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『歴史、著者センター、101円~400円(文芸・小説、実用)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全463件

  • シリーズ67冊
    101220(税込)
    著者:
    宮沢賢治
    レーベル: micpub.com
    出版社: micpub.com

    宮沢賢治の傑作263作品を掲載しています。
    宮沢賢治は、日本の詩人、童話作家です。
    生前彼の作品はほとんど一般には知られていませんでしたが、没後に草野心平らの尽力により広く知られ、国民的作家となっていきました。
    生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』があります。
    本書には、一部挿絵も掲載されています。
    ※同一の作品でも、新旧の仮名遣いやルビのあるなしの違いごとに一作品として紹介しています。
  • シリーズ15冊
    440550(税込)

    日本社会の表裏に特異な足跡を残した昭和の「巨象」を検証して描写した人物シリーズ

    シリーズ第1弾。1955年にマンモス政党「自由民主党(略称・自民党)」を作った人物の素顔を追跡。

    <目次>
     保守結集の爆弾発言
     鳩山一郎の盟友
     吉田打倒の鬼
     不倶戴天の敵
     やじ将軍
     「めかけは五人」
     犬猿の握手
     保守合同の立役者
     主な参考資料
     電子版の発行に当たって
     著者紹介
  • シリーズ117冊
    220330(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。 しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。
  • この書籍は、高卒認定試験 英語の合格に必要となる頻出の英単熟語を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験の参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
  • 歌川広重の保永堂版・東海道五十三次を解説付きで完全収録

    解説付きで広重の東海道五十三次の世界がよくわかる! 本誌では広重の創作意図に着目し、鑑賞ポイントを解説。より深く歌川広重の「東海道五十三次」の世界を理解できます。これを見れば、広重の東海道五十三次がなぜ傑作と言われているのか良くわかるはずです。

    東海道五十三次は、起点の日本橋、終点の京都、その間をつなぐ53の宿場街を郷土色を大切にしつつ、抒情豊かに描き出した人気シリーズです。五十三次の中でも歌川広重が手がけたこの保永堂版は、江戸時代から現代まで売れ続け、これからも売れ続けていくであろう永遠の大ベストセラーで、日本美術史上の最高傑作として名を残しています。

    描かれている宿場街のさまざまな風景、人々の営み、季節や時などの空気感は、日本の原風景として私たち日本人の心に深く刻み込まれています。

    解説文とともに東海道五十三次のすばらしさを存分に味わっていただければ幸いです。
  • この書籍は、秘書検定 2・3級の合格に必要となる頻出の知識を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験に役立つ参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
  • 洗脳、カルト、詐欺師

    本書は、人間をコントロールしようとする『信者ビジネス、カルト宗教、オンラインサロン、詐欺師』などから身を守るための本です。特に人生経験が浅い、若者に読んで欲しいという想いで執筆したものです。私たちは、自分の意志で判断して自由に生きることができます。もし自分の大切な人が、信者(会員)になりお金と人生を奪われているとしたら、どんなことをしても守らなければいけません。現在人々を思考停止に陥らせ、その自由を奪う危険な集団が蔓延っています。そういった詐欺、オンラインサロン、カルト宗教から身を守るための一冊です。自分や家族、大切な人たちが、盲信者になったとしたら人生を全て失うことになります。構造を知っておくことで、自分と大切な人を守る事ができます。目次はじめに〇盲信するということは、思考の放棄と同じ・盲信する危険性〇奴隷精神・搾取されることに慣れると居心地がよくなる・苦しんだ分だけ対価が得られる?・他人の決めたルール〇大勢を操ろうとする邪悪な存在・民主主義と大衆のコントロール〇宗教の洗脳・宗教の洗脳が秩序を保っている・信者だけを救う神・恐怖で人をコントロールする・恐怖、不安などを理由に行動していないか・罪の意識を与える〇分かりやすさが大衆を操る・大衆を味方につける必要性・愚かな人たちに向けて発信されている・シンプルなメッセージ スローガン・単純明快な思想、ビジョンを語る・大衆に向けた宣伝〇見た目、雰囲気で騙される・話の内容より雰囲気が大事・取り巻きの信者の効果・一見するとよい人・好感度が高ければ高いほど影響を与えることができます。〇大きな変化は必要ない・人々はほんの小さな変化すら嫌う〇嘘をついても心が痛まない 人々を操る人間・平然と嘘をつく・約束は守らないのなら、それぽい理由付け・不確かな状況でも確信して言い切る〇弱っている人間を狙う・不安定な世の中になると・不安定な世の中でヒーローを求める・似非科学、権威・心の弱っている人間ほど操られる・疲労によって人の意志が弱くなる〇怒り、感情を利用する・注目をあつめるには感情を煽る・怒りや不満を代弁する演説・敵を作る・不安で敵を作り出す・演出、感情に訴える・役者のように演じ、感情を露わにする。etc〇参考文献
  • 驚愕の雑学!

