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『文芸・小説、1円~、2020年1月25日以前』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全762件

  • 夏目漱石の「こころ」の本文とオーディオブックをセットにしました。

    夏目漱石の「こころ」の本文とオーディオブックをセットにしました。

    実際に目を追って読書できることはもちろん、ランニング中などでも耳から聞くこともできます。
    全部で8時間に及ぶ朗読は、MP3ファイルでダウンロードでき、お使いの端末の機能でスピードなど自由に調整することもできます。
    夏目漱石の傑作、「こころ」を、目と耳からお楽しみください。

    「『こゝろ』とは、夏目漱石の長編小説。漱石の代表作の一つ。1914年4月20日から8月11日まで、『朝日新聞』で「心 先生の遺書」として連載され、同年9月に岩波書店より漱石自身の装丁で刊行された。なお、自費出版という形式ではあるが、この作品が岩波書店にとって出版社として発刊した最初の小説である。
    連載開始からちょうど100年たった2014年4月20日に、『朝日新聞』上で再度連載が開始された。
    新潮文庫版は、2016年時点で発行部数718万部を記録しており、同文庫の中で最も売れている。」
    (Wikipediaより)

    ※実際の本文と朗読が若干異なる場合があります。また、この電子書籍に音声は含まれておりません。書籍巻末のURLより、直接ダウンロードして下さい。
  • 「砂の妖精サミアド」の新訳&完訳です!

    イーディス・ネズビット原作の「Five Children and It」の新訳&完訳です。
    ケント州の田舎に引っ越してきたシリルたち五人の兄弟姉妹たちは、近くの砂利取り場で妖精を見つけます。妖精は「サミアド」と名乗り、一日一つ「願い事」を叶えてくれるというので、子どもたちは大喜びするのですが、思うようにいかず苦難の連続に。でも子どもたちは力を合わせながら、どうにかピンチを切り抜けてゆくのですが……。
    豊かなイマジネーションと活き活きとした子どもたちの姿を描き、その後の児童文学やファンタジー小説に大きな影響を与えた傑作ファンタジーです。「おねがい!サミアどん」という日本のアニメーションの原作でもあります。
    縦書き、ルビ付き、脚注付き。初版で使用されたハロルド・ロバート・ミラーのモノクロ挿し絵を52点収録。
  • 戦国時代

    前田利家(1538年~1599年)織田信長取り立て大名で加賀藩藩祖。尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春の四男。幼少より信長に仕え、軍功を上げ赤母衣衆に列し、1575年(天正3)柴田勝家の越前一国拝領の際、府中三人衆の一人として武生府中城に入った。加賀一向一揆の壊滅後は、1581年、能登一国を拝領し七尾小丸山城に移り、越後上杉の戦いに従事した。本能寺の変で信長が倒れたあと、柴田勝家と行動を共にしたが1583年の賤ケ岳の戦いの最中、秀吉に寝返り、北加賀2群を加増され金沢城に移り秀吉政権を支えた。1585年の秀吉の越中出兵に出陣、佐々成正を富山城を破り、翌年上洛し従四位下筑前守となる。1590年の小田原攻めにも従軍し伊達氏・南部氏の意向を秀吉に取り次いだ。1592年(文禄元)の文禄の役では肥前名護屋城在陣し、秀吉渡海の諫止、過書発給の明の講和使節応接などを徳川家康とともに行う。その後、秀頼の傅役となり五大老の第二の実力者として秀吉に仕えた。1596年(慶長元)秀吉父子の参内に供奉し、従二位権大納言に昇進、1598年退老し利長に家督譲ったが、秀吉の死後大坂城に入り、秀頼の後見人として徳川家康の専横を譴責する等豊臣政権を支えた。
  • 応仁の乱

    細川政元(1466年~1507年)室町後期の武将。幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護。細川勝元の長子。幼名聡明丸・通称九丸。官途は右京太夫・武蔵守。1486年(文明18年)と1487年(長享元)1490年(延徳2年)短期間管領を務め、1494年(明応3)からは管領職を独占した。1493年将軍足利義稙うぃ廃立し、足利義澄宇を将軍とした(明応の政変)その後、幕府内では専権を振るったが、政元の後継者を廻って2人の養子、澄之(関白九条政基の子)澄元(阿波守護細川義春の子)の間で家臣が分裂して抗争にし、阿波の三好之長の後見を得たので澄元の勢力拡大を恐れる澄之の家臣に殺された。
  • 戦国時代

    蜂須賀小六〈正勝〉(1526年~1586年)戦国の武将。幼名小六、のちに彦右衛門尉。尾張国海東郡蜂須賀の土豪蜂須賀正利(1504年~1553年)の子に生まれる。美濃の斎藤道山、ついで尾張の織田信賢・信清に仕え、のちに信長に従い桶狭間の戦に参戦。1564年(永禄7)豊臣秀吉に従い美濃攻めに参加、墨俣築城に功を立てて以降秀吉に直臣として近江、越前、播磨、中国筋に転戦した。播磨龍野の城主として5万3000石を拝領。1582年(天正10)備中高松攻めに尽力した。山崎の戦い、賤が嶽の戦に功あり。秀吉より大阪在住料として5000石加増1585年。四国平定の功により阿波を与えられるが辞退し、子の家政にが代わって阿波国一国を封ぜられた。翌年、大坂の邸にて没する。
  • 戦国時代

    大内義弘(1356年~1399年)南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。
  • 戦国時代

    最上義光(1546年~1614年)戦国末期から近世初期の大名。出羽守。出羽国山形の生まれ。父は最上義守。祖父の代から弱体化していた一族・国人に対する統制を強化し、1584年(天正12年)頃までに山形盆地を中心とする内陸部最上川流域を制圧し、同川河口の庄内地方に進出しようととして同地方武藤氏と、ついで同地方に進出を狙う越後上杉氏と対立。1590年、徳川家康の仲介により豊臣秀吉に服属したが秀吉の裁定は庄内は上杉に与えられた。関ヶ原の戦いでは上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。上杉軍が退却すると最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、谷地城(西村山郡河北町)に籠る尾浦城主下秀久を下した。上杉氏が和平交渉へ向けて動いている間に、下秀久を先手として庄内地方に進攻し短期間のうちに十五里ヶ原の戦いで失った旧領の奪還に成功した。義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。江戸時代には徐々に衰退し、義満没後には「最上騒動」を起こし石高を1万石から5,000石に減らされ、最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。
  • 源平合戦

    1180年(治承4)の以仁王・源頼政の挙兵から。1189年(文治5)の奥州合戦に至るまでの、10年間にわたって全国的に展開した内乱。1179年11月、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して政権を樹立すると、翌年以仁王・源頼政らは、以仁王の令旨を発して諸国の反平氏武士に蜂起を呼びかけるとともに、平氏の政策に反発する園城寺・興福寺などの權門寺院勢力と糾合して挙兵の準備を進めた。1180年5月個の挙兵は事前に露顕し、平氏軍によって鎮圧されたが、8月伊豆国で源頼朝、9月に信濃国源義仲が挙兵し、甲斐・紀伊・豊後・土佐・伊予などの諸国でも蜂起が相次ぎ、内乱は同時多発的形態をとって瞬く間に全国的に広まった。子の内乱が地域社会に巻き込んで一斉に広まった理由について、かつては古代的貴族階級に対しする在領主階級闘争として理解されてきた。しかし」王朝貴族の、封建領主としての性格が指摘されとともに、鎌倉幕府に結集することが必ずしも在地領主制一般の発展コースではなかったことが主張されるようになり、この見方は後退ししつつある。むしろ荘園公領制の形成に伴って、地域社会の在地領主間の競合・矛盾が展開されてきた。富士川の戦のあと上洛を主張した源頼朝に対して、有力御家人の上総広常や千葉常胤らが反対して、彼らと所領紛争を続けていた。平氏軍の北陸道遠征での敗戦であり、7月の平氏西走、木曾義仲・源行家軍の入京と、情勢は急激に変化していった。1184年1月、義仲軍を破って入京した頼朝派遣軍は2月に一の谷の戦で勝利し畿内、近国を軍事制圧し。翌年1185年(元暦2)3月壇ノ浦で平氏一門を滅亡させた。
  • 新兵器の数々

