セーフサーチ設定を変更しました
ページの先頭です
GWコイン大還元祭
期間限定!初めての予約購入で最大コイン+20%還元!

『ダイレクト出版、同人誌・個人出版、群像、配信予定を除く(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全117件

  • 佐久間象山(1881年~1864年)幕末の思想家。名は啓(ひらき)。通称は修理。象山は号。信濃国松代藩士佐津間国善の子として浄化に生まれる。幼少期から家老鎌原桐山から経学文章を、町田源左衛門から和算を学ぶ。18才で家督を継ぎ、1833年(天保4)江戸に出て佐藤一斉に師事し、1839年象山書院を開き、1841年江戸藩邸学問所で頭取となる、翌年藩主真田幸貫が海防掛老中に就任すると、海外事情の調査研究を命じられ、これを契機にこれまでの儒学(朱子学)を信奉してきた象山の思想的回転が始まる。象山はアヘン戦争(1840~1842)に強い衝撃を受け、伝統的華夷思想に安住してきた中国は西洋諸国が科学的技術の進歩の上に強国を実現したことを知らず、学問の実現・実用性を喪失したためにイギリスに敗れたととらえ、そして「彼を知る」ことで「己を知る」孫氏の兵法に倣い、日本が中国の轍を踏まないためには西洋の科学技術を積極的に摂取することが必要だと考えた。1842年西洋砲術を学ぶために江川太郎左衛門に入門、かた藩主あてに上書(海防八策)を提出した。さらに1844年(弘化元)からオランダ語を学び洋学研究に打ちこんだ。1851年(嘉永4)江戸木挽町に塾を開いて西洋砲術を教え、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門。西洋の学問に目覚め、それを通じて旧来の学問のあり方等直すという姿勢は、対外的に危機意識を抱いていた青年強い衝撃を与えた。1854年(安政元)松陰の密航事件に連座して蟄居を命じられ、松代で8年間を過ごす。1862年(文久2)書面となり、1864年(元治元)将軍後見職一橋慶喜の召命を受けて上京したが、公武合体と開国進取論をもって奔走中7月17日尊攘激派の志士に暗殺された。
  • 山中鹿助(山中幸盛)(1545年~1578年)戦国時代の武将。幼名甚次郎、元服して幸盛。鹿助は通称。幼年期は後世の伝記の記述しかなく、明らかではない・1563年(永禄6)毛利元就が白鹿城を包囲したとき、尼子方の救援部隊として出陣したが敗退。ついで富田城に籠城中の1565年、毛利方の品川大膳と富田川の中州で一騎打ちをして勝った。1566年11月から尼子氏が滅亡すると、京都東福寺の僧としていた尼子氏の遺児を還俗させて尼子勝久と名乗らせ擁立、尼子氏再興軍を組織した。1569年島根半島の千酌湾に上陸、新山城を奪取し尼子氏の遺臣を糾合、富田城の奪還を図ったが、1570年(天正5)羽柴秀吉の麾下にはいって上月城に籠り毛利氏と対陣するが、翌年毛利氏の大軍に包囲されて、大将尼子勝久が切腹して落城した。鹿助は松山城に送られる途中高梁川の河畔で殺された。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    源平合戦

    平清盛(1118年~1181年)平安後期の武将。最初の武家政権の樹立者。刑部卿平忠盛の嫡子、実は白河法皇院の落胤。母は白河法皇の身辺の女性で、懐妊後忠盛の妻として下賜され、1118年(元永元)1月18日に生まれたのが清盛である。これに関して母を祇園の女御もしくは彼女を妹とする伝承があるが、根拠がない。居館が六波羅にあり、武家として初めて太政大臣従1位に昇ったので、六波羅殿、六波羅入道・平相国・平禅門などと呼ばれた。清盛は祖父正盛・父忠盛が院の近習として、また院政の武力的支柱として政界に地歩を築いたのを受けて、発展させた。保元の乱では後白河天皇方として勝利に導いた、乱後は藤原通憲(信西)と組んで勢力を伸張。平治の乱では源義朝らを破り、その後は圧倒的な軍事力を背景に、中央の政局を左右する政治勢力に成長した。清盛は、二条天皇親政派と後白河上皇方の対立のなかを巧みに遊泳。1160年(永暦元)の参議正三位を手始めに急速な官位の昇進を果たした。1160年(仁安元)内大臣、翌年1167年2月には太政大臣に進み、平氏は後白河院を従属的に同盟しながら国家権力掌握した。清盛は同年2月に病により出家し家督を重盛に譲るが、以後摂津福原に有って影響力を行使し続けた。清盛室の妹慈子を母にする高倉天皇が即位し、1171年(承安元)には清盛の娘徳子が天皇の後宮に入り、平家は摂関家にも接近、清盛の娘盛子を近衛基実に嫁がせ、基実が早世すると摂関家領を事実上押し領した。治承年間(1177~1181)には鹿ケ谷事件、重盛の死後による没収などで、院と対立した。高倉天皇が譲位、徳子が産んだ安徳天皇が即位し、清盛はついに外祖父になった。1180年以仁王の挙兵以来源氏が挙兵すると、平家は福原に遷都し失敗し、平家の立て直し図ったが、2月には病に倒れ、4日に死去した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    源平合戦

    源義経(1159年1189年)平安後期から鎌倉初期の武将。源義朝の九子。幼名牛若丸。母は九条院雑仕、常盤御前。平治の乱(1159年)で父義朝が敗北し、母兄たちとともに捕らえらえてが、出家を条件で一命を救われ、洛北鞍馬寺に預けられた。成長して同寺を脱出して、水から元服して九郎義経と名乗り、平氏と一定の距離をとって奥州平泉藤綿秀衡に庇護を受けた。1180年(治承4)兄頼朝が関東で挙兵すると、わずかな手勢で平泉を発ち、黄瀬川の陣で頼朝と初めて対面する。1183年、兄範頼とともに頼朝の代官になって西上。1184年(元暦元)正月、先に上洛して畿内・西国を混乱に陥れていた源義仲を近江に討ち、ついに播磨国一の谷に陣をして平氏の鵯越の奇襲をもって大きな打撃を与えた。その後、頼朝の命で洛中治安にあたったが、頼朝の許可なく朝廷から検非違使・左衛門少尉の官を得たため、頼朝の怒りを買い、平氏追討使の任を解かれた。戦況の変化を受けて翌1185年(文治元)頼朝から再び平氏追討が命じられると、2月に讃岐国屋島に陣していた平氏の背後から追い落とし、3月には長門国壇ノ浦で安徳天皇を頂く平氏一族を全滅させた。戦後処理ののち上洛したが、義経の武将として器量を恐れた頼朝は、屋島奇襲以来の梶原景時ら御家人との確執が顕在化したのを機に、景時の讒言を受け入れる形で義経の武功を否定した。義経に捕らえられた平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したが、直前の腰越で鎌倉入りを拒否され、名高い「腰越状」も受け入れられず、失意のまま帰洛した。義経はその後転々とし1187年奥州藤原秀衡の下に辿りつぐが、頼朝は奥州藤原秀衡の下に義経追討を命じ、1189年義経は藤原泰衡の奇襲を受けて衣河館で自害した。
  • 南北朝時代

