼして(高尾城の戦い)以来「百姓の持ちたる国」と言われ、一向宗徒によって統治の成されてきた国であった。朝倉氏はこの加賀国の一向一揆と交戦・和睦を繰り返しつつ越前国を維持してきた実績があり、信長はその朝倉旧臣を起用することで越前国を維持しようと試みたのである。しかし、この信長の試みは失敗であった。前波による越前国の統治はうまくいかず、朝倉旧臣同士の反目や野心が露呈されることとなったのである。とりわけて前波と富田長繁の対立は顕著で、天正2年(1574)1月に至ってついに富田長繁は一向一揆と結んで味方として前波の居館を襲って討ち果たし、さらには鳥羽野城主の魚住景固をも謀殺して、越前国の支配権を握ろうとした。しかしその長繁も一揆の敵である信長に意を通じたとして、石山本願寺より派遣された坊官・七里頼周の指揮する一向一揆によって翌2月に討たれ、さらには織田勢力に属していた朝倉景鏡・朝倉景冬・溝江長逸ら朝倉旧臣や平泉寺などもことごとく滅ぼされ、越前国も「一揆持ちの国」と化したのであった。信長もこうした情勢を察知していたであろうが、この頃は甲斐国の武田勝頼が領国拡大へ向けて活発な動きを見せていたために美濃・遠江国方面への警戒を優先しており、越前国方面への対策は、近江国に配した羽柴秀吉らに命じて警固を強化するに止められたのである。しかし、一向一揆によって制圧された越前国では新たな対立が生じていた。前波吉継・富田長繁を倒した際の大きな原動力となったのは主に農民層の門徒による爆発力であったが、武家による統治を除いたあとの支配権は、新たに派遣された本願寺の坊官らに握られた。しかしこの本願寺坊官と在地寺院の坊主衆は支配権をめぐって水面下で対立し、さらには在地坊主衆は以前と変わることのない負担を農民層に強いたため、農民層の不満は募るばかりだった。
  • シリーズ65冊
    220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。
  • 戦国時代

    「西上作戦の起因」(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。 尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。
  • 荒木村重(1535~1587)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて「中川瀬兵衛らと池田21人衆を形成して主導権を掌握。1571年(元亀2)茨木の茨木佐渡守や高槻の和田惟政らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正3)足利義昭と織田信長と不和に際して信長に従い、功により摂津国一国の支配を任され、従4位下摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言により信長に怒りを買い、やむえず本願寺・毛利氏と通じて本拠伊丹有岡城に立て籠もって信長に背いた。籠城10カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れ、後に尾道に住んだ。かつては千利休に茶の湯を学び、晩年は境に住み茶の湯を持って豊臣秀吉に仕えた。
  • 明智光秀(?~1582)安土桃山時代の武将。美濃氏土岐氏の庶流と伝えらえるが、確かなものではない。「永禄六年諸役人付」足軽衆明智とあるので、足利義輝の代から幕臣と思われる。1565年(永禄8)義輝が殺害されたのち、越前朝倉義景に仕えたらしい。68年足利義昭が義景のもとを去って織田信長に頼った際に、細川藤孝とともに仲介工作をしたと伝えられ、以降光秀は幕臣であるとともに、信長にも仕えることになった。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕置きなど京都の近辺の政務を1575年(天正3)頃まで担当した。他方、武将としても、1570年(元亀元)信長の朝倉・浅井攻めに参加、翌年近江南部のの一向一揆や延暦寺との戦いに従軍し、信長による延暦寺の焼き討ち後に、その旧領近江国志賀郡を与えらえて坂本城を築城した。この頃より義昭とは不和となり、1573年に信長が義昭を攻めて追放した際には信長方に従軍した。同年7月信長から惟任の名字を受け、日向守に任じられた。同年より主として丹波攻略を担当し、1579年八上城主波多野秀治らを降して攻略を完了、同国を与えられた。徳政令の発布のなど同国の民政にも努めた。1580年佐久間信盛の追放後は、大和の筒井順慶など畿内近辺諸将を指揮下に置いた。1582年5月、備中高松城を攻囲中の秀吉から救援をを求められた信長は決意し、安土城で徳川家康の饗宴役にあった光秀を急遽出陣を命じたのち、少人数の供のみで上洛した。有力武将が諸方面に出陣中なのに乗じて、光秀は6月2日京都本能寺に信長を、二条御所に信忠を討った。しかし、毛利氏と甲江和して急ぎ東上した秀吉に対して、6月13日にに山崎の戦で敗れ、敗走中に小栗栖で土民に襲撃され負傷し自害をした。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「槙島の戦い」元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。確執の始まり、永禄12年(1569)10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。