    ☆未来の自衛隊とは、こういうものだ!という場面から、
    漁師に起こった不思議な出来事へと続き、
    更にロボットが、おこなっている仕事へと展開されていく。
     たっぷりと楽しめます。
  • 戦国時代

    浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。
  • 戦国時代

    蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の佐々木成政攻撃に従軍した。1586年侍従、1587年の急襲攻めで軍勲をあげ羽柴姓賜る。1588年正四位下左近少将となり松坂城に移る。1590年小田原攻めの後会津黒川42万石の転封、1592年(文禄元)若松と改め城下町を整備を進めた。同年文禄の役には肥前名護屋城に出陣した。なお、早くから洗礼を受けて、天正年中ローマに施設を派遣したという説もある。
  • 世田谷一家四人惨殺事件(第四部)遂に迷宮を土壇場でひっくり返す真犯人断定!!真犯人は当時大日本印刷市ヶ谷工場日雇いアルバイトのホームレスの男!!これが動かぬ真犯人と一致する四十五点の絶対的な証拠近日逮捕切迫!!

    【下巻】 あの懸賞金2000万、世田谷一家四人惨殺事件の真犯人が、遂に断定。これは犯行現場に残された数々の遺留物から、真犯人は印刷会社の従業員ということが、判明します。実にと真犯人と45点の絶対証拠が一致したのです。そこで重大な物証の一つ、問題のヒップバックです。 1600粒の微粒子がこの中から発見され、この内にと、紙の表面加工に使われる、チタン酸バリウムという、白い粉末。これこそ印刷会社を決定づける、有力な物証となりました。 そしてさらにと、印刷機のインキ汚れ防止のための、特殊フィルムだった。犯人はこのフィルムから、ガラス球五、六個を剥ぎ取りしまい込んでいた。 この男当時着の身着のままでやって来た、ホームレスでした。この大日本印刷との関係は、すぐにと日雇い日払いのアルバイトにと、就いたことにと事は始まります。 そこにはこのホームレスの男と、真犯人を結び付ける実にと45点の一致点があったのです。 印刷会社に潜り込んで、消却法捜査という手法により、次第次第に暴かれていきます。 犯人が犯行現場に放置した、遺留物のほとんどが、JR荻窪駅の駅ビルにある、タウンセブンと同センターに隣接する、西友荻窪店でと、扱っていたからです。 ならばこの男この荻窪駅を、大日本印刷市ヶ谷本社工場にと、日雇い日払いのアルバイトに出勤するための、拠点にと使っていたのです。 まずはこの男犯人と断定すべく、身長、ヒップバックのベルトの長さから、推定ウェスト70センチの痩せ形、当時20代前半という年齢的一致。 ラグランシャツ(トレーナー)を着たこの男、大日本印刷市ヶ谷本社工場内で目撃される。 インキの付着していた部分から検出された特殊洗剤。 この発見こそ、大日本印刷市ヶ谷本社工場印刷課と、犯人とこの男を結び付ける、一つの重大な要素と取って代わるのです。 問題のヒップバックが、この男が付けていたヒップバックと形、色、製造年月日が一致したのです。この男と真犯人を結び付ける45の一致点をみたのです。これぞ世紀の大スクープです。
  • 世田谷一家四人惨殺事件(第一部)遂に迷宮を土壇場でひっくり返す真犯人断定!!真犯人は当時大日本印刷市ヶ谷工場日雇いアルバイトのホームレスの男!!これが動かぬ真犯人と一致する四十五点の絶対的な証拠近日逮捕切迫!!

    あの懸賞あ金2000万、世田谷一家四人惨殺事件の真犯人が、遂に断定。これは犯行現場に残された数々の遺留物から、真犯人は印刷会社の従業員ということが、判明します。実にと真犯人と45点の絶対証拠が一致したのです。そこで重大な物証の一つ、問題のヒップバックです。 1600粒の微粒子がこの中から発見され、この内にと、紙の表面加工に使われる、チタン酸バリウムという、白い粉末。これこそ印刷会社を決定づける、有力な物証となりました。 そしてさらにと、印刷機のインキ汚れ防止のための、特殊フィルムだった。犯人はこのフィルムから、ガラス球五、六個を剥ぎ取りしまい込んでいた。 この男当時着の身着のままでやって来た、ホームレスでした。この大日本印刷との関係は、すぐにと日雇い日払いのアルバイトにと、就いたことにと、事は始まります。 そこにはこのホームレスの男と、真犯人を結び付ける実にと45点の一致点があったのです。 印刷会社に潜り込んで、消却法捜査という手法により、次第次第に暴かれていきます。 犯人が犯行現場に放置した、遺留物のほとんどが、JR荻窪駅の駅ビルにある、タウンセブンと同センターに隣接する、西友荻窪店でと扱っていたからです。 ならばこの男この荻窪駅を、大日本印刷市ヶ谷本社工場にと、日雇い日払いのアルバイトに出勤するための、拠点にと使っていたのです。 まずはこの男犯人と断定すべく、身長、ヒップバックのベルトの長さから、推定ウェスト70センチの痩せ形、当時20代前半という年齢的一致。 ラグランシャツ(トレーナー)を着たこの男、大日本印刷市ヶ谷本社工場内で目撃される。 インキの付着していた部分から検出された特殊洗剤。 この発見こそ、大日本印刷市ヶ谷本社工場印刷課と、犯人とこの男を結び付ける、一つの重大な要素と取って代わるのです。 問題のヒップバックが、この男が付けていたヒップバックと形、色、製造年月日が一致したのです。この男と真犯人を結び付ける45の一致点をみたのです。これぞ世紀の大スクープです。
  • 戦国時代

    石田三成(1560年~1600年)安土桃山時代の武将。近江国坂田郡石田村に生まれる。父は佐々木京極氏の被官の隠岐守正継、兄は正澄。幼名は佐吉、初名は三也。単会木簡攫」は幼少時寺院に属したと伝える。秀吉への献茶は有名。近江長浜城主であった。羽柴秀吉に認められ近侍する。秀吉の中国攻め、山崎の合戦に従い、賤ケ岳の戦いで活躍する。1585年(天正13)秀吉が関白に就任した際、緒大夫12人の一人として従五位下治部少輔に叙任された。その後堺奉行となり、1587年の九州攻めや1590年の小田原攻め、および奥羽州攻めでは兵站の確保などに手腕を発揮し、同年に佐和山城主となった。領地は近江国犬上・坂田・浅井・伊香4群に18万国(一説に19万4000石)を与えらえた。さらに、坂田・犬上郡内の秀吉直轄領3万7000石余の代官も兼ねた。吏務に長じた三成は、1584年の近江検地をはじめとして九州・関東・奥羽諸国の検地を担当した。また、所領支配にも意を用いた。1596年(文禄5)3月1日に領内に通達した民政に留意した掟書きは著名である。1592年(文禄元)に朝鮮出兵が始まると船奉行に任じられて肥前名護屋に駐留しその後朝鮮に渡って明軍と戦い、壊し説を伴って帰国した。秀次切腹事件後、五奉行の一員と成。一五九八年(慶長3)秀吉が没したのち、有力大名間の抗争が激化、三成は徳川家康に反対する立場をとるが、同年3月には加藤清正、黒田長政らの武闘派に追われて一時、家康に頼る一幕もあった。1600年大谷吉継、安国寺恵瓊らと、毛利輝元を盟主に家康に挙兵をしたが関ケ原の戦いに敗れ、三成は近江国の伊香郡古橋で捕縛され、京都は六条河原で処刑された。
  • 世田谷一家四人惨殺事件(第二部)遂に迷宮を土壇場でひっくり返す真犯人断定!!真犯人は当時大日本印刷市ヶ谷工場日雇いアルバイトのホームレスの男!!これが動かぬ真犯人と一致する四十五点の絶対的な証拠近日逮捕切迫!!