    新田義貞(1301年~1338年)鎌倉末から南北朝の武将。上野国。御家人。通称小太郎。父は朝氏。1333年(正慶2)本領新田壮世良田に駐屯する幕府微調税使紀親連を捕縛し、5月8日に討幕の挙兵をした。売却地に天役を賦課されたのが反逆の契機と思われるが、各地の反駁勢力に推されて22日に鎌倉幕府を滅亡させた。その後、足利尊氏派との権力争いに敗れて京都に移り、後醍醐天皇に接近して、建武政権下、越後守・播磨介・近衛中将・武者初頭人となり、天皇が寵愛した勾当内侍を下げ渡される。建武政権の崩壊後。後醍醐から反尊氏の総大将に仕立て上げられるが、1335年(建武2)箱根竹之下の戦、翌年1336年赤松攻めに湊川の戦、東寺合戦に悉く敗北。同年10月後醍醐が大館氏明・江田行義(新田一族)と謀って義貞を見捨てて京都足利尊氏と和睦をしようとしたため、事前に察知した義貞は洞院実世らと謀って比叡山山上で後醍醐を包囲。恒良親王にへの攘夷を迫り、実世、恒良親王らとともに北陸敦賀に去り態勢の挽回を図った。しかし翌1337年3月、本拠金崎城は足利勢に責められて落城し、恒良は捕縛され京都で毒殺された。義貞はその後、醍醐の南朝に復したらしいが一進一退の攻防のなかで1338年(暦応元)藤島の灯明寺畷で戦死した(藤島の戦)
  • 平安時代

    菅原道真(845年~903年)平安初期の公卿、文人。父は是善、母は伴氏。文章家として基礎を築いた祖父清公以来の菅家を名実ともに確立した人物。正室は父の門人である島田忠臣の娘宣来子。その子には高視、孫に文時、庶子として淳茂がある。11歳で初めて漢詩を詠んだのをはじめ、日夜学業に努め、859年(貞観元)に15歳で元服し。862年に文章生試に及第し、867年には方略試に中上で及第し、正六位上に叙せられた。その後、玄蕃助、少内記を経て、874年に従五位下となり、文人としては異例の栄達をした。ついで兵部・民部・式部各少輔を経て、877年(元慶元)文章博士となり、多くの願文を草して活躍した。藤原良房・基房父子とも親交がり、886年(仁和2)には国守として讃岐に赴任した。この間に起こった阿衡事件(888年)ではその調停に努力し、宇多天皇の信任を得たらしい。890年(寛平2)に平安京に帰任したが、翌年基経の死後に親政を行おうとする宇多天皇の下で蔵人頭となり。893年には参議兼式部大輔となった。この間「日本三大実録」の編纂にかかわり唐代に書かれた治政の書である「群書治要」の侍読にも加わった。また宇多天皇の命により六国史を記事内容・項目ごと編集した「類聚国史」春宮亮などを歴任し、894年8月に遣唐大使に任じられたが、翌月遣唐使の進止ついて議定書を奏言し、同月末に遣唐使は県の中止が決まった。翌年権中納言となり、民部卿を兼ね、長女衍子を入内させ、自ら正三位権大納言兼右大臣となったが、批判的な空気も強かったらしく、翌年には三善清行の右大臣辞任の勧めもあったが、901年(延喜元)には従二位に昇進した。しかしその直後、讒言により藤原時平の手で大宰府権師に左遷され、子息も各地に流され、903年失意のうちに大宰府で死んだ。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    茶道の哲人

    千利休(1522~1591)安土桃山時代の茶人、和泉国堺に生まれる。父の田中与兵衛(1540年没)は姓を千と改め、魚問屋を営み倉庫業も兼ねる納屋衆と呼ばれる豪商であった。堺の開口神社蔵「念仏差帳日記」天文4年(1535)4月28日付けの「念仏寺築地塀修理帳」に「今市町、与四郎殿」とある。利休は当時14歳で、与四郎が通称であったが、24歳頃剃髪して宗易と号した。17歳で北向道陳に、ついでその引き合わせで武野紹鴎に茶の湯を学んだ。その修得の課程で大徳寺大林宗镸に参じたとされる。35歳で師の紹鴎と死別するが、師が利休に書き与えた「紹鴎侘の文」両者の交流を伝える。そして利休が完成した。侘茶を理論化した「南方録」にも具体的に紹鴎と利休の関係が述べらえている。堺の豪商を背景として成立する茶の湯は勃興する在地武士団と軍需品の取引を含む経済活動を絡めている。利休も1568年(永禄11)入洛した織田信長との連携を強めてその茶頭となり、次の豊臣政権下では諸大名に対する秀吉との仲介役の役割を果たした。1587年の北野台茶会など秀吉の茶の湯興行で大きな役割を果たした。このことを通じて利休が政権内の地歩を得たことは茶の湯文化の全国的な浸透に決定的な効果をもたらした。そかし、秀吉政権下大陸への武力侵攻を企策し、経済的支援を博多商人に求めるようになり。利休を代表とする堺の地盤が低下していった。1591年(天正19)正月、豊臣秀長の病死をきっかけで利休の処罰が表面化し、2月13日堺に蟄居命じられた。再び上洛した利休は2月28日に聚楽第で自刃した。秀吉による利休賜死の理由は、その2年前に大徳寺山門に自分の木像を掲げたことなどが理由と思われているが、結果的に石田三成派に政策抗争に敗れたことにある思われている説もある。いずれにせよ明白な理由は解っていない。
  • 平安摂関家