(信長包囲網)この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「第一次黒井城の戦い」について説明すると1575年10月から1576年1月にかけて行われた。黒井城は現在の兵庫県丹波市にある城で、別名を「保月城」「保築城」ともいいます。建てられたのは1335年頃とされ、足利尊氏に従って新田義貞軍と戦った赤松貞範が、その功績によってこの地を賜り築城された。以降、赤松氏が5代にわたってこの地を治めていましたが、1530年代頃には荻野秋清が城主になっています。城主が変わった経緯については史料が残されておらず、詳しいことはわかっていません。赤井直正は、1529年に後屋城の城主である赤井時家の次男として生まれ、黒井城の城主である荻野氏のもとで幼少期を過ごした後、そのまま養子になりました。そして1554年突如として荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取るのです。理由はわかっていませんが、これ以降彼は「悪右衛門直正」と呼ばれるようになります。1570年には、甥の赤井忠家とともに織田信長に拝謁し、従属。しかし1571年、同じく信長に従属する山名祐豊が丹波に侵攻してくると、赤井直正はこれを撃退し、逆に山名祐豊の居城である此隅山城と竹田城に攻め入った。この事態に、山名祐豊は織田信長に救援を求めました。「信長包囲網」によって苦戦を強いられていた信長が、明智光秀率いる軍勢を送ることができたのは1575年のことです。赤井直正は「信長包囲網」に参加し、黒井城に立て籠もって光秀と闘う道を選びました。これを「第一次黒井城の戦い」といいます。もともと赤井直正が織田信長に従属したのは、信長が第15代将軍の足利義昭を奉じていたからで。しかしすでに両者の関係は冷え込み、年には足利義昭が挙兵していました。赤井直正が織田信長に従属する理由はなくなっていた。また、先に侵攻してきたのは山名祐豊なのに、その援軍要請に応じるという織田信長の判断も、不信感が高まり離反の要因になったと考えられています。
  • 戦国時代

    信長包囲網の中心にいたのは、すでに室町幕府としての実体が無いに等しい将軍足利義昭であった。義昭は、元亀3年(1572)10月に、武田信玄が西上の軍をおこしたことで強気になり、信長と敵対したが、翌天正元年4月に武田信玄が病死してしまったことで、義昭も信長に攻められ、追放された。信長にとって、残る近くの敵は石山本願寺の顕如と浅井・朝倉両氏だけとなった。8月に入って、小谷城包囲の戦いが続けられていたが、小谷城の支城山本山城の阿閉貞征が信長側に寝返ってきたという連絡が入った。信長は8月8日、自ら近江に出陣。その情報を得た朝倉義景は、自ら2万の大軍を率いて小谷城の後詰に出て、13日、小谷城の北で両軍はげしい戦いとなった。信長としては、そこで雌雄を決しようという覚悟で臨んでおり、朝倉軍を撃ち破り、追撃している。信長はあらかじめ、「朝倉軍が退散するのを見逃さず、追撃せよ」と命じていた。しかし、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益ら、信長家臣の錚々たる部将たちは朝倉軍の退却を知らず、追撃が遅れ、信長から痛罵されていた様子が『信長公記』にみえる。そのとき、佐久間信盛が、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」と弁解し、さらに信長の怒りを買っている。後年、信盛が織田家から追放されたのも、この時の一言が原因であった。信長は逃げる朝倉勢を追い、木之本から刀根越えをし、疋田敦賀に乱入していった。刀根坂の戦いは特に激戦として知られている。14・15・16日と信長は敦賀に逗留している。浅井軍の動きを牽制していたのか朝倉文化とも呼ばれる、洗練された生活様式。その城下の暮らしまでも再現されている。再現された一乗谷の暮らしもしれない。しかし、浅井軍に動きはなかった。すでに信長と戦うだけの気力も軍事力もなかったようである。17日、木ノ芽峠を越え、18日には府中の龍門寺に本陣を置き、いよいよ朝倉氏の本拠一乗谷に迫った。一乗谷には麓の平時の館のほか、山上に詰の城としての山城があり、そこに籠って戦えば戦えるだけの軍事力はあったと思われる。しかし、頼りにしていた平泉寺の衆徒が信長方についてしまい、その平泉寺衆徒によって一乗谷も焼き払われてしまったため、義景は一乗谷に入ることができず、結局、大野郡の六坊賢松寺に逃れたが、そこで20日、一族の朝倉景鏡に迫られ、自害して果てている。
  • 荒木村重(1535~1586)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが、池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて中川瀬兵衛らと池田二十一人衆を形成し主導権を掌握。1571年(元亀2)茨城の茨城佐渡守や高槻の和田惟正らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正元)足利義昭と織田信長の不和に際しては信長に従い、功により摂津一国の支配を任された。従4位下により摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言によって信長の怒りを買い、止むえず本願寺・毛利氏と通じ本拠伊丹城有岡城に立て籠もり信長に叛いた。籠城十カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れた、のち尾道に住んだが。