    本書は、歴史、迷信、語源の雑学を115種類まとめた一冊です。暇つぶし、雑談に使える楽しい雑学。知的好奇心を高め、物知りだと思われるそんな本です。目次はじめに規則、ルールの雑学交通の雑学・信号の青日付の雑学・昔の時刻日本の法律ルールの雑学・住居がなく、働かないで徘徊することは違法・日本に存在したミニ独立国・死刑の身代わり外国の法律、ルール・脱獄が法律で認められている国・アメリカのゾンビ対策マニュアル・イギリスの爵位の由来・砂の城をつくることが禁止外国の雑学・ダホメ王国の国旗・国旗が正方形の国・細長い国旗・面白い形の国旗・国旗にAK47が描かれている国・最も複雑な国旗・紫色の国旗が使われいる国・元祖日本の国旗・国旗が作られた理由・人口1人の街・世界一貧しい国・奴隷の島・観光大国・もく浴祭り・水かけ祭り・デンマークで独身で25歳になると・一番寒い首都・教育熱心な国・南アフリカの新年のお祝い・世界一幸福だった国ブータン・インドの言語・一番祝日が多い国・祝日が少ない国・モアイの変化・凄すぎる改名戦い戦争の雑学・怨念の弾丸・アメリカが終わったかもしれない飛行機事故・核戦争が起こったかもしれない事件・架空の兵器?・アメリカの人型兵器・低価格のヤバイ兵器・対戦車ライフルの使い道・視力を奪うレーザーライフル・迎撃不可能、超音速ミサイル・毒ガスのランク・『忍者爆弾』・石川五右衛門は、元忍者・ギリシャの火・暴行番組・古代ローマの剣闘士の死者数起源の雑学・イースター島の由来・四天王とは・警察の起源・日本に存在した少数民族・『とおりゃんせ』の意味・童謡『はないちもんめ』の意味・童謡『てるてるぼうず』の3番の歌詞・カニバリズムの語源偉人、有名人の雑学・多くの元素を発見した化学者・アメリカの国旗をデザインした人物・ルソーの性癖・シェイクスピアは複数人いた?・馬鹿げた法律で亡くなった王妃・自分を神と勘違いした男・占いを当てるために自殺・人間不信で餓死した数学者過去の雑学・古代シュメール人が残した隕石の記録・南極で発見された頭蓋骨迷信雑学・ポヴェリア島・呪いのご神木・病を治す奇跡の水・廃墟の病院・侵入すると危険な場所etc
  • ヤバすぎる雑学掲載!