    藤原道長(966年~1027年)平安中期の公卿。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫。道隆・道兼・超子は同母の兄弟姉妹。980年(天元3)15歳で従五位下となり、侍従・少納言・左近衛少将等を歴任。986年(寛和2)一条天皇が即位し、父兼家が摂政になると善く987年(永延元)には三階を超えて非参議院従三位右京大夫となった。この年左大臣源雅信の女倫子と結婚し、翌年には彰子が生まれ、自身も参議を経ず直ちに権中納言となる。990年(正暦元)に父兼家が没するが、翌年には従二位となった。995年(長徳元)には疫病が流行し、4月には長兄道隆が就任10日余りで没した。後継を廻り道隆の子伊周と対立したが、道長は内乱の宣旨を受け、ついで右大臣・氏長者となった。翌年には伊周・隆家が従者に花山法王を弓で射させるという事件、東三条院詮子呪詛事件、太元帥法手法密告事件を契機に伊周を7太宰府権師に、隆家を出雲権守に左遷した(長徳の変)。このような関白・内覧の地位をめぐる甥伊周・隆家らと厳しい対立の中で道長が勝利を収めることができたのは、姉であり天皇生母でもある東三条院詮子の意図によるものが大きい。伊周らの中関白家を衰退させ7月には左大臣になり、内覧と太政官機構の首班の地位を維持した。道長を庇護した詮子は1001年(兆保3)に没するが、それより先に、999年にはすでに道隆の女定子が中宮であったにもかかわらず、女彰子を一条天皇の後宮に入れ、翌年には勅命により中宮を立て、1008年(寛弘5)に敦成親王が誕生して外戚しての地位を確立した。1011年に居貞親王が即位すると、関白への就任を固辞し、内覧の宣旨を受けたが、三条天皇とはしばしば確執が生じた。その後摂政を子の頼通に譲り、太政大臣に就任。以後天皇の外戚として権力を欲しいままにして盤石にし、1027年(万寿4)自ら建立した法成寺で生涯を閉じた。道長は仏教への庇護者として寺院の建立と供養・法要、法華三十講などを行われた。
  • 鎌倉時代

    和田義盛(1147年~1213年)鎌倉前期の武将。相模国の三浦大介義明の孫で、椙本義宗の子。1180年(治承4)の源頼朝の挙兵を助け、侍所別当に任じられて、御家人統制にあたった。1184年(元暦元)平氏追討、1189年(文治5)奥州合戦に従軍、1190年(建久元)勲功賞として左衛門尉に任じられた。義盛は武勇に優れたが愚直で後に侍所所司梶原景時に別当の地位を奪われた。1199年(正治元)頼朝が没し、頼家は後を継ぐと、北条政子は頼家の訴訟親裁を停め、13人の合議制によることにしたが、義盛もその中に加えられた。同年、御家人らが梶原景時を排除した際、義盛はその中心になって景時を追放、別当の地位を奪回した。1203年(建仁3)頼家から北条時政追討を命じられたが、逆に時政に味方し、頼家を退けるのに貢献した。しかし北条氏との対立はしだいに強まり、1213年(建保元)北条義時に挑発され挙兵し、一族とともに滅ぼされた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    平治の乱

    「源義朝」(1123年~1160年)平安後期の武将。源為義の嫡男。「保元物語」に父為義の言として「義朝こそ坂東育ちの者にて、武勇のみちにたけて候へ」とある。1145年(久安元)官宣旨案「天養記」のなかに「上総曹司を伝える得る」とみえ、従者1,000騎を率いて相模国大庭御厨に乱入、また同じ頃、下総国相馬御厨を伊勢神宮領に寄進しようとした千葉氏に圧力をかけており、幼少より関東育ち、鎌倉の館を占拠して東国で武士を統合していたと考えられる。こうして、東国で武士を統合した義朝は1153年(任平3)東国経営を長子義平に任せて上洛し、父為義を超える従五位下・下野守に任官する。1156年(保元元)の保元の乱では、東国武士を結集し、平清盛とともに後白河天皇方について、父為義の属する崇徳上皇方について、その功で右馬権頭となり、昇段が許された。乱後の朝廷内複雑な権力闘争のなかでは、院近臣藤原信頼に接近して、清盛と対立し、1159年(平治元)には平治の乱を起こし、後白河上皇を幽閉するが、清盛との戦いに敗れ、関東に逃走中に尾張国内海荘で、同荘司で郎従の長田忠致の寝返りにあって謀殺された。
  • 鎌倉時代の武将

    畠山重忠(1164年~1205年)鎌倉前期の御家人。父は畠山重能、母は三浦義明の女。武蔵野国男衾郡畠山荘をを本拠とする。畠山庄司次郎と称した。源頼朝挙兵の当初は、頼朝軍に敵対して三浦氏を攻撃したが、後に服属、平氏追討に功があった。同国菅谷に居館を構え、頼朝より武蔵国留守居守所検校職を任じられなど、武蔵を代表する武士であった。北条時政の女との間に重保が生まれている。1205年(元久2)時政の調略により謀反の嫌疑をかけられ、武蔵国二俣川で幕府軍と戦い、敗れ戦死した。公正無私にして武勇に優れた鎌倉武士の典型とされ、数々の器が残されている。
  • 室町時代

    北条義時(1163年~71224年)鎌倉幕府。二代執権1205年(元久2)~1224年(元仁元)在職。父は北条時政、母は伊東祐親の妹。江馬小四郎と称す。1180年(治承4)8月、源頼朝の挙兵に参加。石橋山の戦で兄宗時戦死して、嫡子の地位を得る。1184年(元暦元)源範頼軍に従って西国に遠征、翌年正月豊後国芦谷浦の合戦で功を頼朝から賞された。1189年(文治5)奥州合戦に従軍。この頃より頼朝の信任を得、頼朝の死後1199年(正治元)十三人宿老会議の一員となる。1203年(建仁3)9月比企氏の乱では幕府軍を指揮し、直後に仁田忠常を追討する。1205年(元久2)には父の命で畠山忠重を滅ぼしたが、7月には継母牧の方の陰謀を未然に防ぎ、姉政子とともに父夫妻を伊豆に流して執権に就任した。執権政治を強化し大豪族抑圧政策をとり、1213年(建保元)には泉親衡の乱に続き和田義盛の乱を招いたが、これに勝利し侍所別当を兼任。従四位下右京権大夫から陸奥守となる。1219年(承久元)正月第三代将軍実朝を暗殺の黒幕とする説もある。その後頼朝政治を墨守して後鳥羽上皇と対立し承久の乱を招くが、これも圧勝し京都に六波羅探題を設置し、幕府の管理下に置き、全国的政権となった。
  • 平安末期