かつては利休に茶の湯を学び、晩年には境に住み茶の湯をもって豊臣秀吉に仕えた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    有岡城の戦いは、織田信長に重用されていたはずの荒木村重が、突如信長を裏切ったことによって起こった戦いである。あの信長に謀反を起こすことは、無事でいられるとは思われない。信長に背いた荒木村重は、その後どんな運命をたどることになったのか、意外な人生が待ち受けていたようである。天正元年(1573)3月(織田信長が足利義昭との対立を深めていた頃)より、信長に仕え始めた荒木村重。天正2年(1574)11月には、摂津の国の支配権を与えられるまでになっていた。他家(池田氏)の家臣出身でありながら、村重はかなり優遇されていたようである。有岡城の戦いの経過と結果同年11月9日、第二次木津川口の戦い勝利の報せを聞いた信長は、京都を出陣した。翌日10日には、織田信忠・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らも、摂津に入りをした。高槻城・茨木城の開城高山右近の高槻城、中川清秀の茨木城。有岡城へ向かう途中にあった2つの城があって、信長はキリシタン大名の高山に対して、こんな方法で切り崩しを図った。宣教師を呼び寄せ、高山を説得してもらうように依頼したのである。(1)説得できたらキリスト教を保護(2)引き受けないなら、キリスト教は禁教という条件を突きつけたのです。すごい二者択一。宣教師の説得を受け、高山右近は高槻城を開城した。高山は村重に息子と姉を人質に差し出していたので、苦渋の決断以外の何物でもなかったでしょうね。ただ息子と姉は無事だったようである。11月16日、高山は信長のもとを訪れ、信長より領地を与えられた。そして24日には中川清秀が降伏し、茨木城も開城。続いて、大和田城などが開城している。総攻撃の失敗有岡城を奪取すべく、信長は5万もの大軍で取り囲みました。そして12月8日午後6時、総攻撃が開始された。しかし有岡城は、村重が大改修を行って完成させた堅固な城。3つの砦と城下町を取り込んだ惣構え(城郭全体を土塁・堀で囲んだ構造のこと)を持っており、そう簡単に攻略できるような城ではなかった。村重軍の激しい反撃に遭い、信長軍の攻撃は失敗。信長の側近・万見重元はここで討ち死にしている。
  • 三好長慶の家臣として頭角を顕し、長慶の亡き後は長期に亘って三好三人衆と畿内の覇権を争っていた松永久秀は永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に逸早く降伏した。その後は信長の配下武将として大和一国を安堵されたが、やがて足利義昭・三好三人衆・石山本願寺・武田信玄らと結託して信長を裏切るに至る。元亀4年(1573)7月、信長はついに義昭を追放した(足利義昭の乱:その2)。これによって室町幕府は滅亡し、元号は元亀から天正へと改められた。久秀は再び信長に降伏して許された。大和国の統治権や居城・多聞山城などを没収されこそはしたが、助命されたのである。裏切りには苛烈な処置を与える信長が久秀を許したのは、不安定な畿内の統治を進めるにはまだ久秀の力が必要だったのであろう。ところがその3年後、大和国の守護にかつて敵対していた筒井順慶が据えられた。ここに久秀の信長への反感が募ったといわれる。そして天正5年(1577)、久秀は再度の謀叛を起こした。その当時信長は北陸平定を進める柴田勝家に宛てて大軍を派遣しており、畿内の備えは手薄になっていた。それに加えて越後国の上杉謙信が兵を率いて上洛するという情報もあり、ここを好機と見てのことだったのであろう。佐久間信盛配下の将として石山本願寺を包囲する天王寺砦に詰めていた久秀は8月17日、突如として息子・久通と共に大和国に帰り、信貴山城に籠もった。軍勢は3百騎、8千余人といわれる。松永久秀はかねてより領内統治をするには多聞山城、軍事においては信貴山城と、2つの城を使い分けていた。信貴山城は河内国と大和国の境界をなす生駒山地にある山城で、近世城郭の祖といわれる久秀の縄張りだけに、7方に伸びる峰と谷を要害として巧みに作りあげられていて守りは極めて堅い。久秀の突然の帰国の報に、信長は松井夕閑を派遣して帰国の理由を尋ねさせたが、夕閑は城の中にさえ入れなかったという。しかし、上杉謙信は北陸地方で織田勢を打ち破る(七尾城の戦い~手取川の合戦)と自国へと引きあげていったのである。上杉勢侵攻の脅威が除かれるとすぐに、信長は久秀討伐の軍勢を催したのである。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田信玄の西上作戦は天下取りの破竹の勢いで進んだ。信長・家康を包囲、駿河の大部分を攻め取った武田信玄は、常陸の佐竹義重と結び、相模の北条氏政と和して後顧の憂いを絶つと、元亀3年(1572)10月3日、甲府を出馬し西上の途についた。義昭の御内書を名文に、領国甲斐・信濃の精兵2万余兵と北条氏の援兵2000を率いての行軍であった。信濃から秋葉街道(信州街道)を経て10日には遠江に侵入し、犬居城で先遣隊5000を合わせ、家康・信長らに対することになった。一方、朝倉義景と近江の浅井長政とこれを報告し、家康・信長を包囲する作戦を立てた。信玄の陽動作戦、11月下旬、二俣城を攻略し信玄は12月下旬、三方ヶ原を経て東三河に進む姿勢を示した。対する家康は、これを阻止しょうと22日、信長の援兵3000を合わせた、総勢11000を率い、武田軍が素通りするのを見て三方ヶ原に討って出た。三方ヶ原の北方祝田の坂で攻撃隊形に入ったのがだが、敵状を知った信玄は坂上で迎撃のための戦闘配備を行った。三方ヶ原の合戦、戦端はこの日の夕刻に開かれ2時間に及ぶ白兵戦兵力に勝る武田勢のが終始優位を保ち、夜間に入ると徳川・織田連合軍は隊伍を乱して浜松に遁走した。