    【上巻】 あの懸賞あ金2000万、世田谷一家四人惨殺事件の真犯人が、遂に断定。これは犯行現場に残された数々の遺留物から、真犯人は印刷会社の従業員ということが、判明します。実にと真犯人と45点の絶対証拠が一致したのです。そこで重大な物証の一つ、問題のヒップバックです。 1600粒の微粒子がこの中から発見され、この内にと、紙の表面加工に使われる、チタン酸バリウムという、白い粉末。これこそ印刷会社を決定づける、有力な物証となりました。 そしてさらにと、印刷機のインキ汚れ防止のための、特殊フィルムだった。犯人はこのフィルムから、ガラス球五、六個を剥ぎ取りしまい込んでいた。 この男当時着の身着のままでやって来た、ホームレスでした。この大日本印刷との関係は、すぐにと日雇い日払いのアルバイトにと、就いたことにと、事は始まります。 そこにはこのホームレスの男と、真犯人を結び付ける実にと45点の一致点があったのです。 印刷会社に潜り込んで、消却法捜査という手法により、次第次第に暴かれていきます。 犯人が犯行現場に放置した、遺留物のほとんどが、JR荻窪駅の駅ビルにある、タウンセブンと同センターに隣接する、西友荻窪店でと扱っていたからです。 ならばこの男この荻窪駅を、大日本印刷市ヶ谷本社工場にと、日雇い日払いのアルバイトに出勤するための、拠点にと使っていたのです。 まずはこの男犯人と断定すべく、身長、ヒップバックのベルトの長さから、推定ウェスト70センチの痩せ形、当時20代前半という年齢的一致。 ラグランシャツ(トレーナー)を着たこの男、大日本印刷市ヶ谷本社工場内で目撃される。 インキの付着していた部分から検出された特殊洗剤。 この発見こそ、大日本印刷市ヶ谷本社工場印刷課と、犯人とこの男を結び付ける、一つの重大な要素と取って代わるのです。 問題のヒップバックが、この男が付けていたヒップバックと形、色、製造年月日が一致したのです。この男と真犯人を結び付ける45の一致点をみたのです。これぞ世紀の大スクープです。
  • 世田谷一家四人惨殺事件(第三部)遂に迷宮を土壇場でひっくり返す真犯人断定!!真犯人は当時大日本印刷市ヶ谷工場日雇いアルバイトのホームレスの男!!これが動かぬ真犯人と一致する四十五点の絶対的な証拠近日逮捕切迫!!

    【下巻】 あの懸賞金2000万、世田谷一家四人惨殺事件の真犯人が、遂に断定。これは犯行現場に残された数々の遺留物から、真犯人は印刷会社の従業員ということが、判明します。実にと真犯人と45点の絶対証拠が一致したのです。そこで重大な物証の一つ、問題のヒップバックです。 1600粒の微粒子がこの中から発見され、この内にと、紙の表面加工に使われる、チタン酸バリウムという、白い粉末。これこそ印刷会社を決定づける、有力な物証となりました。 そしてさらにと、印刷機のインキ汚れ防止のための、特殊フィルムだった。犯人はこのフィルムから、ガラス球五、六個を剥ぎ取りしまい込んでいた。 この男当時着の身着のままでやって来た、ホームレスでした。この大日本印刷との関係は、すぐにと日雇い日払いのアルバイトにと、就いたことにと事は始まります。 そこにはこのホームレスの男と、真犯人を結び付ける実にと45点の一致点があったのです。 印刷会社に潜り込んで、消却法捜査という手法により、次第次第に暴かれていきます。 犯人が犯行現場に放置した、遺留物のほとんどが、JR荻窪駅の駅ビルにある、タウンセブンと同センターに隣接する、西友荻窪店でと、扱っていたからです。 ならばこの男この荻窪駅を、大日本印刷市ヶ谷本社工場にと、日雇い日払いのアルバイトに出勤するための、拠点にと使っていたのです。 まずはこの男犯人と断定すべく、身長、ヒップバックのベルトの長さから、推定ウェスト70センチの痩せ形、当時20代前半という年齢的一致。 ラグランシャツ(トレーナー)を着たこの男、大日本印刷市ヶ谷本社工場内で目撃される。 インキの付着していた部分から検出された特殊洗剤。 この発見こそ、大日本印刷市ヶ谷本社工場印刷課と、犯人とこの男を結び付ける、一つの重大な要素と取って代わるのです。 問題のヒップバックが、この男が付けていたヒップバックと形、色、製造年月日が一致したのです。この男と真犯人を結び付ける45の一致点をみたのです。これぞ世紀の大スクープです。
  • 戦国時代