    藤原頼長(1120年~1156年)平安後期の公卿。関白藤原盛実の次男。母は忠実の養子となる。異母兄忠通の養子となる。1130年(大字)元服にあたって正五位下に叙せられ、翌年従三位、以降中納言、権大納言と進み、1136年(保延2)にわずか17歳で内大臣となる。1147年(久安3)左大臣有仁の死後、一上の宣旨を賜わり、蔵人所別当となるや、外記日記・殿上日記の筆録を督励し、上月月奏官人の出勤日数を天皇に上奏する、励行・官政などの朝議の復興に尽力を尽くした。1149年に左大臣となり、翌年天皇の外戚の地位を目指して近衛天皇に養女の多子を入内させた。頼長の博覧と公事に精励する姿に、摂関家の将来を期待した父忠実は、多子立后を終えると、兄忠通に頼長へ摂政を譲るように説得した。しかし忠通はこれを拒否したため、忠実は忠通を義絶氏長者の地位を取り上げて頼長に与えた。1151年(仁平元)に鳥羽法皇に奏上して、頼長に内乱の宣旨を蒙らせた。このた、摂政から関白に転じた忠通と内覧・氏長者の頼長との対立は激しさを増した。頼長は「なにごともいみじくきびしい人」という異名を持っていたという。そのためか鳥羽上皇もしだいに彼を「ウトミ思い召し」になった。1156年(久寿2)に近衛天皇が没すると、これが忠実・頼長の呪詛によると噂が流れ、法王の信頼を失って失脚、宇治に籠居を余儀なくされた。1156年(保元元)に鳥羽法皇が没すると後白河天皇、忠実らの挑発によって、崇徳上皇とともに挙兵に追い詰められた。頼長は奇襲あるいは東国へ下向を主張する源為義の意見を退けて、大和の武士や興福寺の悪僧信実・玄実らの到着待つうちに拠点とした白河北殿を天の方に急襲されて敗北。頼長は乱戦の流れ矢で重症負い、奈良に引きこもる父を訪ね面会を求めたが拒絶されその地で絶命した。
  • 室町から戦国時代

    足利義輝(1536年~1565年)室町幕府13代将軍。1546年(天文15年~1565年(永禄8年)在職。初名吉藤。法号光源院。12代将軍足利義晴の子。近江亡命中に1546年将軍となる。細川晴元、六角定頼らの支援を受けて三好長慶と対立しなが、入京と近江亡命を繰り返した。1558年(永禄元)以降、京都にとどまり、将軍権力の復興に力を尽くした。長慶没後、その自立性行動が警戒され、1565年5月19日、三好三人衆・松永秀久らによって、京都上京の将軍邸で暗殺されるが、弟鹿苑寺周高茂殺されるが末弟一条院覚慶足利義昭は逃亡した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    天下布武

    源頼朝(1147年建久3年・~1199年)在職。源義朝の三男。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の女。1158年(保元3)初めて皇后権少進に任官する。藤原信頼と義朝が結んで、藤原通憲(信西)・平清盛に対決した平治の乱で初陣。乱では当初清盛不在の虚を衝いて信西を討った信頼方が優勢であったが、後白河天皇が熊野参詣から戻った清盛方についたことによって形成は逆転。義朝一党は、再起を期して東国に逃れようとしたが失敗し、途中で義朝とはぐれた頼朝は美濃で平氏方捕らわれ京都に送られた。本来なら斬られるべきところを、伊豆に流罪になったが、これが清盛の義母池禅尼の口添えによるものと伝えらえる。伊豆で流人生活を送る間に、現地の豪族北条時政の女(北条政子)と結婚。1180年(治承4)後白河法皇の皇子以仁王が平氏打倒の令旨が伝えらえた。これを呼応を促す形で頼朝も8月に挙兵した。初戦に伊豆の目代にあった山木判官兼隆を討ったのち石橋山の戦いに敗れて、逃れて安房国へ渡り、下総の千葉常胤や上総介平広常らの援助を得て東国の武士たちに糾合し、10月源氏源氏ゆかりに居を構えた。その後、頼朝追討のために大軍で東下した平維盛軍沿いを富士川の戦で退けたが、そのまま上洛をする道を選ばず常陸国の佐竹氏を討ち、上野・下野の兵力を従えるなど、基盤としての東国を固める。1183年(寿永2)7月、平氏の都落ちと入れ替わって境に入った木曾義仲が平氏追討に手間取り、後白河はじめ院の近臣勢力とも融和できずにいるのを知った頼朝は、後白河に接近し宣旨を得て、東国支配権を承認された。これに起こった義仲は後白河に対する実力行使に及ぶと、弟の源範頼にと義経を代官として派遣し義仲を排除した。さらに範頼・義経には西国から摂津まで失地を回復しつつあった平氏軍を攻撃を命じ、一の谷の戦で勝利する。その後、平家没官領を手中に収め、門注所・公文所を設置する等東国経営のここを割いた。
  • 鎌倉時代

    梶原景時(?~1200年)鎌倉前期の武士。父は鎌倉景清。通称平三。1180年(治承4)の石橋山の戦で平氏方に属しながら源頼朝を救い、再起した頼朝に従臣。翌年侍所所司となる。1183年(寿永2)頼朝の命を受けて上総御権介平広常を謀殺。1184年(元暦元)源義経らと上洛し源義仲を討ち、平氏追討ののための西海を転戦、播磨・美作総追補使に任じられた。1185年(文治元)屋島攻撃の際義経と対立し、頼朝に讒訴して失脚させた。弁舌巧みで京都的教養を持つ景時は頼朝に重用され、御家人統制にあたったが、官僚的性格と憲性欲から御家人の反感を買った。1199年(正治元)頼朝の没後組織された「十三人宿老会議」の構成員になり、御家人六十六人から弾劾を受けて失脚、1200年正月再起を期して上洛の途中駿河国狐埼で在地武士とかっせんし一族とともに敗死した。
  • 鎌倉時代

    北条政子(1157年~1225年)北条時政の女。源頼朝の正室。頼家、実朝、大姫、乙姫の母。尼子台所、禅定三品、二品禅尼などと呼ばれている。21歳の時、伊豆配流中であった31歳の源頼朝と婚姻、この頃劇的な恋のさまは、後の白拍子静御前の舞を見たとき、自分も父の反対を押し切って闇夜、深雨をものともせずに頼朝と結ばれた回想が述べられている。1180年(治承4)頼朝の挙兵の2か月後鎌倉に入り、1182年(寿永元)頼家、1192年(建久3)実朝を生ん。御台所時代には、頼朝の留守中の家を守る役割を果たし、将軍頼朝と御台所による種軍家を形づくることに成功した。1199(世治元)寄りとが死ぬと出家し。頼家・実朝が将軍時代にも、氣比氏の乱、牧氏の変などを重要な裁決を行い、内乱を未然に防ぐことが数度に及んだ。その過程で政子で政子が重視したのが、将軍職独裁ではなく、重臣の合議制を拠りつつ政治の採決を重事似ついてい行っている。実朝が頼家の遺小公暁に殺され、源家の嫡子断絶という事態を抑えつつ、ついで承久の乱が起こるに及んで、幕府危機存亡の時に招来された。このことき政子は御家人たちを頼朝遺体の御恩を大きさを解く演説をなし、御家人たちの心を一つにまとめ、派遣軍の進め方について裁可した。実朝死後、、政子は関東の棟梁として位置にあった。乱後の論功行賞も政子が行った。ついで幕府の基礎の形づくった新補地頭の設置と、その制度の基礎固めに努めた。1224年(元仁元)政子を支えてきた弟北条義時の死後、義時の後室、伊賀朝光の娘の女の兄伊賀光宗らが幕府の実権を握ろうとした伊賀氏の変をも処理し終えて、1225年(嘉禄元)7月、69歳の生涯を閉じた。
  • 室町時代