信玄の嗣子勝頼らはこれを浜松まで追撃した。武田軍の死傷者が数十人に対して、徳川・織田軍の戦死者は1000人及んだという。この後、三河の刑部で新春を迎えた信玄は天正元年(1573)野田城を攻略した。しかし、宿痾の労咳が進み再出兵を期して引き上げる途中、病死した。信玄の西上と三方ヶ原の圧倒的戦勝は武田軍の威勢を内外に誇示するとともに、信玄の死が、苦境にあった信長に至上の脅威を与えた。それだけに西上作戦の中途断念は、信長を生き返させた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年)6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。天正2年(1574年)2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。
  • 岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となる。その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山となり、旧名は稲葉山と言う。そのため、1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃している。その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせた。そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握った、1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居した。その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死してしまった。長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所である。斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退している。1564年、竹中半兵衛・安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こっている。西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行った。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問している。1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となった。1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従した。
  • 歴史の回想

    賤ケ岳の戦い(1583年)天正11年4月、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。秀吉は山崎の戦で明智光秀を滅し清洲会議によって織田信長の孫の(三法師)を後継者に据えたが、宿老筆頭格にあたる勝家は、信長の三男(信孝)を擁してこれに対抗した。秀吉は1582年10月に、他の宿老えお排除する形で信長の葬儀を盛大に行い、さらに越前国北ノ庄に居城する勝家が雪で行動が困難な時期を見計らって美濃から近江に兵を進め、信孝を孤立させた。勝家はこれを助けるために南下し、賤ケ岳から柳ケ瀬で合戦が行われたが敗退し、居城の北ノ庄で自殺した。
  • 秀吉の四国攻めは天正13年戦国時代の末期の信長は本能寺で横死、秀吉は天下統一への未平定の四国征服の四国の覇者長宗我部元親と天下人目前の羽柴秀吉の戦争である。 天正3年土佐を統一した元親は信長に接近し、阿波での在陣を認めてられた。ところが秀吉の時代になって秀吉の甥の秀次と三好康長と養子関係にあって康長は讃岐から阿波に入り同族の三好康俊と元親を離反させ、信長の四国政策を三好よりに偏向させた。元親から圧力を受けた阿波の三好、伊予の河野氏らは元親の勢力拡大に信長に救援を求めた。信長は元親に土佐一国と阿波南半分を認めた。これを不満として元親は織田勢に対抗した。信長は三男信孝を総大将に四国に派兵した。所が本能寺の変で頓挫し、秀吉が取って代わって対立、元親は西讃の諸将らを集結し、反元親勢力に攻勢し、織田・徳川方に調略した。讃岐・阿波・伊予を攻略し、意見が分かれるが、長宗我部は四国を平定する勢力範囲を手中に収めつつあった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    1570年(元亀元年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)率いる「朝倉軍」が対峙した。約3万の織田・徳川連合軍に対し、約4,500の朝倉軍。当初は、織田・徳川連合軍が優勢であったが、織田信長の義弟「浅井長政」の裏切りにより、形勢逆転。戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている。織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)を平定。三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康、及び近江国北部(現在の滋賀県北部)の浅井長政と同盟を組み、美濃国(現在の岐阜県南部)を支配していた斎藤家を滅亡させた。