    本書は、ヤバイ雑学を76種類まとめた一冊です。暇つぶし、雑談に使える楽しい雑学。知的好奇心を高め、物知りだと思われるそんな本です。目次エロいルール法律・電気をつけたままヤッてはいない・〇が禁止の法律・騎乗位禁止・コロンビアの性の法律エロい語源言葉・面白い外国語エッチな雑学・ステーキと〇〇の日・大人のおもちゃの日・マジックミラー号・カー〇〇〇専用駐車場・無重力での性行為・得意・世界最古のコンドーム・ゴム製のコンドームが開発・古代エジプトのエロ本・サドマゾの殺人鬼・大根を使った刑・狂気の精巣移植ヤバい雑学・自殺の本・ドラッグ推進鉛筆・汚染されている都市・土煙に覆われた都市・世界で初めて市民権が与えられたロボット・ヤバい思想をもったAIロボット・ヤバい思想を持ったAIロボット2・ヒマカベ族・イースター島の食人文化・食人の風習・開拓民が起こした食人事件・ウルグアイ空軍機571便の墜落事故・2011年の食人事件・北センチネル島の事件・武装が認められているヤバイ地域・祝日を作りまくったヤバイ独裁者・ポルポトのヤバさ・最強最悪のギャング集団・危険すぎるバイク集団・次々と若者が亡くなっていく・愛の逃避行・死体愛好者の殺人・暗号を送り続ける殺人鬼・時効が成立した殺人・2018年の脱走事件・41年ぶり東京拘置所からの脱獄・日本のヤバイ監獄・世界最大の矯正施設『ライカーズ島』・23時間拘束される最強の刑務所・受刑者が自殺していく刑務所・タイにある刑務所の待遇・ギャングに乗っ取られた刑務所・過密状態の刑務所・最も危険な刑務所・監獄島から脱獄・人間プレス機・生贄の儀式ウィッカーマン・ファラリスの牡牛・異端者のフォークとは・長靴の拷問器具・ねずみ責め・中世ヨーロッパのノコギリ挽きetc
  • シリーズ5冊
    330550(税込)

    ようこそおいでませ、ここは驚異の部屋。あなたは×××人目のお客様です。

    「ようこそおいでませ、此処は驚異の部屋。貴方は記念すべき××××人目のお客様です」
    十九世紀末、ヴィクトリア朝倫敦。
    パブの帰り道で酔い潰れ、目が覚めたら見知らぬ場所にいた。貴方を歓待するのはこの上なく笑顔が胡散臭い、天使のような美少年。
    少年は自らを学芸員(キュレーター)と称し、前後不覚の貴方に身の上話を迫るのだが……。
    (ファンタジー/歴史/主従/貴族/無理矢理)
    表紙:SiC9.5(@SiC9_5)様
  • シリーズ2冊
    330(税込)
    著者:
    蕨谷哲雄
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    日本を破壊した小泉民営化の末路

    本文を読む前に

    【日常は幻想にすぎない】

     私たちは多くの情報を報道機関から得ています。
     報道機関が公正であったならば問題ないのですが、不正があった場合どうなるでしょうか?
     私たちの行動は得られた情報をもとに決定されます。
     報道が事実を伝える保証はありません。
     太平洋戦争時の大本営発表などがその一例です。
     まやかしの報道は最後に破綻します。
     その時になって、大衆は現実と虚構の差に驚き狼狽します。
     民主主義を標榜している現代においても、国家間では同じ情報であっても、その報道姿勢に差異が見られます。
     報道姿勢にはその国の民度が反映されており、民度が低い国ほど歪められた情報に晒されることになります。

     それでは、日本の民度はどの程度でしょうか?
     残念ながら、先進国を自称している割には、高いものではありません。
    「衣食足りて礼節を知る」の格言通り国民所得の高い国ほど民度も高くなりますが、日本の場合は部分的に当てはまらない事象があります。
     日本人は勤勉で礼儀正しく親切で清潔感を大事にする国民として知られています。
     近隣国との比較ではその通りなのですが、民度を構成する必須要素に欠陥があります。
     それは「独立心」です。
     現在の日本は独立国とは言えない状況です。
     多くの日本人は内心気付いているものの、現在の「そこそこの暮らしぶり」に妥協して、その事実に見て見ぬ振りをしています。
     日本人と似たような境遇の国民もいます。
    「香港」がそうです。
    「香港」は独立国ではなく、支那の一部です。
     ただし、過去の経緯と経済的思惑から、「高度な自治権」が与えられ、支那本土とは異なった社会体制を維持してきました。
     近年それが崩壊し惨憺たる状況になったのは、住民の「独立心」が希薄だったからです。
     同じような立地条件の「シンガポール」とは決定的に異なる点です。
     日本が真の独立国ではないことは、歴史をたどれば簡単に判ります。
  • シリーズ5冊
    220(税込)
    著者:
    蕨谷哲雄
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    朝鮮は南北2つの国が存在するので、区別するために本書では「北朝鮮」「南朝鮮」を採用しました。 更に漢字が連続する場合は「北鮮人」「南鮮政府」などと短縮表現します。 同じく「中国(中華人民共和国)」という表現も、日本の「中国地方」や「中華民国(台湾)」と区別するために英語表記に近い「支那」を採用しました。