    「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)の本能寺の変に端を発して実質的に統治者不在となった甲斐・信濃・上野で起こった戦役である。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。天正10年6月の本能寺の変後、織田政権を離反した北条氏は織田氏による仕置が行われたばかりの旧武田領に侵攻した。これに対し、織田体制下の一大名である徳川氏が織田体制の承認のもと、討伐に当たったことによって引き起こされた紛争である。さらに上杉景勝や、真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。
  • 松永久秀(1510年~1577年)戦国時代・安土桃山時代の武将。弾正忠。山城守。出身地につては阿波、山城、摂津など諸説がある。三好長慶の家臣で、はじめ摂津滝山城(神戸市)の城主として、摂津西半国から播磨東端で活動する。1559年(永禄2)には大和信貴山城に入り、大和国を勢力下に入れた。1560年には多聞山城を築城。長慶没後は三好三人衆と協力して、1565年に将軍足利義輝を暗殺。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。やがて三人衆との戦闘で奈良東大寺の大仏殿を焼失させた。1568年の織田信長上洛にあたっていつ早く信長方に帰参し、大和支配を認められた。1571年(天正5)再び信長に背いたが赦免され、1577年(天正5)再び信長に反旗を翻して信貴山城の籠城するものの敗北。10月10日、名器茶釜「平蜘蛛」ともに焼死した。
  • 今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。
  • 上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。
  • 紀州攻めは当初織田信長が始め、天下統一志半ばで本能寺の変であ結光秀の謀反んで横死、代わって羽柴秀吉が紀州の諸勢力を平定した合戦(紀州平定)戦国末期の紀州北部では高野山、粉河寺、根来寺、雑賀一揆が地域の勢力を構成し、本能寺の変後、秀吉との対立先鋭化させていた。1585年(天正13年)3月21日、秀吉は10万の大軍を率いて大坂城を出発。その日のうちに紀州勢の防衛線の中心戦国彫城を経汽船の末落城させている。23日、秀吉軍が根来寺に進むと。何の抵抗もなく、その夜は根来寺の大半が焼亡した。翌日は雑賀衆一揆が解体され、粉河寺も焼亡した。4月22日、水攻めにされた太田城が開城、この間に、高野山を武装化解除の上降伏させた。かた、紀州南部の国人湯川直春を追放し、堀内氏善を服属させた。紀州攻めの圧勝で、秀吉による全国統一は大きく前進することになった。
  • 1572年(元亀3年)12月、武田信玄と徳川家康が遠江国三方ヶ原(現静岡県三方原)で行った合戦。信玄は、織田信長・徳川家康包囲網を形成後、信濃伊那谷から信遠国境を超えて南下、徳川方の二俣・掛川城を攻略し、家康の本拠浜松城に迫った。しかし信玄は無理な攻撃を避け、西方の三方ヶ原に進み、家康を迎え撃った。家康は惨敗し浜松城に逃げ帰り、勝利した信玄はさらに西進し翌年三河野田城を攻略した。
  • 大友宗麟(義鎮)(1530年~1587年)豊後国の戦国大名。1550年(天文19)家督を継ぐ。翌年日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコザヴィエルが豊後を訪れたことからキリスト教に好意を示し、以後キリスト教布教を保護。1559年(永禄2)九州6か国((豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職を手中に収め、九州探題になり大友氏全盛期を迎える。その後府内(臼杵)に移り、府内に長子義統を置いた。1562年剃髪して宗麟と号し、1578年(天正6年)受洗、洗礼後フランシスコ。同年薩摩島津氏と日向耳川で合戦し、大敗した。敗戦と義鎮の受洗により家族と家臣団の間反目が生じ、キリシタン派と反キリシタン派が抗争し、大友氏衰退の分水嶺となった。1582年有馬。大村両氏とともにローマに天正遺欧少年使節を送った。これはイエズス会巡察師ヴァリニャーノの発案によるものと言われる。1586年島津勢が豊後に侵入すると自ら大坂城に赴き、豊臣秀吉の九州平定を招いた。島津を降伏させた秀吉は、義鎮の嫡男義統に豊後を、義鎮に日向を受封を辞退、同年5月、津久見で病死した
  • 加藤清正(1562年~1611年)安土桃山時代から江戸時代前期の武将。肥後国熊本城主。尾張国愛智群中村の出身。賤ヶ岳七本槍の一人。加藤清忠の次男。幼名は夜叉丸、元服して虎之助清正。豊臣秀吉と同郷で、秀吉との姻戚により幼少から秀吉に仕官した。特に賤ヶ岳の戦いの功績により3000石の武将と成る。のちの従5位下主計頭に叙任され、秀吉の兵糧方兼蔵入地代官をも兼任し、経理に明るい面も有した。のちの肥後領主となってルソン貿易を計画。1588年(天正16年)肥後半国19万5000石の大名に任命され、秀吉の大陸侵略に(唐入り)の先兵的役割を担い、戦役(文禄・慶長の役)には2番手1万人の軍勢で出兵。朝鮮人民から鬼将軍と言われた。講和の際の領土拡張を主張し、石田・小西らの和平講和派と対立した。帰国後蟄居を命じられた。このことが関ヶ原の戦いで徳川家康、東軍に参戦する原因となった。関ヶ原の軍功により肥後52万石の大大名に任じられと、熊本城と城下町の形成を図った。大河川の菊池川・白川・緑川等の流域変更とと土木工事着手し、、後の熊本平野・小田・牟田新地等の新田造成に着手し、実高74万国の領知となる。16611年(慶長16年)豊臣秀頼の二条城会見に随伴して家康との会見に成功させたが、途中、船中で病に倒れ、同年死亡した、同年死亡した遺骸は熊本本妙寺に葬られた。
  • 大内義弘(1356年~1399年)南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。
  • 「月山富田城の戦いとは」(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。家督相続永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。幼名が、父祖たちも用いた又四郎でなく三郎四郎であったのは政久の長男にあたる兄がいたからである(ちなみに晴久の子の義久も同様である)。しかし、政久の嫡男(跡取り)となる筈であった兄(名乗りは又四郎か)は夭折。これに伴い次男の三郎四郎が代わって政久の跡目と成る。さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。このため祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった。元服後の初名は詮久(あきひさ)と称した。大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。この頃、尼子氏は重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗した事で、毛利氏の大内氏への転属を許し、備後国や安芸国への支配力低下を招いていた。享禄3年(1531年)、叔父・塩冶興久が謀反を起こす。同年5月28日付の大内氏家臣・陶興房の書状には大内氏が塩冶興久・尼子経久の両者から支援を求められ、最終的には経久を支持していることから、経久の代には大内氏と和睦していたことが判る。
  • 真田幸村(1567年~1615年)安土時代から江戸初期の武将。真田昌幸の次男。幼名御弁丸、後に源次郎。左衛門佐を名乗る。名は信繁、後年幸村の名で知られる。1587年(天正15年)父昌行が豊臣秀吉に属するに及んで幸村も出仕し、秀吉の配下の大谷吉継の娘を妻として豊臣家と縁故を深めた。1600年(慶長5年)上杉討伐のために会津に向かった徳川軍に父や兄に従ったが、途中石田三成の挙兵を知って父とともに引き返し、上田城に籠って反徳川の旗を挙げ、徳川秀忠の率いる大軍を引き付けて関ヶ原の戦いに参加させず、三成方(西軍)を助けた。西軍の敗北により命が危うくなったが、妻が本多忠勝の娘だったために東軍に味方した兄信之の戦功に免じて死は逃れ、父とともに高野山麓の九度山村に蟄居させられた。1614年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、最も危険な城南天王寺口に出城を築いて徳川方をしばしば悩ませたが、幸村らの主戦論を押し切って淀君らによっり不利な条件の講和を結ばれた(大阪冬の陣)。翌年の夏の陣では幸村は道明寺、天王寺と転戦、一時は徳川本陣にまで迫って家康本人に狼狽させたが、越前松平忠直の家臣西尾仁左衛門の槍に討たれて戦死した。
  • 「三好長慶」(1523年~1564年、戦国の武将、父は三好元長。1523年(天文元)主人の細川晴元と対立した父は一向一揆に包囲され堺で敗死したが、長慶は1534年晴元と和して被官となり摂津国越水城に拠って反晴元勢力と戦った。その後、叔父政長との対立を機に晴元と決裂、1549年敗れた晴元が将軍足利義輝と京都を脱出する細川氏綱を擁し上洛、事実上京都を支配した。1552年近江国の守護六角義賢の斡旋により和議がなり、義輝は帰京したが、翌年和議を破って挙兵した義輝を追放、摂津国芥川城に本拠を移した三好政権の絶頂期を迎えた。長慶は管領・管領代制というとうじの室町幕府の支配体制を否定し、自ら裁可を行った。しかし、1558年(永禄元)義輝を再び帰京させるをえず、弟十河一存(?1561)の病死、三好義賢(1526年~1562年)の戦士が相次ぎ、家臣勝永久秀が台頭し、嫡子義興も不慮の死を遂げる中、失意のうちに河内国飯森山で病死した。
  • 「足利義昭」(1537年~1597年)室町幕府の代5代将軍。1568年(永禄11)~1573年(天正元)在職。12代将軍義晴の次男で13代将軍義輝の弟。はじめ興福寺一条院門跡となり覚慶と称した。1565年(永禄8)三好三人衆らに兄を暗殺され自らも幽閉されたが、脱出して幕府再興のために還俗し義昭を名乗った。織田信長の支援を得て1568年9月入京。10月将軍に就任すると、奉公衆や畿内の国衆を配下に置き、大名間の和平調停を行うなど、独自の政治立場を強化を目指し、信長と対立した。本願寺・武田・朝倉・浅井氏らに糾合し反信長包囲網を形成、1573年挙兵したが敗れ、毛利氏を頼って備後国鞆に移る。ここで毛利・本願寺・上杉氏らに働きかけ、なおも信長討伐・幕府再興を図った。本能寺の変を経て毛利氏が羽柴秀吉と講和すると、1588年に帰京して出家、昌山道休と称した。同時に将軍の位を去り、秀吉恩情から1万石を与えられ余生を送る、また聚楽第行幸に参加、朝鮮侵略の際も名護屋まで従軍している。
  • 耳かき好きの方に読んでいただきたい