    赤松政則(1455年~1499年)室町時代後期の武将。播磨・備前・美作の守護。赤松満祐の弟で時勝の子。嘉吉の乱で赤松惣領家は滅亡したが、1458年(長禄2)赤松氏の遺品がが南朝から神璽を奪還した功もより、赤松家再興が許され、家督を相続。加賀半国守護となる。1465年(寛正)元服。将軍足利義政より名前の一字を受けて政則と名乗る。応仁・文明の乱では妻の父細川勝元の東軍に属し、赤松氏の旧領播磨・備前・美作3か国の守護職を回復・1477年(文明9)に侍所頭人となる。将軍義政・義尚に重用され、義材の六角氏攻撃には軍奉行となる。
  • 応仁の乱

    山名宗全(持豊)(1404年~1473年)室町中期の武将。幕府侍所頭人。但馬等の守護。法名宗全。官途は左衛門佐・右衛門督・弾正少弼。山名時煕の次男。1431年(永享3)兄持煕が将軍足利義教の勘気に触れて廃嫡されたあと、1433年父から家督を譲られる。但馬・備後・安芸・伊賀の4か国の守護に就任、1435年父の死により山名氏一族の惣領を継ぐ。1440年6月以前に侍所頭人と山城守護になり、1441年(嘉吉元)7月頃まで在任。同年嘉吉の乱では搦め手軍の総大将として播磨に進撃し、赤松満祐を自刃させた。この功により赤松氏の旧領国播磨は持豊に、備前・美作も山名一族に与えらえた。山名氏併せて9か国の守護となって管領家細川一族の8か国を凌ぐに至った。その後持豊の娘を細川勝元の室とし、細川氏と提携してきた。1450年(享徳3)赤松則尚が勝元らを頼って赦免されたことに強く反発したため、将軍足利義教から追放されようとしたが、持豊が隠居家督を嫡子教豊に譲って事なきを得た。しかし1458年(長禄2)赤松政則が同じく勝元に頼ってきて赦免されるに至って、持豊と勝元の対立が決定的になった。伊勢貞親と季瓊真蘂が足利義視暗殺を図った文正の政変ではなお両者は同調したが、畠山・斯波家の家督争い勝元に対抗できる畠山義就・斯波義康を引き立てた、将軍家の後継争いでも足利義尚を支持したことから、ついに応仁文明の乱に突入した。開戦当初、持豊を総師とする西軍は押され気味であったが、大内政弘のらの参戦で盛り返し東西対抗でや義視や南朝の後胤を西軍迎えたり名分をとした、しかし戦線は膠着状態に入り、1472年(文明4)持豊から康和を提案したものの実現を見ないまま翌年3月18日に持豊は京都の陣中で没した。
  • 戦国時代

    北条氏政(1538年~1590年)戦国・安土桃山時代の武将。戦国大名北条氏第四当主。父は北条氏康。母は今川氏親の娘。通称新九郎、左京大夫、隠居後は相模守。北条・武田・今川氏も三国同盟の一環として、1554年(天文23)に、武田晴信の娘と結婚。1559年(永禄2)に家督を継ぐ。翌年徳政令を発して年貢減免を実施するなど、民政の安定に努めた。また、1561年の上杉景虎の侵攻を契機に、関東諸国の平定に取り掛かり、まず、下総国国府台で里見氏を破り、引き続き岩付城の太田氏や上野国由良氏や北条氏など屈服させ、支城体制を整えた。上杉氏との同盟後は、武田氏との抗争となり、三増峠での敗戦などを経験、そのために家臣にたいする軍役改定や郷村に対して農民徴発令を出し、軍事力を強化した。また検地の実施や、段銭徴収の増額など領国経営にも精を出した。1580年(天正8)に家督を嫡子氏直に譲った後も政務を後見し、それがため豊臣秀吉の小田原攻めによる開城の際は自刃した。当主在任中虎朱印状と400通余と、隠居後の使用した印文「有効」印判状及び判もの、書状など500通の発給文書が知られている。」
  • 戦国時代

    筒井順敬(1549年~1584年9安土桃山時代の大名。大和国郡山城主。興福寺の官符衆徒。陽舜房順慶と称した。幼くして家を継ぐが、松永久秀によって居城筒井城を追われ、以後も久秀と抗争に明け暮れる。久秀ははじめ織田信長に降伏したが、1571年(元亀2)謀反したため、順慶が久秀追討に起用された。1576年(天正4)信長から大和一国の支配を任され、主に明智光秀の配下の武将として活躍。やがて郡山に築城した。信長が本能寺で横死した際には微妙な立場で苦悩の局面だった。山崎の戦では郡山城に籠って動かなかった。「順慶の洞が峠」の嘲笑を受けることになった。以後羽柴秀吉の有力武将として各戦場を転戦し活躍した。関原の合戦後は筒井騒動の余波でで筒井家は衰退していった。謡曲や茶の湯の名手武将として著名で、井戸茶碗「筒井筒」をはじめ、元は順慶の所持で今も伝わる名品が多い。
  • 戦国時代

    「長宗我部元親」(1538年~1599年)四国の戦国大名。長宗我部氏。1560年(永禄3)父国親の死後に家督を継ぐ。長岡郡岡豊上に本拠を置く、土佐東部の安芸氏や西部の一条氏ら諸氏を相次いで撃破して、1575年(天正3)に土佐統一を成し遂げた。さらに阿波・讃岐の制圧うを果たし、伊予の東部・南部にも勢力を伸ばしたが、1585年に豊臣秀吉が四国平定に乗り出すと、講和を結んで、土佐一国の領有を認められた。こののち元親は、豊臣政権下で九州平定、小田原攻め、文禄・慶長の役と転戦を続けた。元親は内政にも力を注ぎ、各種の法令を制定したが、とくに広く領民まで対象にそれらを集大成した「長宗我部百か条」は分国法として有名である。また、太閤検地の一環として土佐全土の検地を実施し、368冊に及ぶ「長宗我部地検帳」を残した。1599年(慶長4)5月に伏見で死去し、遺骨は土佐に送られて長浜で葬られた。
  • 戦国時代