    南鮮内の一部の勢力に気兼ねして「コリア」「コリアン」などと片仮名英語でごまかしている在日系メディアも存在しますが、感心しない風潮です。
     朝鮮が日本に要求してくるものには難癖が多いので、不当な要求を無条件で受け入れてしまうような対応はかえって両国間を不幸にします。
     劣情による理不尽な要求には毅然(きぜん)とした態度で臨むことが、結果的に増長した相手への忠告になるのです。

     朝鮮語の言語構造は、身分の上下を意識する「不平等な待遇表現」を基調としており、平等性を重視する現代の感覚から外れています。
     更に、朝鮮は不幸な歴史環境によって、歪(ゆが)められた形で儒教の悪影響を受けているために、朝鮮人の中には主要メディアの執筆者であっても、公正で客観的に表現できない者が多く、そのため朝鮮紙の記事の中でも、日本語に訳すと相手を見下した非礼で幼児的表現が散見されます。
     このような朝鮮紙の文章表現とのバランスを取るために、本書では朝鮮紙の礼節を欠いた主観的論調に対して「不平等な待遇表現」を使用して批判していますので御了解ください。
  • シリーズ4冊
    330(税込)
    著者:
    極右閣下
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    1999年 植民地後の日本

    1999年郵政民営化で日本の滅亡が始まった!
    この国民にしてこの政府あり!
    不正政治を許しているのは情弱の国民性です
    政財官要人を朝鮮人に成りすまさせる米国の日本仕置き
    少子化・移民推進による2100年日本人完全抹殺計画の邪悪な陰謀
    真相を知り、日本を救済する方策はあるか?
    テポドン騒動と狂乱のW杯!畠山鈴香は小泉の犠牲者か?
    2006年(平成18年)7月1日~2006年(平成18年)7月31日
  • シリーズ2冊
    440(税込)
    著者:
    蕨谷哲雄
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    北朝鮮は第二次世界大戦後ソ連の勢力下に組み込まれた。金日成はソ連の工作員だった。しかし、その後ソ連が崩壊し、後ろ盾がなくなった金日成は中国の鄧小平から主権の割譲を要求され、切羽詰まって旧知の関係だった統一教会教祖文鮮明の伝手で米国に身売りする決意をした。

    プロレスが大好きな米国は北朝鮮をヒール役国家として活用することを思いつき、北朝鮮の保護を密約し、属国の日本に命じて北朝鮮の支援をするように命令した。
    日本は北朝鮮がソ連の属国だったころから米ソ密約によって北朝鮮に対して国土を開放し、支援をしていた。
    日本人が団結して米国支配から脱出するのを防ぐために、米国は朝鮮人やその成りすましを日本の政財界マスコミに送り込み、日本人を貶めていたのである。
  • 古典に登場する植物を紹介しています

    古典に登場する15種+αの植物について文章と四コマ漫画で紹介しています。
    解説役は平安中期の人物、藤原彰子・頼通姉弟です。
  • 古墳巡り本です

    2015~2020までに巡った古墳を四コマ+文章で書いてみました
    百舌鳥・古市古墳群、箸墓古墳、さきたま古墳群、保渡田古墳群などなど
  • 350(税込)
    著者:
    神功路 明
    レーベル: 神功路 明

    東海道本線。日本を代表する鉄道の大動脈である。明治時代に開通し、旅客・貨物を今日も大量に輸送しているのだが、東京ー神戸間という区間がなぜ設定されたのか。終点が神戸である理由とは?斬新な視点で日本の近代史に斬り込んだ意欲作である。

    東海道本線が出来た経緯と、神戸駅の変遷。新橋駅から東京駅に起点が動いた経緯に見る、帝都東京の発展。東京駅と神戸駅に共通して存在する「楠木正成」は、近代国家日本においてどのような影響を与えたのか。また、明治天皇の出生における謎とは。鉄道駅の変遷から描く「日本人の精神」とは。小作品ながらも濃い内容で読者に迫ります。
  • シリーズ4冊
    330550(税込)