    『椎名耳かき店』という小さなお店に訪れるお客さんが耳かきされるお話です。耳かき、綿棒、その他いろんな道具を使ってひたすら耳掃除をされます。カクヨムに同名の小説を連載しているので、良かったらサンプルとしてご覧になっていただけるとうれしいです。内容はWeb再録ではなく、新作になります。
  • 毛利元就(1497~1571)中国地方の戦国大名。毛利弘元の次男。兄沖本は十嫡子幸松丸が相次いで早世したために、重臣の合意により1523年(大永3)27歳で家督を継いだ。当時の毛利は出雲尼子氏と周防大内氏の一国人領主に過ぎず、家臣団も庶家や中小領主の一揆結合的性格を強く残し、毛利氏は秩序紊乱者への制裁を委任されてた立場だった。元就は尼子方の高橋氏を滅ぼし遺領を獲得、熊谷・宍戸氏ら有力国衆と同盟・婚姻関係を結び地位を強化、1541年(天文6)3万の大軍による尼子氏に吉田郡山城を包囲を大内氏も援軍も得て撃退したが、翌年の大内氏出雲遠征の失敗によりアマゴが勢力を盛り返した。元就は、妻妙玖の死後1546年に隠居し家督を嫡子隆元に譲るが、これを機に政治的手腕を発揮する。すでに1544年に三男隆景を竹原小早川氏の養子に入れ、この年次男春元の大朝新荘入部を実現、吉川興教父子の謀殺などの反対勢力を一掃した。家中においても、攘夷を軽んじて勝手な振舞があったとして重臣井上一族を誅殺、毛利家の公議として支配権を認めて裁判・軍事動員・行政命令に従うこと、家臣に制約させた。それに基ずき奉行人制や軍法書などが整備され、毛利氏権力は飛躍的強化された。1551年陶晴賢がクーデターで大内氏を倒すと、芸備の国衆は毛利に統率化に独立の動きを強め、陶氏との対決を余儀なくされた。1555年(弘治元)厳島の戦いに奇襲に勝利を収めた。土一揆などの抵抗勢力を排し、大友氏と大内氏領の分割を訳して1557年周防・長門を征服、石見の大内方国衆も服属させた。広大化した領国の統治と拡大のために山陰地方を元春、山陰地方を隆景が担当し当主隆元は補佐する毛利両川体制を形成し、1563年(永禄6)隆元が急死し、孫の輝元を後見し譜代重臣の福原貞俊・口羽通良にこれを補佐させた。北九州・山陰のに正面での戦いを、将軍足利義輝の調停の工作を利用して切り抜け、1566年に尼子を降伏させた。以降大友氏と本格的対峙するが、尼子勝久の出雲進出、大内輝弘の周防上陸、備前、浦上氏の備中進入、能島村上氏の離反など後方かく乱に追われる中安芸郡山城で病死した。
  • 「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。永享11年(1439年)の永享の乱で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、享徳3年(1454年)に関東管領上杉憲忠を暗殺、上杉氏との全面戦争を始めた。成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。古河公方との戦いで扇谷家は山内家を支え、特に扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍によってその力を増していた。資清・資長父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における守りと攻めの拠点とした。享徳の乱は互いに勝敗を分けながら20年以上に及び続いた。古河公方と対立する両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。
  • 《今年のことは、今年のうちにって、そう思っていたのに。》

    どことどこがくっついてもいい、節操ない大人百合があってもいいじゃない!をコンセプトにしたオムニバス短編集の小説版『Saturday』シリーズ、第10弾。

    毎年年末に1つずつ公開していた年末年始のお話をまとめ、
    書き下ろしを加えて5本収録いたしました。

    仕事が終わらなかったり、呑気に忘年会をしたり、年始の約束をしたり、帰省をしたりする、働く女性8人それぞれの年末年始の物語。

    今年の占いは吉?凶?それとも…?


    《New Year》156P
    1.Reserved
    2.Fortune
    3.Counting Down
    4.Joyful Joyful
    5.Once Upon A Time


    文:星羅にな
    絵:綺月るり
  • 1,650(税込)
    著者:
    玉置標本
    レーベル: 玉置標本
    出版社: 玉置標本

    へぼと呼ばれるハチの巣探しを習ったり、ガンギエイでジェニーハニヴァーを作ったり、砂利の中から素手でミミズハゼを掴んだり。待望のフルカラー&書きおろしたっぷりの豪華版。ターゲットは、ショウジンガニ、ミミズハゼ、クロスズメバチ、ムツゴロウ、イナゴ、ガンギエイ、シャコ、アメフラシ、タウナギ、ウシガエルの合計10種。

    へぼと呼ばれるハチの巣探しを習ったり、ガンギエイでジェニーハニヴァーを作ったり、砂利の中から素手でミミズハゼを掴んだり。待望のフルカラー&書きおろしたっぷりの豪華版。すべて私の三大欲求(まえがきで確認しよう)に沿った内容です。

    1:ショウジンガニを「ひっこくり」で捕まえたい
    2:砂利浜に手を突っ込んでミミズハゼを握りたい
    3:へぼ(クロスズメバチ)つけを習いたい
    4:有明海の珍魚、ムツゴロウを引っ掛けたい
    5:イナゴの佃煮作りを母親から教わりたい
    6:ガンギエイからジェニー・ハニヴァーを生み出したい
    7:シャコが狙って釣れることを確認したい(書きおろし)
    8:アメフラシの卵で海ラーメンを作りたい(書きおろし)
    9:ウナギじゃなくてタウナギを釣ってみたい(書きおろし)
    10:ウシガエルだけにビーフストロガエルって言いたい(書きおろし)

    普通に暮らす上で役に立つ話は一切載ってないけれど、こんな楽しみ方も世の中にはあるのだなと、穏やかな目線でお読みいただければ幸いです。
  • 「豊臣秀吉が九州統一を主目的に自ら行った戦役。九州攻めともいう。戦国末期九州では大友氏と島津氏が勢力を振るっていたが、1578年(天正6年)に島津氏が日向高城で大友氏を破り、勢力を拡大し、1585年には肥後・筑後を支配した。全国統一を目指す秀吉は、同年島津と大友に和睦を諭すが島津氏は、豊臣に対決姿勢を示し、九州北上を開始。大友義鎮はよく1586年4月に上坂、秀吉に謁見し、島津氏の侵攻に対する救援を求めた。秀吉は仙谷秀久らを先発隊として豊後へ派遣し、畿内をはじめとする37か国へ20余万の軍事動員を命じ、1587年3月1日自ら京都を発ち、同28日に豊前小倉城へ到着。そして、弟秀長に豊後路を南下させた、自らは筑前から肥後路を通り南下した。攻略は順調に進み5月には川内に至り、泰平寺を本営とした。島津義久は同8日剃髪をし、龍伯と号し秀吉に降伏した。6月7日には、筑前国箱崎で九州平定の論考行賞を行い。島津氏に侵略地の返上と、掠奪をした他国の民衆の返還並びに売買の禁止を命じ、大友義統には一国、従軍将校へ九州内の領地を与えた。また博多を直轄としとして再興させた、伴天連追放令を発布し、秀吉の九州平定は完了した。
  • とあるスポーツメーカーの営業マン。彼が旅先で出会ったものとは。
  • 黒田孝高(1546年~1604年)安土桃山時代の武将、大名。幼名万吉、通称官兵衛、勘解由。官兵衛自身キリシタン洗礼名ドン・シメオン。父は美濃守職隆、母は明石氏の娘。小寺政職。赤松氏一族で播磨国御着城主の端城姫路城を預かる。父の跡を継ぎ天正の初年頃から織田信長に接近し、1577年(天正5)羽柴秀吉の播磨入国では進んで姫路城に迎え、中国攻略に従った。1578年信長に離反した摂津有岡城主の荒木村重を説得に赴いたが、逆に監禁されて、1579年11月に落城の際に救助された。その後も秀吉に従軍し、1586年には九州攻略の先手を命じられて、毛利氏とともに九州入りをした。翌年秀吉が九州に入ると、羽柴秀長とともに豊前・日向方面を攻め、その戦功豊前国京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐郡内12万石の領知を得た。1589年家督を嫡子長政に譲った。1950年小田原攻めでは、北条氏政・氏直父子に和議の使者として派遣され、開城の際は城請取の役を務めた。北条氏直は和議成立の礼として孝高に室町中期の写本になる貴書「吾妻鏡」を贈り、孝高の死後には長政は遺物として将軍徳川秀忠に献じた。1592年(文禄元)朝鮮出兵に参陣し、8月に漢城に赴いたが、翌年秀吉の不興を買い長政に遺言6か条を残した。慶長の役にも出陣したが、1598年(慶長2)秀吉の死により帰国した。1600年関ケ原の戦いのおり大友義統を石垣原の合戦で破り、安岐城・小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定した。関ヶ原の戦功で長政が筑前一国に移されると、孝高も福岡に移った。山城国伏見で病没。墓は福岡の崇福寺にある。
  • 495(税込)
    著者:
    愛慈夢
    レーベル: 愛慈夢
    出版社: 愛慈夢