    武田勝頼(1546)年~1582年)甲斐・信濃・駿河の戦国大名。武田信玄の四男として生まれる。幼名は伊奈四郎。母は諏訪頼重の女。信玄は当初勝頼に諏訪惣領家を継がせようと思っていた。「甲陽軍鑑」によれば、1562年(永禄5)勝頼を伊奈郡代・高遠城主としている。のち兄義信の幽閉・自刃によって、信玄後継者として遇され、信長の養女と結婚、1571年(元亀2)には高遠から甲府に戻り、1571年(天正元)の信玄の死によって家督を継いだ。しかしその後織田信長・徳川家康と対立、1575年の三河長篠の戦いで大敗を喫しした後は次第に領国を縮小させていった。1582年、離反した木曾義昌救援に赴いた信長勢に責められて、天目山麓の田野で、妻(北条氏康の女)とともに自害し、武田氏は滅亡した。
  • 戦国時代

    朝倉義景(1533年~1573年)越前の戦国大名、朝倉氏5代当主。孝景の長男、1548年(天文17年)に家督を継ぐ。延景と称したが、1552年に将軍足利義輝の一字を受けて改名。左衛門督。加賀一向一揆を攻撃してい、若狭の武田氏に支援の派兵している。他方では1561年(永禄4)に武威を誇示する大掛かりな犬追い物を催し、翌年には一乗谷に下向した元関白近衛尚通の子で大覚寺義俊を招いて曲水宴を開くなど、華美で文人風の儀礼を好んだ。1568年、前年に義景を頼って下向した足利義秋(義昭)の元服の役を務めている。この頃から本願寺とは和睦して織田信長と対立し、1573年(天正元)8月に近江で信長軍の追撃を受けて、越前大野に落ち延びたが、同月20日に自刃した。
  • 戦国時代

    豊臣秀次(1568年~1595年)安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥。通称孫七郎。父は三好吉房、母は秀吉の母の姉。1584年(天正12)小牧・長久手の戦に出陣し、敗れて有力家臣を失い、秀吉に叱咤された。しかし、翌年秀吉から近江に43万石の領知と山内一豊以下4名の宿老を付与され、八幡山に城を築いた。1590年秀吉の東国平定に際しては尾張清洲城に入り、宿老たちは東海道の要所に進出、豊臣政権の対東国最前線に配置された。実子に恵まれなかった秀吉が関白になると、羽柴秀長らとともに昇殿、1586年の右近衛中将から中納言、内大臣、左大臣と昇進。1591年には関白職を譲られ、後継者の地位についた。1593年(文禄2)秀頼が生まれると、実情は一変し、太閤として実権を握る秀吉と関白秀次権力との間に矛盾が表面化し、尾張の蔵入り地に太閤奉行衆の介入を受けるに至った。秀次に日本国の五分の四を与えるとか、秀次の娘と婚約など秀吉側から提案されたが、実現しないまま、1595年7月に謀反の罪で高野山に追放され、切腹させられた。妻子妾子女30余名も三条河原で悉く斬られた。秀次は調停に書籍を献上し、能の謠本百番の注釈など、作らせるなど、伝統文化の保存と継承した貢献した側面があった。正親町上皇の諒闇中に狩猟を行う軽率な性格があり、こうした結果を招いたといわれている。
  • 戦国時代

    「島津義久」(1533年~1611年)戦国大名、島津家16代、島津隆久の長男。幼名虎寿丸、通称又三郎、はじめ忠良。1552年(天文21)将軍足利義輝より諱を賜り義辰と称し、後に義久に改名。1566年(永禄9)家督を継ぐ。1577年(天正5)伊東義祐を破り、薩摩・大隅・日向を統一。1585年弟義弘を守護代として九州統一を進めたが、豊臣秀吉の九州平定にあい、1587年5月、剃髪して竜伯と号し降伏した。関ヶ原の戦後、徳川方と折衝し、1602年(慶長7)4月家康より薩摩・大隅・日向緒県郡の本領を安堵された。
  • 戦国時代

    武田信玄(1521年1573年)甲斐の戦国大名。武田信虎の長男。通称は太郎。名は将軍足利義晴の偏諱をうけて武田晴信、出家して信玄と号した。官途受領は、大膳大夫、信濃守。はじめ扇谷上杉朝興の女としたが早世したため、1536年(天文5)京都の公家三条公頼の女を性質に迎えた。1541年6月、父武田信虎が今が義元に嫁いだ自分の女に会いに行ったとき、甲斐・駿河の国境を閉鎖し父を追放自ら武田氏を継いだ。その翌年には信濃を侵略して諏訪頼重を攻め、偽って講和したうえで頼重を殺害した。その後、頼重の女を側室に迎え、この側室との間に後に家督を継ぐ武田勝頼が生まれている。1547年「甲州法度之次第」26か条を制定して領国支配の規範としたが翌年2月14日、信濃上田原戦いで村上義清と戦って敗れ、かつて、同じ年、塩尻峠・勝弦峠の戦で小笠原長時を破り、信濃進出を確実なものにした。越後の上杉謙信とは前後5回戦い、同時に背後の安全を保つため、相模の北条氏康と同盟を結び、女を氏康に嫁がせている。1561年(永禄4)の第4次川中島の戦が、5回の中で一番厳しい戦いとなり、信玄の弟信繁が討ち死に。そのあと、信玄は「北進策」をあきらめ「南進策」転じ、駿河の今中氏真を攻略、その過程で、氏真の妹をめとっていた嫡男義信を自刃に追い込んだ。1568年、駿河を奪取、ついて遠江に進出して徳川家康と敵対する石山本願寺と結んで天下統一を進める信長に対する包囲網を強めていった。1572年(元亀元)2万5000の大軍を率いて遠江に侵入三方ヶ原で家康を破り、さらに西に進んで病が悪化し、翌年甲斐に兵を戻す途中、信濃の駒場で没した。死因はこれまでは労咳、すなわち肺炎(結核)とされてきたが、最近の研究では胃がんとする説が有力である。
  • 戦国時代