    PISA、TIMSSなどの学力調査を概観し、科学的な学力調査とは何かを解説する。

    PISA・TIMSSなどといった国際的な学力調査はなにを測っているのか。
    そもそも科学的な学力調査とは。
    「学力低下」論吹き荒れる時代において、改めて学力調査、そして教育政策のあり方を問うた評論同人誌。
    「学力低下」一辺倒の言説や若い世代を貶めるための調査などに批判的に言及。
    冊子版:2012年8月刊行(コミックマーケット82)

    【目次】
    第1章 PISA・TIMSSとは何か
    コラム 国際成人力調査(PIAAC)とAHELO(「大学版PISA」)
    第2章 PISA・TIMSSをめぐる我が国の言説状況
    第3章 国際バカロレアを導入すべきか
    第4章 日本の学力調査の問題点
    第5章 学力調査はどうあるべきか
    参考文献・資料
  • 縄文晩期、呉太伯ら子孫が建てた天之国は、前三世紀の倭国王朝、一世紀の倭奴国王朝、大乱後の南九州では日隈・日前・和国の名で再興された後、大和朝廷として蘇った。とりわけ「戦わずして勝つ」を国是に掲げた邪馬台史は、三国志や戦国・幕末期を凌ぐ世界中に誇れる歴史でした。司馬遷の信念に従い、記紀・史記など資料、各地の伝承、神社の縁起を織り交ぜながら、この歴史を物語化しました。

    『邪馬台三国志』歴史物語のあらすじの最新増改訂版です。
    古代史の常識や通説を我が国の歴史的観点から検証していくと、戦前から信じて疑うことのなかった皇統万世一系も、戦後に「百余国を束ねた王朝など、存在しなかった」と教えられたことも、全て誤りです。邪馬台国史の全貌がとんと解明できない原因は、ここにあります。一から考え直して、再構築する以外にありません。
    大陸の古い歴史を背負った渡来人たちが懸命に築きあげた上古の歴史は、魂の再来、不老長寿、古の善政再現、仏法流布、戦わずして勝つの理想実現に挑戦してきた歴史でもあった。それらが織り重なって流転する様子は「三国志」を遥かに凌駕して、世界中に誇れる歴史でしたが、大和朝廷の指導者らは、本来の皇統、即ち、
    神武―崇神―応神とあるべきところに、神武―崇神の間に大日本家八代を挟み、崇神―応神の間に垂仁・景行・成務・仲哀の邪馬台国王四代を割り込ませて、万世一系に改ざんしたのです。
    先祖のわだかまりや怨念を断ち切り、一家となって生きるよう配慮した結果です。
    〔著者〕
    昭和十八年、神戸市に生まれる。昭和四十三年、神戸大学工学部建築学科卒一級建築士。平成元年三月以来、三十余年来の古代史研究家。〔書籍〕
    『新ヤマト・出雲、邪馬台の三国志』(平六年、新人物往来社刊)〔電子書籍〕
    同上の復刻版、『邪馬台三国志』歴史物語編、『邪馬台三国志』解説編、『邪馬台三国志』、『邪馬台三国志』ダィジェスト版、『邪馬台三国志』歴史物語編のあらすじ 最新版
  • 性エネルギーをコントロール

    本書は性エネルギーを活用するための、技法を体系化したものです。『房中術』『クンダリーニ』などをベースに、性エネルギーを循環させるための技術を記しています。一般向けの本ではなく、禁欲を一ヶ月以上行い、習得までに繰返し訓練が必要になるものです。性エネルギーの循環を習得すると同時に、射精コントロールを身につけることが出来ます。技法を習得すれば、内分泌が活性化し心身を健康に保つことが出来ます。異性を惹きつけることも可能になります。人間の潜在能力を最大限引き出すのが、本書の技法です。目次はじめに※注意事項〇性エネルギーとは何なのか?・自然の摂理・精子=生命エネルギーの貯蔵庫・精子に含まれるもの・精子の生産・精子を保持していくと・人が持っているエネルギー・生命エネルギーは無限ではない・身体という土台〇内分泌 ホルモンの影響・ホルモンの影響・性ホルモンが精神に影響する・性ホルモンを外部から補充しても・愛のある行為〇性エネルギーの浪費・男性と女性 性の消耗・性エネルギーが満たさていくと・射精でエネルギーを浪費する感覚・過剰に刺激された性欲・精の消耗の影響・一般的な西洋医学では〇射精コントロール・射精を抑えるの重要な筋肉・物理的な射精コントロール・筋肉の緊張を使う・冷水で早漏改善〇性エネルギーの活用方法・性エネルギーは活用されている・精を保持する技法・禁欲の害・性エネルギーが有り余るとetc
  • 名著、復刊! 大正時代~昭和初期ごろを活写した浅草エッセイ全19章