加えて、伊勢国北部(現在の三重県北部)も支配下に入れた織田信長は、1568年(永禄11年)に、当時の将軍「足利義輝」を殺害。織田信長を頼ってきた足利義輝の弟・「足利義昭」を擁して上洛を果たした。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長は、足利義昭を名目にして各地の大名に上洛を催促していった。しかし、越前国(現在の福井県)を支配する朝倉義景は再三これを無視。越前国は美濃国と京都の間に割って入るような位置にあり、織田信長は越前国を支配下に入れる必要があり、そこで、織田信長は朝倉義景の上洛拒否を叛意ありとし、これを口実に越前国へ出兵した。浅井長政の祖父「浅井亮政」は浅井氏の初代当主。当時、浅井亮政が仕えていた「京極氏」(きょうごくし)や「六角氏」と対立しながらも、北近江へ勢力を拡大した人物である。京極氏は鎌倉時代以前より近江にいる一族で、源氏の流れを汲む武家。また、六角氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて勢力を持った武家で、近江国南部を中心に勢力を誇っていた。朝倉氏との同盟関係1525年(大永5年)、浅井亮政は「美濃の内乱」に介入した。六角氏と朝倉氏は浅井亮政を牽制。このとき、朝倉氏より派遣されたのが、「朝倉教景」です。朝倉教景は約5ヵ月間、浅井亮政と六角氏の調停に務めた。苦戦を強いられていた浅井亮政にとって、この調停は非常にありがたい物でした。そして、これ以降、長きに渡って浅井氏と朝倉氏は同盟関係で結ばれることとなるのです。
  • 戦国期の地域的な結合体。雑賀荘(しょう)・十ヶ郷・中郷・宮郷・南郷の5郷(郷は組・緘・クサリともいわれた)から構成され、その範囲は和歌山市・海南市の大部分を占める。構成員には神官・浄土宗徒もおり、従来いわれてきたような本願寺の門徒組織とは考えられない。1542年(天文11)に河内に進発する守護畠山稙長の軍勢中にあるのが初見で、以後も畠山氏の軍勢として活動している。1562年(永禄5)に、代々室町幕府奉公衆で御坊市に本拠を置く湯河氏と取り交わした起請文などから、1534年(天文3)以降同氏と一揆を結び、「惣国」と称し、守護畠山氏を推戴していたことがわかる。当地には本願寺門徒も多く、守護代遊佐氏に畠山昭高が殺された1573年(天正1)以後、織田信長方(中郷・宮郷・南郷)と反信長方の本願寺に結ぶ勢力(雑賀荘・十ヶ郷)とに分裂し、77年(天正5)信長軍による攻撃を受け、いったんは降伏するが、80年の石山退城まで本願寺を支える主力部隊として活動した。とくに鈴木(雑賀)孫一と鉄砲衆は著名で、宣教師ルイス・フロイスは「軍事に於ては海陸共に少しも根来に劣らぬ事で、其の戦場に於ける武勇によって日本に大名を得た」と記している。同年以後は長宗我部元親と結び、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、羽柴秀吉の背後を攻撃したため、翌年紀州攻めにあい、太田城(和歌山市)に立てこもるが水責めにされ、降伏し、一揆は解体された。
  • 安国寺恵瓊(?~1600)安土桃山時代の禅僧、大名。恵瓊は法諱、瑶甫と号す。安芸国銀山城主武田重信の遺孤という。1541年(天文10)銀山落城の時、竹若丸(恵瓊の幼名)は逃れて安国寺の不動院に入り出家。1553年安国寺の上寺の縁で東福寺の竺雲恵心を頼り法弟となる。その後、恵瓊は1569年(永禄12)に安芸国安国寺の住持をも兼ね、さらに1579年(天正7)東福寺退耕庵主、1598年(慶長3)には東福寺住持となった。その間、不動院金堂・鐘楼・山門や厳島の大経堂、建仁寺方丈など、時代を代表豪壮絢爛な建造物の新築・修復に尽くした。一方、恵瓊はその師恵心が毛利氏の使僧としていたのを受け継いで、外交僧になって活躍した。1573年将軍足利義昭と織田信長の不和調停のために上洛した際、信長没落刀伊木下藤吉郎の将来を予言したことが有名である。1583年頃毛利氏の外交僧から「秀吉の直臣となり、1585年の四国平定に後は6万石を領地する大名になった。秀吉の死後、石田三成に加担しが、関ヶ原の戦に敗れ、京都で曝し首にされた。年は63歳か64歳、墓は京都建仁寺方丈の裏手にある。
  • 三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる三好長慶の時代、三好政権を支えてきた三好三人衆。彼らは長慶の死後も政権の中枢を担いますが、信長が上洛してきた時に反発して幾内から追い出されてしまった。本記事で扱う「野田城・福島城の戦い」は三好三人衆による幾内奪回戦の一つです。合戦の途中で本願寺勢力も三好方に加担したことから「第一次石山合戦」とも言われ、以後10年にもわたる石山合戦の端緒となりました。さて、戦の展開はどのようなものだったのでしょうか。背景は信長の上洛にあり織田信長が上洛して将軍足利義昭を誕生させたのは永禄11年(1568) このときに信長上洛を阻止しようとした三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、戦いに敗れて京都を追い出されます。これがきっかけで「織田 vs 三好」という敵対関係ができあがることになった。再び京の奪還を狙っていた三人衆は、翌年に入ってすぐに将軍義昭の仮御所・六条本圀寺を攻撃。しかし、このときも明智光秀らに阻まれて京都奪還は叶わなかった。