    元女子高生のホンネ。

    詩とエッセイの16の作品集。
    高校を中退し、引きこもり、人生について考えた少女のホンネ。
    幼少期の思い出、母との思い出、あの人との思い出。
    別れのときはいま。次のステップへ。
  • 謎に包まれたアズエルの過去を大暴露!!

    アズエルの知られざる過去を赤裸々に書き記した自叙伝
    コミカルなタッチで描かれた作品はとにかくおもしろい!
    感動必至の超大作です☆
  • 「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将に北進を続けた。12月、幕府の危機を救うために高師直の軍勢を投入させた。南北両軍は翌年1月四条畷で激突、師直軍はこの合戦で正行軍を壊滅させるや、直ちに吉野に侵入し行宮をはじめ蔵王堂以下の諸寺社を焼き払った。吉野攻略の成功によって幕府内における師直の声望が高まった。この状況を危機感を深めて直義は1349年6月、師直の室辞職罷免を尊氏に強請した。師直はこれに屈することなく、同年8月には自派を京都に結集、直義の所に逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、逆に直義の政務を取り上げ、鎌倉から足利義詮を上洛させて政務につかせるように要求した。尊氏は、紛争を早急に解決しょうと、直義派の武将上杉重能、畠山直宗を越前に流刑、のちに殺害した。1350年(観応元年・正平5年)になると直義派の武将たちが各地で蜂起し、同年10月に、直義は京都を脱出して大和に赴き南朝に帰服した。かくして、尊氏・師直派らは直義派との全面武力対決になった。よく351年2月、摂津打出浜の合戦において高氏派は敗れ、師直・師泰らは武庫川で上杉能憲に殺害された。打出浜の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することになったものの内訌は鎮静化に向かわず、その後も尊氏・義詮派と直義派は全国各地で合戦を繰り返した。そのため尊氏は南朝と和睦し正平統一、駿河・伊豆で直義軍を破り、1352年正月鎌倉を占拠したうえで、2月に直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。
  • 伊達政宗(1567~1636)戦国・近世初期の武将。出羽国米沢城主、陸奥国岩出山城主を経て仙台城主。伊達輝宗(1544~1585)の長男として米沢城に生まれる。母は山形城主最上義守の娘義姫。1584年(天正12年)10月、家督を相続。政宗は幼い時、疱瘡を病み右眼を失明。のちに唐書に言われる片目の英雄である独眼竜といわれた。南奥州の征服者を目指し1589年磐梯山のふもと摺上原に蘆名義弘の軍を破り、白川氏・石川氏などを服属させ、居城を会津の黒川城に進めた。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で旧蘆名領は没収され米沢に戻った。さらに1591年旧葛西・大崎領12郡を与えられた代わりに本領6郡が没収され、米沢から陸奥国玉造郡岩出山に移された。その後、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いに際し本領回復の判物を与えられたが、回復したのは苅田郡2万石の三であった。陸奥領60万国に近江領・常陸領を加えて1634年(寛永11年)仙台藩62万国が確定した。
  • 北条早雲は室町から戦国時代の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の名字は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵瑞の庵号、入道ののちは早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名は長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自は備中伊勢氏設、京都伊勢氏、伊勢国出身説などがあるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(現岡山県井原市)を所領した備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の貞国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったという。上洛して足利義視に仕え、伊勢を経て駿河今川の下に下向し、1476年(文明8)義忠没後の今川家の家督争いに姉北川殿、義忠嫡子今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功した。その任を果たして上洛し、1483年から1487年(長享元)将軍義尚の申次衆を務め、この間建仁寺、大徳寺の門をたたいている。1487年範満を討って氏親の家督継承を成功させ、その功により富士下方12郷を与えらえた。興国寺城主となった。1493年(明応2)伊豆に乱入したが、これは細川政元が将軍義稙を廃し、堀越公方足利政和の次男義高を擁立するクーデターと連動して行われたと考えられる。早雲は追放した足利茶々丸は、義高にとって母円満院の弟であった。その後も早雲と伊豆奪回に戦い続けて堀越公方の足利氏は滅亡した。早雲は大森氏による小田原城を攻略し、相模に進出し、両上杉家を巧みに利用し三浦氏を敗走させ岡崎城、住吉常攻めて鎌倉に入った。その後、玉縄城を築き領土を拡大し三浦親子を打ちのめして滅亡させた。相模全土を手中に収め1518年家督を嫡男氏綱に譲り、翌年8月15日韮山で没す。」
  • 440(税込)
    著者:
    館山緑
    レーベル: granat
    出版社: granat