    1930年(昭和5年)に出版されたロングセラーのエッセイ集が、新字体、現代かなづかい、パラルビ(人名、地名、固有名詞、難読漢字だけにふりがなを添える一般的なルビ形式)で読みやすくなって電子書籍化! 当時の挿絵も収録しています。文字の大きさ(フォントサイズ)を変更できるリフロー形式です。

    およそ百年前。帝都の片隅には、歓楽境(パラダイス)があった。
    しぶとく生きる私娼や物乞う人々の知られざる生態、カフェーで働く若い女給さんに訊いた一斉アンケート結果、出どころが怪しい品物でバイ(商売)をおこなうテキ屋と大道芸人たち、活動写真館や浅草オペラ劇場の楽屋裏スケッチ、ダダイスト辻潤がとらえたモダンで滑稽な浅草抒情、等々…… 牛なべ、寿司、そば屋と天ぷら屋の暗闘、何やらわからぬ臓物の串焼き、市民の胃袋を支えていた定食屋の評判、立ち食い屋台店、等々のB級グルメ案内、乞食たちのおやつ「ハイカラ餅」の正体とは?

    【解説】
    本書『浅草底流記』は、愛憎・肉欲・暴力・犯罪・喜怒哀楽すべてが「ごった煮」の混沌地帯であったにもかかわらず絶妙なバランスで隆盛をきわめていた当時の「浅草公園第六区」で生きる者たちの息づかいを、平易&軽やかな文体で写し取った傑作随筆です。

    【もくじ】
    第1章 浅草 朝から夜中まで
    第2章 浅草鳥瞰図
    第3章 六区展望
    第4章 舌端をゆくもの ─ 食い物屋
    第5章 吼えろカフェー
    第6章 大衆の食卓 ─ 屋台店第7章 香具師の群れ
    第8章 浅草は性欲の廃墟?
    第9章 浮浪者の天国
    第10章 乞わない乞食
    第11章 女給行状記
    第12章 ノミ屋・門付・喧嘩
    第13章 玉の井風景
    第14章 浅草をうたった流行唄
    第15章 観音の由来
    第16章 浅草の伝説
    第17章 仲見世の沿革
    第18章 浅草つれづれ話
    第19章 浅草に無いもの その他
  • 新撰組は何故生まれ、そして何故散ったのか――?