(本圀寺の変)それでも三人衆は反織田を貫き、元亀元年(1570)6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、同 19日にこれを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が摂津の荒木村重を調略。村重は池田城から主君・池田勝正を追放して三好方に与する。7月21日に三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城。ここを拠点として反織田の兵を挙げるためにのもである。この三人衆の動きに呼応し、細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったと言われている。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子がいち早く対応した。彼らは大和の信貴山城で戦闘準備を整えると、27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えた。
  • 高松城の水攻めは、三木の干殺し、鳥取の飢え殺しと併せて、秀吉三攻めと称さる事も。備中国高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城を巡る、主清水宗治と包囲者羽柴秀吉の戦い。水攻めの最中に本能寺の変で織田信長が明智光秀にたれた為、自体は講和によって終結している。備中国は守護大名・細川氏が衰退した後、複数の国人領主によって支配が争われるという、文字通り麻の如く乱れた状態にあった。 このうち三村家親は毛利氏に接近して勢力を拡大したが、当時備前を支配していた浦上氏傘下にあった宇喜多直家によって暗殺されたのをきっかけに衰退した。三村氏傘下にあった清水宗治は先んじて毛利氏に帰順し、小早川隆景配下となって中国平定に尽力、信任を得ていた。経過天正10年(1582年)、並び立つ政敵のほとんどを排除した織田信長の命により、羽柴秀吉が中国攻めを本格化する。この時秀吉は清水宗治に対し、降伏すれば備中国を安堵すると持ち掛けたが、宗治はきっぱりと断ったとされる。 3000から 5000の兵をもって彼が籠城した備中高松城は湿地に立つ平城で、周囲のドジョウはぬかるんで騎馬や兵卒を踏み込ませず、近づく事も困難だった。過去2度の籠城戦の経験則から周囲の小城を攻め落とし、3万近い大軍で城を包囲した秀吉だったが、城内からの反撃にあって二度敗退を喫する。安芸国(現在の広島県)からは毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるという報を受け、秀吉は信長に援軍を要請する。信長からは明智光秀を援軍に送ると返事があったが、これを待たず備中高松城をただちに落とすべしとの厳しい命令もついてきた。そこで黒田官兵衛の献策により、秀吉は地の利を逆手に取った水攻めへと方向転換する。蜂須賀正勝が築堤奉行に任命され、城の近くを流れる足守川の東、蛙ヶ鼻(かわずがはな)から全長約 4Km、高さ約8の堅牢な堤防を築いた。この時動員された兵士や農民には、土1俵に対して銭 100文米1升という報酬が払われたが、これは当時でも非常に高額だったという。
  • 戦国の世に有って、九州には島津氏と大友氏の両者九州の盟主として対峙し続ける中、「九州に両雄並び立たず」の諺の通り、豊薩合戦が天正15年に勃発、これを「天正の役」と言う。 父宗麟から引き継いだ義統は戸次川の戦で味方の離反、重臣の寝返りで大敗を期した。信長を絡んで事態が動いたが、信長の横死で秀吉が九州勢伐に乗り出し複雑化していった。島津軍が大友失墜に総力戦で大友最後の砦、岩屋城に猛攻を懸けたが、予想以上の抵抗に遭い多大な損害を受けて島津軍は終結させたが、その後の九州制覇に後れを取ってしまった。島津軍は筑前・肥前に軍を進め九州制覇かかに見えた時に、秀吉は島津氏に向かって軍を差し向けることにんった。大友宗麟に毛利元輝に国分令の執行を命令し、検視として黒田孝高・宮城堅甫・安国寺恵瓊に任じた。その他、吉川晴元・小早川隆景・仙石秀久・長曾我部元親らに渡海を命じ、毛利軍に先導役を命じ、十河・長曾我部・豊後に向かって大友軍と合流し進軍した。九州に乗り込んだ黒田孝高は島津方面の武将に調略を行った。一方島津軍も豊後に兵を進めた。吉川元春は島津方の宮山城を攻略、次々と島津軍拠点に攻撃をかけ、一方秀吉は諸国より20万の兵と30万人の一年分の兵糧米を集めるように命じた。各戦場で激戦が繰り広げられ、島津軍も反撃をかけて秀吉軍の予想以上の損害を見て、宗麟は秀吉直々の出馬を促した。3月1日、秀吉自身も出陣し、秀吉軍の総力戦となった。秀吉は悠然と山陽道を下り、事の推移を見守った。島津軍は徐々に後退、秀吉は築後に到着、秀吉の大軍の到着に、島津義久は豊臣秀長に和睦を申し込んだ。鹿児島に戻った義久は出家して秀吉に降伏し、一命は赦免された。島津には侵略した領地は没収され、義久に薩摩一国と義弘に大隅と日向の一部を安堵された。他の侵略地は秀吉に従軍した大名に戦果功労を鑑み国分の褒賞分置を不満の出ないように安堵させて九州征伐と統一をさせた。