    あなたの声が命を削る恋の結末

    妖怪伝承の残る夜待島に住む少年、旋(せん)は他島の学校に通う中学生。流れてくる声に惹きつけられ、波止場で出逢った『あの人』にほのかな思いを寄せた。しかし彼女と出逢うたび衰弱していく。旋がヨブコ除けの刺青を彫られた後、彼女の声も姿も思い起こすことができなくなった。
    しかし島々は穢れで満たされ、ついには身近な存在にまで惨劇が起こってしまう。
    旋の出逢った『あの人』は本当にヨブコなのか。自分は何を彼女に問おうとしているのか。
    ずっと聞こえていた声が導く初恋惨劇。
  • 本能寺の変は1582年(天正10年)織田信長が家臣のあ結光秀によって殺害された事件。信長は備中高松城(岡山市)を囲んで毛利軍と戦っている羽柴秀吉の応援のために、光秀に先鋒を命じた、自分は僅かな近臣を率いて四条坊門西洞院の本能寺に、嫡男の信忠は室町薬師町の妙覚寺に入った変の前日、信長は多くの公家や町衆から挨拶を受けて、茶の湯で接待し、夜は本因坊算砂らに碁を打たせて楽しんだ。信長は終日上機嫌で西国遠征の勝利を確信していた。光秀は1万余名の兵を率いて居城の丹波亀山城を出発、6月2日払晩本能寺を襲った。本能寺は一応の構えがあるが、東を西洞院川が流れるほか、残る三方は堀があったかどうかは不明。信長の警固は守蘭丸以下の小姓や中間数十人で、手練の馬廻衆は市中に分宿しておらず、信長はあえなく自刃した。信忠は妙覚寺が構えがないので、隣の二条御所に立て籠もり、駆け付けた馬廻り衆らを率いて戦たが、明智光秀の鉄砲隊にが撃破されて自刃。辺は終結されたが、明智光秀の謀反の理由が、怨恨説、立身絶望説、天下取り説などあるが、定説がない。光秀は山城、近江を平定したが、備中高松城で毛利と和睦して東上、大軍を山城山崎付近に集める中国大返しに成功した秀吉のために山崎の戦いに大敗し、野伏に討たれその天下が10日余りで終わった。
  • 石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は苦境に陥り、義昭の斡旋により浅井・朝倉と和睦した。1571年(元亀2年)~1573年(天正元年)まで。和睦は破れ、信長は浅井・朝倉と抗争を再開。近江門徒は浅井・六角を支え、越前門徒は朝倉を支えて戦った。やがて義昭は信長と対立、義昭は武田信玄を味方につけて信長の同盟を断行し蜂起した。しかし信長の攻撃に屈して和睦。義昭は信玄の病死後再び放棄するもはブレ、京都を追われた。浅井・朝倉も相次いで滅ぼされ、本願寺は信長に和睦を請い承認された。1574年~1575年まで。義昭は京都を追われた後も幕府を再興を意図して抵抗をし続け、本願寺はこれにこたえて蜂起、また朝倉滅亡後織田方の支配する越前門徒が蜂起し、一国を制圧。信長は軍勢を大坂にはけんして本願寺を攻撃する一方、自ら門徒の拠点伊勢中島を攻撃し、立てこもる門徒を大虐殺し手一揆を壊滅させた。さらに翌年越前に大軍で攻め込み、一揆勢を全滅させた。本願寺は和睦請い、信長も承認した。最後は1576~1580年まで、毛利氏に扶助された義昭は、諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。毛利・上杉・武田が呼応して籠城し、諸国の門徒が兵士を送ったり、武器・金銭・兵糧を送るなど戦いを支えた。信長は軍勢を大坂に派遣、5年にわたる石山籠城戦始まった。
  • 室町幕府3代将軍。1368年(応安元)~1394年(応永元)在職。2代将軍足利義詮の子。母は、石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。政所執事伊勢貞継邸で誕生。1361年(康安元)12月、南軍の入京により、赤松則祐に助けられて播磨白旗城に逃れた。1367年(貞治6)12月、義詮の死によって家督を継ぎ、よく368年(応安元)4月、元服、12月に征夷大将軍に補任された。細川頼之が補佐役になって幕政政治を指導した。1378年(永和3)3月、北小路室町光明院御所跡に造営していた新邸(室町殿)が完成した。義満は二条良基・西園寺実俊らを招いて竣工の祝いの宴を開いた。新邸の庭には鴨川の水を引き入れて池を作り、近衛家庭前の糸桜をはじめ諸家愛蔵の由緒ある花木が植えられたので、世人はこの邸を花亭とか花御所などと呼んだ。室町幕府の名も、この室町殿に由来している。1379年(康暦元)南軍の軍事行動鎮圧するために、大和に出陣中の土岐頼康、斯波義将ら有力守護菅で、幕政を壟断する管領細川頼之排斥運動が顕在化した。同年4月、反頼之派の有力守護達は花の御所を包囲し義満に頼之に罷免を迫った。義満は彼らの要求を受け入れて罷免した。この事件には義満の頼之の軌範を脱却しよう義満の思惑も多分絡んでいたのであろう。義満は斯波義将を管領に任じ、春屋妙葩を南禅寺の侍従とした。大きな課題は南北統一の名目のもとに南朝政権を完全に解体することであった。大内義弘らの仲介で南北朝合一を実現した。1394年(応永元)12月17日この義持に将軍職譲り、同月に太政大臣に叙任された。1399年10月に大内義弘が挙兵した(応仁の乱)この乱が義満が西園寺家から譲り受けた北山山荘でその造営にあたって義弘が土木事業の役を拒んだことにあったといわれる。対立は貿易で巨額な利益を経済力に「日本の国王」への道を歩み始めた大内氏が許せなかった。朝廷からも将軍と認めらえ絶頂期、北山第に碁小松天皇を招いて連日のように宴を開いていた日々を過ごす義満は突如急死し、足利幕府内は後継者も決まらないまま混乱をした。に
  • 平安後期の武将。源義家は河内源氏。父は源頼義、母は平直方の女。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。1051年(永承6)に始まった「前九年の役」に父に従って参戦、1062年(康平5)同乱平定の功により出羽守となる。1070年(延久2)に陸奥で藤原基通を、1079年(承暦3)には美濃で源重宗を追討、また京都でも悪僧の防禦・追補にあたる。1083年(永保3)陸奥守に就任、豪族清原氏内紛である「後三年の役」に介入。義家の調停に反抗した清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令を無視し、砂金等官物の納入も怠ったため、合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以降、摂関家に近侍した弟義綱と対立、1091年(寛治5)には義綱との合戦を企て朝廷から処罰される。1098年(聖徳2)白河院の昇段を許され1104年(長治元)延暦寺の悪僧の追補に活躍。反面、1101年(康和3)に嫡男、源義親が九州で乱行したほか、一族に不祥事が相次ぎ最中に死去。義家は武家棟梁として大きく評価されるが、彼の武力には畿内周辺を基盤とする軍事貴族層が目立ち、諸国の武士の統率者という理解には疑問がある。また後三年役後の不遇も一族の不祥事、内紛によるもので、公家による抑圧とは考え難い。
  • 主人公の東京での出会い、別れの物語

    主人公の吉村 剛が高校を卒業し上京。30歳で和歌山に帰るまでの東京中野坂本荘を舞台に繰り広げられる人生ドラマ。
  • 鎌倉幕府初代の執権。執権。1203年(県人)~1205年(減給)2年の在職。父は北条時家または北条時方ともいわれる。母は伊豆掾伴為房の女。北条四郎と称す。1160年(永禄元)伊豆に配流され源頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられた。1170年(嘉応2)伊豆大島の源為朝の征伐に参加し、女の政子が頼朝と結婚したのち頼朝の挙兵計画に参画。1180年(治承4)8月の山本兼隆の攻めを指揮し、石橋山での敗戦後、頼朝より1日早く安房へ渡海。同9月、頼朝の使者として甲斐武田党の下に潜航する。同10月、甲信の軍勢ととに駿河国黄瀬川で頼朝軍と合流、以降、頼朝の近侍する。1185年(文治元)11月、源義経追討のために上洛して京都守護となり、後白河法皇と折衝して、守護・地頭設置の勅許を獲得、7か国地頭職を拝領するが、日ならずして辞退した。その後、伊豆・駿河守護となる。1189年の奥州合戦に際して戦勝祈願のために伊豆国北条に願成就院を建立。1190年(正治元)4月2代将軍源頼家の親裁を止めて大江広元ら十三人宿老会議にを結成する。翌年4月、従五位下、遠江守。1203年(建仁3)9月比企能員を滅ぼし頼家を伊豆に配流、源実朝を将軍に擁立して政所別当に就任し幕政の実権を掌握する。1205年(元久2)先妻(伊東祐親の妹)の娘婿畠山重忠を殺害し、後妻牧の方の女婿を平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたが、先妻の子政子・義時姉妹に阻まれて、出家して伊豆に隠遁建保年正月6日、腫れ物により伊豆北条で死去した。
  • 和歌山県那智勝浦町の昔話です。