    幕末の動乱期を語るには欠かせない『新撰組』。
    彼らは歴史の被害者か、それとも明治維新を完成させる為に必要な存在だったのか――
    幕末の江戸、京都を中心に活躍した『新撰組』をテーマに、史実と考察を交えて論じた評論です。
  • 田中正造たなかしょうぞう(1841―1913)明治期の政治家、社会運動家。下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角(ろっかく)家の苛政(かせい)に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺(えさし)県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編』などを読み、西欧思想に触れる。1879年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後1890年衆議院議員に選出されるまで在職、1886年からは議長を務めた。この間、1880年安蘇郡に民権結社中節社を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、また嚶鳴社(おうめいしゃ)社員を招き各地に演説会を開き、民権思想の普及に努めた。翌年の自由党結成大会に出席し、都市知識人と地方有志の結合による一大立憲政党の結成を説いたがいれられず、結局、翌1882年立憲改進党に入党、栃木県に全国有数の改進党勢力を築いた。1884年県令三島通庸の土木政策に反対し一時投獄される。1890年の第1回総選挙に栃木3区(安蘇、足利)から衆議院議員に当選、以後1901年(明治34)まで毎回当選を果たす。この間、独自の憲法解釈をもって藩閥政府を批判。ことに1891年の第二議会では当時顕在化した渡良瀬(わたらせ)川沿岸の足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出、以後一貫してこの問題を追及。1896年には群馬県渡瀬村雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設け、ついで東京事務所も設置、足尾銅山鉱業停止の要求を掲げて、被害民を組織し、議会での質問演説で集中的にこの問題を取り上げ、新聞社などに働きかけ世論の喚起に努めた。1900年の第4回被害民大挙請願を憲兵・警官が抜剣、暴行して阻止した川俣事件が起こると、議会で「亡国演説」を行い、政府の責任を激しく追及するとともに、憲政本党を脱党して、自己の立場が党派的利害に出るものでないことを明らかにした。
  • 松岡洋右まつおかようすけ(1880―1946)大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。
  • 田中義一たなかぎいち(1864―1929)陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 「張作霖爆殺事件」中華民国軍政府大元帥、張作霖が関東軍西光参謀河本大作大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和13年)国民革命軍の北伐が北京に迫ったため、張は日本の勧告により6月3日特別列車で北京退去し、京奉線で本拠の奉天に向かった。かねて張への不信感をつのらせていた関東軍(司令官村岡長太郎)中将(1871~1930)は、この機に張をげやあせ、満州を中国から独立させようと図り、錦洲方面へ出勤する体制をとったが、張をなお利用する考えであった田中義一首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようとした。奉天の京奉線と満鉄線のクロス地点のガードに爆薬を仕掛け、6月4日早晩、帳の列車を爆破。帳は爆死した。しかし「事前の打ち合わせが不十分で、関東軍は出動せず、河本の策謀は失敗に終わった。政府・軍は真相を秘匿し、国民革命軍の犯行と過ったが、満州某重大事件として疑惑を呼び、田中義一は天皇陛下に叱責されるに及んで内閣総辞職をきたした。また中国では後継の張学良が反日の姿勢を強め1928年末には東三省易易識中国東北の遼寧省、吉林省、黒龍省に、満州国国旗を五色旗にかえて国民政府の国旗であることを正店白日満地紅旗を挙げさせた。これを機に満蒙問題を重大化招いた。
  • 浜口雄幸はまぐちおさち(1870―1931)大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。
  • 尾崎行雄おざきゆきお(1858―1954)政治家。戸籍上は安政6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義内閣では外務省参事官、第一次大隈重信内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望内閣が倒れると、国民党の犬養毅とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。
  • 頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。
  • 大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。この結び付きから、31年(昭和6)には、軍部内閣樹立のクーデター計画事件である三月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃(けんじゅう)と資金を提供したため逮捕され、下獄した。37年に出獄したのちは、大川塾と称された東亜経済調査局付属研究所を開設し、研究要員の育成にあたるほか、著作活動に力を注ぎ、『日本二千六百年史』をはじめ数多くの著書を刊行した。45年(昭和20)12月A級戦犯容疑で逮捕されたが、巣鴨(すがも)収容中に精神障害をおこし免訴となった。なお、都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた。昭和32年12月24日死去。
  • 上海事変(しゃんはいじへん)日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。第一次目次を見る満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。
  • 大正デモクラシー

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
  • 尼港事件(にこうじけん)シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。
  • 明治維新

    副島種臣(1828~1905)明治期の政治家。父は佐賀藩士,藩校弘道館教授枝吉忠左衛門,母は喜勢子。安政6(1859)年父が死去し,同藩士副島利忠の養子となる。号は蒼海,一々学人。嘉永3(1850)年兄の枝吉神陽を中心とする義祭同盟に大木喬任,江藤新平らと共に参加し,尊王論に傾倒。5年京都に遊学し,国学者矢野玄道らと交流。その間神陽の命を受け公家大原重徳に意見書を提出,青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵上洛を求められる。帰藩後,藩兵上洛は藩主鍋島直正に退けられ,副島は藩校教諭を命じられた。元治1(1864)年長崎に行き米国人宣教師フルベッキに師事し,英学,米国憲法を学ぶ。慶応3(1867)年大隈重信と脱藩し江戸に行き,目付原市之進(水戸藩士)に大政奉還を説いたが,藩より謹慎処分を受けた。維新後長崎で対外折衝を担任,さらに参与,制度事務局判事を命じられ,福岡孝弟と共に政体書を起草した。明治4(1871)年外務卿に就任。樺太国境問題をめぐる対露交渉,マリア・ルス号事件(ペルー船積み込みの清国人奴隷解放をめぐる外交問題),日清修好条規批准交渉などに功績をあげたが,征韓論に同調して下野した。その後,自宅で愛国公党を結成し,民選議院設立建白書にも署名したが民権運動には参加しなかった。9年から11年にかけて清国を漫遊し,書道への造詣を一段と深めた。17年伯爵に叙せられ,枢密院顧問官・同副議長などを経て,第2次松方正義内閣の内務大臣となったが,在任3カ月で辞任するなど,大きな政治力を発揮することはなかった。
  • 大逆事件(たいぎゃくじけん)明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳事件ともいう。 日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦、大杉栄らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた管野は、宮下太吉、新村忠雄、古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。 取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助らの紀州派、松尾卯一太らの熊本派、武田九平らの大阪派、さらに森近運平、奥宮健之、内山愚童ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂太郎内閣下の平田東助内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎司法省行刑局長兼大審院検事、松室致検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
  • 明治維新