  • 手取川の戦いは、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦である。七尾城主の畠山義隆が死去し、まだ5歳~6歳である畠山春王丸が家督を継ぐと、春日山城の上杉謙信は、1576年9月から対立していた能登へ侵攻した。この時、畠山家で実権を握っていた長続連・長綱連の親子は、2000にて七尾城に籠城した。能登・七尾城は要害であったため、2万の上杉謙信でも、数ヶ月では容易に落とすことはできなかった。そこを、小田原城の北条氏政が1577年3月に、北関東へ出陣したため、関東の諸将より救援要請を受けた上杉謙信は、越後へ兵を戻した。すると、畠山勢が反撃に出たため、7月になって上杉謙信は再び能登へと出陣を開始した。畠山勢はまた七尾城に籠りましたが、今度は危機感を募らせて、領民を含めて15000もの大軍で籠城した。さらに、長続連は、上杉勢に対抗するため、子の長連龍を安土城に派遣して、織田信長に援軍要請した。織田信長は、越後を狙っていましたので、この要請を了承して、8月8日、北ノ庄城の柴田勝家ら織田勢が出陣した。柴田勝家が総大将で、従った織田勢の武将は、滝川一益、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀、斎藤利治、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、長谷川秀一、徳山則秀、堀秀政、若狭衆と総勢4万の大軍である。七尾城の長続連も安心したと言いたいところですが、15000での籠城は兵糧の消耗も激しく、幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病し、疫病で亡くなる者が多発した。一説によると、屎尿処理ができず、極めて不衛生な状態になったとの事で、コレラなどの疫病が発生したと考えられている。そして、上杉謙信に近かった遊佐続光は長続連への権力集中を嫌い、温井景隆や三宅長盛の兄弟らと上杉家に内応した。こうして、9月15日、七尾城の門が開いたところを上杉勢がなだれ込み、長続連だけでなく、その子・長綱連と弟・長則直や、長綱連の子・竹松丸と弥九郎ら一族を討ちとった。ちなみに、長一族で生き残ったのは、安土城に行っていて長連龍と、長綱連の末子・菊末丸くらいであった。
  • シリーズ117冊
    220330(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。 しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。
  • 「布部山の戦いの起因」(ふべやまのたたかい)は、永禄13年2月14日(1570年3月20日)に尼子家再興を目指す尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利軍との間に起こった野戦である。戦いのあった場所が布部の中山(現在の島根県安来市広瀬町布部)であったことから布部山の戦いと呼ばれる。軍記資料には「尼子・毛利の国の戦いも今日が最後」と記される激戦であった。尼子氏の滅亡★尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。★天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。★天文23年(1554年)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって粛清された際、小川重遠によって助けられる。後に晴久が保証人となり、京都に出て東福寺の僧となった。★永禄9年(1566年)、尼子義久の代に、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡するが、永禄11年(1568年)、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。★永禄12年(1569年)に隠岐から出雲国に入ると、尼子氏の旧臣の支援を得て出雲新山城に入城。月山富田城奪還を目論むが、毛利元秋や天野隆重の奮戦により攻略は失敗に終わる。永禄13年(1570年)2月、布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。★天正2年(1574年)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。★その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577年)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略した際にその守備を命じられた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    加賀・越中など北陸の一向一揆は、織田信長と戦った石山本願寺の一向一揆と同様に大量の鉄砲を保有しており、また一向宗の宗徒で構成されていたため団結力も強固であった。謙信にとって一向一揆は、武田信玄や北条氏康に次ぐ強敵であった。謙信はこの尻垂坂の戦いを含む前後一連の戦いでの勝利により、越中において一揆等の反上杉勢力に対する優位が決定的となり、主導権を確立して後に越中を平定。京への上洛を目指す道を拓いた。上杉謙信と越中一向一揆の対立越中は元来、加賀・越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆が強固な勢力を持つ国であった。越後の上杉謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆と激しい戦いを繰り広げてきた。謙信が越後守護代として家督を相続し、さらに越後国主になって以降も越中一向一揆との対立は続いた。北信濃・川中島において謙信と敵対した甲斐の武田信玄は、謙信の背後を牽制するため、加賀一向一揆・越中一向一揆を扇動した。弘治2年(1556年)8月23日、謙信の家臣、箕冠城主・大熊朝秀は信玄に通じて謀反を起こし、一揆勢を率いて越中から越後へ攻め入ったが、謙信は上野家成を派遣し、これを破っている。