    主人公の吉村 剛が見て聞いて体験した那智勝浦町の昔なつかし話100話エッセイ集。吉村 剛作品の第1作目である。
  • 南北朝時代の武将、室町幕府初代将軍。1338年~1358年在職。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。六波羅探北方探題赤橋久時の女登子と結婚。1331年(元弘元)8月、後醍醐天皇が笠置で挙兵したとき、北条高時の命令によって。大仏貞直ととに幕府軍を率いて上洛「元弘の変」を平定ご、鎌倉に帰った。高氏は、父貞氏の葬儀も済まないままに高時から強引な出兵命令を受けたことに深く怒り、北条氏打倒を決意を固めたという言われている。1333年2月、天皇が隠岐を脱出して船上山にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河で一門の長老吉良貞義に北条討伐の決意打ち明け、近江の鏡宿で討幕の綸旨を受けて、伯耆への行軍を偽装しつつ丹波に至り、4月、篠村八幡宮の社殿で源氏再興の旗を上げた。5月、高氏は、赤松則村、千種忠顕らと京都に侵攻して六波羅探題を滅ぼし、奉行所を置いて、全国各地から上洛する武将たちを傘下に加えた。この間、関東では新田義貞が上野で挙兵し、激戦の内に鎌倉幕府を滅亡させた。この時高氏は嫡子千寿王が討幕軍に加わった。6月、天皇は帰京後直ちに高氏に昇段を許して鎮守府将軍とし、討幕戦に高氏の戦功を賞揚して自ら諱の一字を与えた。尊氏は、武蔵国など3か国の国務と守護職、さらに豊前国門司関をなど北条氏の遺領30か所に及ぶ所領を与えた。しかしながら尊氏は征夷大将軍に任命されなかったことに不満として、その後建武政権のいかなる機関にも参加せず奉行所を強化し、これを見た後醍醐天皇の子護良親王は逆進有りと称するほどであった。このため、尊氏は親王と対立し、1334年(建武元年)11月には、後醍醐天皇に親王の逮捕を強要し、親王の身柄を鎌倉の弟足利直義のもとに送り、ついに幽閉した。1335年6月北条時行が信濃に挙兵して鎌倉に侵攻するや、尊氏はそれを鎮圧するために東下したが、この時も征夷代将軍の称を許されなかった。8月には、時行軍を撃破し鎌倉を奪回したものの、直義の諫言を受け入れて帰洛せず、11月、逆に直義の名のもって、新田義貞誅伐の檄文を諸国に送って軍勢を催促を行った。義貞誅伐を名目に、建武政権への反意を表明した。その後二転三転し尊氏は九州に落ち延びて再び上洛し足利幕府の創設者となり、南北朝時代に移っていき、時代の左右する当事者として足利幕府の初代将軍となる。
  • 「源義仲」(木曽義仲)(1154~1184)平安後期の武将。木曽義仲とも呼ぶ。父は源義賢(?~155)母は遊女という。通称木曾冠者。1155年(久寿2)父義賢が甥の義平に武蔵国大倉館で討たれたため、2歳の義仲は乳母の夫中原兼遠に抱かれて信濃国木曽に逃れ、その庇護に下に成人。した1180年(治承4年)以仁王の令旨に呼称して挙兵、父の故地上野国に侵入するが、既に源頼朝の勢力を関東を制しているのを知って信濃に退く。義仲は奥州藤原秀衡と連絡しながら、翌年8月に平氏方の越後守城長茂を信濃国横田河原に破り、同年9月には越中国水津に平通盛軍を撃退して北陸道を掌握する。1183年(寿永2)10万にも及ぶ平氏の追討軍に対処するために、嫡子源義高(1173~1184)を頼朝の元に人質として送り、対立していた頼朝と和睦を結ぶ。同年5月越中国倶利伽羅峠の戦い、加賀国篠原の合戦で平氏を打ち破り、7月には延暦寺大衆と連携に成功し、兵士を都落ちをさせる。叔父行家とともに入洛した義仲は、平氏追討・洛中警固の院宣を得る。しかし、義仲軍は畿内での乱行をめぐって後白河法皇との溝が深まり、義仲が、水島・室山に平氏を討ちに出ているすきを見て、11月に院近臣が反義仲の兵を挙げる。義仲は急遽帰洛してこれを鎮定、法王を五条内裏に幽閉し、摂政藤原基通以下の解官、藤原師家を摂政・氏長者につけ、自らは院御厩別当となった、この戦いでの頼みの延暦寺大衆も敵に回した木曽義仲は一層孤立したたため、平氏との和睦を模索したが失敗、翌1184年(元暦元)正月、征夷代将軍に任じられた直後、頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れ、近江国粟津で打ち取られた。
  • 小牧・長久手の戦いは1584年(天正12年)羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が尾張及び北伊勢を主要な舞台として繰り広げた戦い。織田信長の死後、両者は対立関係を深めたが、家康は信雄と連合して小牧に陣をとり、大坂城を発した秀吉は犬山に対峙した。4月に秀吉側の一隊は家康の本拠を衝こうとして尾張東北部の長久手で合戦となり、家康側が勝利した。しかしこの局地な戦いでは決着せず、同年末に講和が結ばれた。結果としては秀吉は家康を服従させることに成功したが、両者の緊張関係はその後も続き、政局の展開に大きな影響を与えた。2「小牧・長久手の戦いの起因」(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。
  • 鉄分充填120%で天籟日記世界にエビコー鉄研、合流!

    「天籟日記」森きいこ著の世界にあこがれた我らが「鉄研でいず!」のエビコー鉄研。その二次創作を夢見た鉄研文芸担当の詩音が夢見ながら昼寝をすると目覚めたそこは……! 2つの小説が合流! メタSF*鉄道小説*装甲列車*19世紀ロマンが今、驀進する!
  • 織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。
  • 和歌山県那智勝浦町仲の町生まれの3バカトリオ。彼たちが繰り広げるドラマ

    和歌山県那智勝浦町のタケシとナカシャとタコちゃんの3人が周りの人々と繰り広げる面白くもあり、悲しくもあり、懐かしくなる物語です。
  • 1「はじめに信長包囲網」(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、同5日に本圀寺の足利義昭、明智光秀を急襲したが、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度、阿波に逃亡した(本圀寺の変)。こうした足利氏 - 織田氏と、阿波三好氏 - 三好三人衆との対立とは別に、同1月、織田信長は義昭の行動を制約する殿中御掟を出している。内容は信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的としたものだったが、義昭は各地に密書を出すなど、これを無視して動くことがままあった。そして、形式的には臣下である信長に縛られることを嫌った義昭と、コントロールしようとする信長の間での対立は深刻化していくことになる。 永禄12年2月、播磨の赤松政秀が織田信長に救援を要請。8月から九月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。
  • 「桶狭間の戦い」は1560年(永禄3年)5月19日、織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現名古屋市緑区)を含む丘陵地帯で敗死させた戦い。1550年代、三河を勢力圏に組み入れようとして織田氏と今川氏は、調略によって尾張鳴海城を奪取。これに対して信長は鳴海城の周辺に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて封鎖した。鳴海城の南にある大高城も鷲津砦、丸根砦を築き抑えようとした。1560年5月、義元は鳴海城の確保と織田軍の撃破を目的として出陣、19日に鳴海城外の桶狭間山に本陣を置いた。今川軍は早朝から織田軍の砦群を攻撃、鷲津砦、丸根砦を攻略、昼頃戦場に到着した信長は、温存していた主力群を率いて今川軍の正面から破り、混乱に乗じて義元を倒した。この結果、今川氏は衰亡へ向かい、信長は美濃の斎藤氏対策に専念、徳川家康は今川氏と服属関係を断って信長と同盟するに至った。戦闘の経緯は信長の家臣太田牛一の「信長公記」に詳しく書いてある。なおこの戦いを、天下を目指して上洛する途上の義元を、信長が豪雨の中、善照寺砦から大きく迂回して、田楽狭間の窪地に休息する義元の本体を丘の上から奇襲で倒したものとする説が有力とされている。
  • 「永禄の変の起因」(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるために一旦、御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。一方、三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。奉公衆の進士晴舎が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない。しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である。将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟・福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。
  • 「奥州仕置の起因」(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。宗洗は天正16年までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し、奥羽の無事実現へ大きく前進した。秀吉は天正17年1月に政宗に書状を遣わし、天正17年前半の上洛を求めた。しかし、その天正17年の前半である5月に政宗は蘆名領の会津へ侵攻したのだった。秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを明らかにした。11月、北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆し、真田領・名胡桃へ侵攻したことをきっかけに翌春に北条氏の征伐が行われることになり、東国に征討軍が派遣されることになった。天正18年、秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。

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