    佐賀の乱(さがのらん)1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。
  • 歴史の回想

    鈴木貫太郎すずきかんたろう(1867~1948)海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。
  • 歴史の回想

    夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。
  • 歴史の回想

    中江兆民(なかえちょうみん)(1847―1901)明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。
  • 歴史の回想・

    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。
  • 歴史の回想

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して1941年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。
  • 歴史の回想

    「ポーツマス条約」(ぽーつますじょうやく)1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
  • この書籍は、実用フランス語技能検定【仏検】 4級の合格において必要となる単語を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験に役立つ参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
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    壬午軍乱(じんごぐんらん)1882年朝鮮のソウルで、日本の侵略と閔(びん)氏一族の腐敗、売国政策に対して立ち上がった軍人たちの反乱。日本では甲申政変とあわせて京城事変といったこともある。1876年の江華条約(日朝修好条規)以来、日本をはじめとする外国資本主義国が朝鮮を侵略、李朝(りちょう)封建体制の危機は深まり、民衆の生活苦は倍加していった。時の権力者である閔氏一族は1881年に日本の要請で軍制を改め、日本陸軍少尉堀本礼造を軍事教官に招き、両班(ヤンバン)の子弟を中心に別技軍という新式軍隊を組織した。これに対し旧来の軍隊の兵士たちは、俸禄(ほうろく)米も13か月も支給されないままであった。82年7月にやっと1か月分の俸禄米が支給されたが、腐っていたり、砂が混ざっていたりした。ここで兵士たちの不満は爆発、武器をとって立ち上がり、一隊は閔氏一族の大官たちの邸宅を襲い、さらに内殿に侵入して閔妃(びんひ/ミンピ)を殺害しようとした。閔妃は宮女に変装し王宮を脱出、忠州に逃れた。他の一隊は日本公使館を襲撃、これを焼き払い、堀本礼造らを殺害した。公使花房義質(はなぶさよしもと)は命からがら長崎に逃げ帰った。ソウルでは大院君が政権につき反乱を収束。一連の改革を行おうとしたが、清(しん)国の介入で失敗、清国に拉致(らち)され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化した。
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    板垣征四郎いたがきせいしろう(1885―1948)陸軍軍人(大将)、陸軍大臣。明治18年1月21日岩手県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員のあと北京(ペキン)公使館付陸軍武官本庄繁(ほんじょうしげる)の補佐官となる。本庄が関東軍司令官になるとその下で高級参謀、奉天(ほうてん)特務機関長に就任し、作戦参謀石原莞爾(いしわらかんじ)とともに1931年(昭和6)満州事変を引き起こし、「満州国」創設後は満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、師団長を歴任した。この間、「満州国」を「五族協和」「王道楽土」にすると主張し、満州拓殖株式会社を設立して、20年間に100万戸、500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣、国家総動員法の追加発動、満州産業五か年計画の実施に努め、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣にも留任して、汪兆銘(おうちょうめい)政権工作を推進し、三国同盟問題で強硬態度を示した。のち朝鮮軍司令官、第七方面軍司令官となる。極東国際軍事裁判でA級戦犯として、1948年(昭和23)12月23日絞首刑に処せられた。
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    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
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  • 歴史の回想

    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。

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