(駒帰の戦い).。永禄3年(1560年)3月29日、謙信は、一揆勢と結び勢力を拡大する越中守護代・神保長職を、その居城・富山城に攻め勝利を収めている。しかし謙信が関東へ出陣し、相模の北条氏康と戦っている間、長職は再起して攻勢に出た。同5年(1562年)9月、謙信は長職を増山城に攻め、降伏させた。永禄11年(1568年)、謙信は、先年家臣団の反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱の復権を支援するため、越中へ侵攻。放生津で一揆勢と対陣しつつ、3月16日に守山城へ攻撃を開始した(放生津の戦い)。 これに対し、越中一向一揆の頭領である勝興寺(安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆の頭領・金沢御坊の坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信の越中侵攻を報じ、警戒を呼びかけた(『勝興寺文書』)。25日、謙信の家臣で揚北衆の本庄繁長が本国・越後で反乱を起こしたとの知らせが入り(本庄繁長の乱)、攻撃を中止。
  • 今川氏滅びる 駿河と遠江二カ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し、今川領に同時進攻をはかった。氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。第一次・元亀2年の戦い信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニカ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。こうして第一次高天神城の戦いは終った。このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。第二次・天正2年の戦い元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。)三方ヶ原の戦いの項を参照) 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ヶ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の援軍を要請した。なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日
  • シリーズ5冊
    220275(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    江戸時代の幕藩体制で起きた幕閣まで波及した郡上一揆と石徹白騒動を宝暦騒動という。その顛末を語り継ぐ物語。

    江戸時代に美濃国郡上藩で発生した大規模な郡上一揆と石徹白騒動である。 郡上藩は延宝年間に年貢の引き上げから、藩内部で藩政の方針に対立が生じ一揆が発生した。郡上藩主金森氏は改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦騒動を言う。 郡上一揆の発端は、年貢徴収法で定免法から検見法に改められ、更に農民らが新田開発していた切添田畑を洗い出して課税を行うものであった。 一揆は当初は豪農層や庄屋などの富農民や、郡上で比較的豊かな農民が主導で起こった。郡上八幡中心より長良川の下流域の村々が一揆を主導していた。郡上藩は激しい農民らの激しい抵抗に藩側は、一旦検見法採用を取り下げた。ところが藩主金森頼錦の縁戚関係からの支援を得て、幕領である美濃郡の代官から改めて郡上藩の検見法の採用を持ち出し、一揆が再燃した。しかし藩側の激しい弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層から一揆のから脱落者が続出した。その後は中農、貧農層が一揆運動の主体となり、一揆勢は藩主への請願を行い、更に藩主の弟に取り成しを依頼するが、藩側は一揆農民の切り崩し図り、弱体化した一揆側に、強硬な弾圧がなされた。郡内では、寝者と呼ばれ、一揆を止めて藩側の言う事聞き、立者といった一揆強硬派が情勢困難の中、老中への駕籠訴を決行するに至った。一揆の団結と連帯化を示すために「傘連判状」が各村々の決起する農民らの連判状が作られていった。しかし当初は進めらえていた審議中断し、問題は解決の方法を見いだせないまま長期化した。 そのような中、一揆勢は組織を固めて、犯の弾圧を避けるために郡上以外に関にに拠点を設け、郡上一揆と同時期に郡上藩の領地である越前国大野石徹白で、野心家の神主の石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。 最終的に郡上一揆と石徹白騒動は共に目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が 幕府中枢部関与の疑いを抱いて、老中の指揮下、寺社奉行を筆頭とする五名の御前議懸かりりによって幕府評定所で裁可が下された。 裁可の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民から厳罰が下されが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄り、大目付、勘定奉行らが免職となった。

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