    細川忠興(1563年~1645年)安土桃山時代から江戸時代の初期。初代小倉城主。細川藤孝(優斎)の長子。足利義輝の命により細川輝経の養子になる。幼名熊千代のち与一郎。織田信長の雑賀一揆討伐が初陣。信長の嫡子信忠より一字を与えられ忠興と名乗った。明智光秀の娘玉子を妻に迎え、1580年(天正8)重なる軍功で丹後半島12万石を与えらえた。11582年本能寺の変に際し光秀に誘われたがくもせず、秀吉についた。1585年羽柴の姓を許され、1592年(文禄元)朝鮮に出陣、1596年(慶長元)参議従三位に昇進し越中守になる。秀吉の死後徳川家康に属し、1600年三男忠利を人質に江戸に送った。同年関ヶ原の功により豊前一国、豊後のうち国東・速見2群30万石に封じられて中津城に入り、1602年小倉城に移った。1615年(元和元)大坂の陣の出陣、羽柴姓から細川姓に復した三斎宗立と号し中津城に移った。1632年(寛永9)忠利の肥後熊本城に転封により四男細川立充を伴って八代城に入り隠居領3万石をもった。立充の子行孝は忠興の死後翌年支藩宇土藩を創設して忠興の遺領を伝えた。秀吉の下では武将派に上げらえたが、茶の湯、和歌、有職故実に通じた文化人であった。
  • 戦国時代

    「藤堂高虎」(1556年~163年)近世大名。藤堂氏初代。高虎の次男、母は多賀氏。幼名右与吉、通称楊衛門。近江国犬上郡藤堂村を本貫とする。はじめは浅井氏に仕え、同氏滅亡後は織田信長に属し、後に大和郡山城主の豊臣秀長の重臣となる。秀長の下で山奉行として活躍し、彼の没後は豊臣秀吉に仕え伊予7万石、関ケ原では徳川家康に属して同国今治20万石、1608年(慶長13年)には伊賀一国・中部伊勢22万950石を領有する(津藩)大坂の陣で恩賞として1615年(元和元)に5万石を、さらに1617年には5万3000石を加増された。大坂城包囲のために築城(天下普請)を中心的に関与した。また東照宮の造営や徳川秀忠娘東福門院の入内などにも尽力した。
  • 戦国時代

    大谷吉継(1559年~1600年)安土桃山時代の武将。越前国敦賀城主。豊臣秀吉に仕え、1586年(天正14年)九州平定に際し扶持方渡奉行を務める。1589年敦賀に入部、はじめ敦賀郡の2万石ほどだったらしい。1590年小田原攻めに従い、浅野長政や石田三成と検地奉行を務めた。同年末、越前国南条・丹生・今立3郡内の63村、2万6944石を加増された。敦賀の町を整備し、伏見城のいわゆる「太閤板」(北前船で運ばれた普請用の秋田杉の板)の運送を宰領。文禄の役では朝鮮に出兵し、増田長盛、三成とともに三奉行と称された。明との交渉にもあたった。1598年(慶長3年)太閤検地ののち3000石加増され、5万国となった。関ヶ原の戦いに三成に与して敗死。
  • 戦国時代

    前田利家(1538年~1599年)織田信長取り立て大名で加賀藩藩祖。尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春の四男。幼少より信長に仕え、軍功を上げ赤母衣衆に列し、1575年(天正3)柴田勝家の越前一国拝領の際、府中三人衆の一人として武生府中城に入った。加賀一向一揆の壊滅後は、1581年、能登一国を拝領し七尾小丸山城に移り、越後上杉の戦いに従事した。本能寺の変で信長が倒れたあと、柴田勝家と行動を共にしたが1583年の賤ケ岳の戦いの最中、秀吉に寝返り、北加賀2群を加増され金沢城に移り秀吉政権を支えた。1585年の秀吉の越中出兵に出陣、佐々成正を富山城を破り、翌年上洛し従四位下筑前守となる。1590年の小田原攻めにも従軍し伊達氏・南部氏の意向を秀吉に取り次いだ。1592年(文禄元)の文禄の役では肥前名護屋城在陣し、秀吉渡海の諫止、過書発給の明の講和使節応接などを徳川家康とともに行う。その後、秀頼の傅役となり五大老の第二の実力者として秀吉に仕えた。1596年(慶長元)秀吉父子の参内に供奉し、従二位権大納言に昇進、1598年退老し利長に家督譲ったが、秀吉の死後大坂城に入り、秀頼の後見人として徳川家康の専横を譴責する等豊臣政権を支えた。
  • 応仁の乱

    細川政元(1466年~1507年)室町後期の武将。幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護。細川勝元の長子。幼名聡明丸・通称九丸。官途は右京太夫・武蔵守。1486年(文明18年)と1487年(長享元)1490年(延徳2年)短期間管領を務め、1494年(明応3)からは管領職を独占した。1493年将軍足利義稙うぃ廃立し、足利義澄宇を将軍とした(明応の政変)その後、幕府内では専権を振るったが、政元の後継者を廻って2人の養子、澄之(関白九条政基の子)澄元(阿波守護細川義春の子)の間で家臣が分裂して抗争にし、阿波の三好之長の後見を得たので澄元の勢力拡大を恐れる澄之の家臣に殺された。
  • 戦国時代

    蜂須賀小六〈正勝〉(1526年~1586年)戦国の武将。幼名小六、のちに彦右衛門尉。尾張国海東郡蜂須賀の土豪蜂須賀正利(1504年~1553年)の子に生まれる。美濃の斎藤道山、ついで尾張の織田信賢・信清に仕え、のちに信長に従い桶狭間の戦に参戦。1564年(永禄7)豊臣秀吉に従い美濃攻めに参加、墨俣築城に功を立てて以降秀吉に直臣として近江、越前、播磨、中国筋に転戦した。播磨龍野の城主として5万3000石を拝領。1582年(天正10)備中高松攻めに尽力した。山崎の戦い、賤が嶽の戦に功あり。秀吉より大阪在住料として5000石加増1585年。四国平定の功により阿波を与えられるが辞退し、子の家政にが代わって阿波国一国を封ぜられた。翌年、大坂の邸にて没する。
  • 戦国時代

    大内義弘(1356年~1399年)南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。
  • 戦国時代

    最上義光(1546年~1614年)戦国末期から近世初期の大名。出羽守。出羽国山形の生まれ。父は最上義守。祖父の代から弱体化していた一族・国人に対する統制を強化し、1584年(天正12年)頃までに山形盆地を中心とする内陸部最上川流域を制圧し、同川河口の庄内地方に進出しようととして同地方武藤氏と、ついで同地方に進出を狙う越後上杉氏と対立。1590年、徳川家康の仲介により豊臣秀吉に服属したが秀吉の裁定は庄内は上杉に与えられた。関ヶ原の戦いでは上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。上杉軍が退却すると最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、谷地城(西村山郡河北町)に籠る尾浦城主下秀久を下した。上杉氏が和平交渉へ向けて動いている間に、下秀久を先手として庄内地方に進攻し短期間のうちに十五里ヶ原の戦いで失った旧領の奪還に成功した。義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。江戸時代には徐々に衰退し、義満没後には「最上騒動」を起こし石高を1万石から5,000石に減らされ、最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。
  • 戦国時代

    浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。
  • 戦国時代

    蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の佐々木成政攻撃に従軍した。1586年侍従、1587年の急襲攻めで軍勲をあげ羽柴姓賜る。1588年正四位下左近少将となり松坂城に移る。1590年小田原攻めの後会津黒川42万石の転封、1592年(文禄元)若松と改め城下町を整備を進めた。同年文禄の役には肥前名護屋城に出陣した。なお、早くから洗礼を受けて、天正年中ローマに施設を派遣したという説もある。
  • 戦国時代

    石田三成(1560年~1600年)安土桃山時代の武将。近江国坂田郡石田村に生まれる。父は佐々木京極氏の被官の隠岐守正継、兄は正澄。幼名は佐吉、初名は三也。単会木簡攫」は幼少時寺院に属したと伝える。秀吉への献茶は有名。近江長浜城主であった。羽柴秀吉に認められ近侍する。秀吉の中国攻め、山崎の合戦に従い、賤ケ岳の戦いで活躍する。1585年(天正13)秀吉が関白に就任した際、緒大夫12人の一人として従五位下治部少輔に叙任された。その後堺奉行となり、1587年の九州攻めや1590年の小田原攻め、および奥羽州攻めでは兵站の確保などに手腕を発揮し、同年に佐和山城主となった。領地は近江国犬上・坂田・浅井・伊香4群に18万国(一説に19万4000石)を与えらえた。さらに、坂田・犬上郡内の秀吉直轄領3万7000石余の代官も兼ねた。吏務に長じた三成は、1584年の近江検地をはじめとして九州・関東・奥羽諸国の検地を担当した。また、所領支配にも意を用いた。1596年(文禄5)3月1日に領内に通達した民政に留意した掟書きは著名である。1592年(文禄元)に朝鮮出兵が始まると船奉行に任じられて肥前名護屋に駐留しその後朝鮮に渡って明軍と戦い、壊し説を伴って帰国した。秀次切腹事件後、五奉行の一員と成。一五九八年(慶長3)秀吉が没したのち、有力大名間の抗争が激化、三成は徳川家康に反対する立場をとるが、同年3月には加藤清正、黒田長政らの武闘派に追われて一時、家康に頼る一幕もあった。1600年大谷吉継、安国寺恵瓊らと、毛利輝元を盟主に家康に挙兵をしたが関ケ原の戦いに敗れ、三成は近江国の伊香郡古橋で捕縛され、京都は六条河原で処刑された。
  • 松永久秀(1510年~1577年)戦国時代・安土桃山時代の武将。弾正忠。山城守。出身地につては阿波、山城、摂津など諸説がある。三好長慶の家臣で、はじめ摂津滝山城(神戸市)の城主として、摂津西半国から播磨東端で活動する。1559年(永禄2)には大和信貴山城に入り、大和国を勢力下に入れた。1560年には多聞山城を築城。長慶没後は三好三人衆と協力して、1565年に将軍足利義輝を暗殺。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。やがて三人衆との戦闘で奈良東大寺の大仏殿を焼失させた。1568年の織田信長上洛にあたっていつ早く信長方に帰参し、大和支配を認められた。1571年(天正5)再び信長に背いたが赦免され、1577年(天正5)再び信長に反旗を翻して信貴山城の籠城するものの敗北。10月10日、名器茶釜「平蜘蛛」ともに焼死した。
  • 今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。
  • 上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。
  • 大友宗麟(義鎮)(1530年~1587年)豊後国の戦国大名。1550年(天文19)家督を継ぐ。翌年日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコザヴィエルが豊後を訪れたことからキリスト教に好意を示し、以後キリスト教布教を保護。1559年(永禄2)九州6か国((豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職を手中に収め、九州探題になり大友氏全盛期を迎える。その後府内(臼杵)に移り、府内に長子義統を置いた。1562年剃髪して宗麟と号し、1578年(天正6年)受洗、洗礼後フランシスコ。同年薩摩島津氏と日向耳川で合戦し、大敗した。敗戦と義鎮の受洗により家族と家臣団の間反目が生じ、キリシタン派と反キリシタン派が抗争し、大友氏衰退の分水嶺となった。1582年有馬。大村両氏とともにローマに天正遺欧少年使節を送った。これはイエズス会巡察師ヴァリニャーノの発案によるものと言われる。1586年島津勢が豊後に侵入すると自ら大坂城に赴き、豊臣秀吉の九州平定を招いた。島津を降伏させた秀吉は、義鎮の嫡男義統に豊後を、義鎮に日向を受封を辞退、同年5月、津久見で病死した
  • 加藤清正(1562年~1611年)安土桃山時代から江戸時代前期の武将。肥後国熊本城主。尾張国愛智群中村の出身。賤ヶ岳七本槍の一人。加藤清忠の次男。幼名は夜叉丸、元服して虎之助清正。豊臣秀吉と同郷で、秀吉との姻戚により幼少から秀吉に仕官した。特に賤ヶ岳の戦いの功績により3000石の武将と成る。のちの従5位下主計頭に叙任され、秀吉の兵糧方兼蔵入地代官をも兼任し、経理に明るい面も有した。のちの肥後領主となってルソン貿易を計画。1588年(天正16年)肥後半国19万5000石の大名に任命され、秀吉の大陸侵略に(唐入り)の先兵的役割を担い、戦役(文禄・慶長の役)には2番手1万人の軍勢で出兵。朝鮮人民から鬼将軍と言われた。講和の際の領土拡張を主張し、石田・小西らの和平講和派と対立した。帰国後蟄居を命じられた。このことが関ヶ原の戦いで徳川家康、東軍に参戦する原因となった。関ヶ原の軍功により肥後52万石の大大名に任じられと、熊本城と城下町の形成を図った。大河川の菊池川・白川・緑川等の流域変更とと土木工事着手し、、後の熊本平野・小田・牟田新地等の新田造成に着手し、実高74万国の領知となる。16611年(慶長16年)豊臣秀頼の二条城会見に随伴して家康との会見に成功させたが、途中、船中で病に倒れ、同年死亡した、同年死亡した遺骸は熊本本妙寺に葬られた。
  • 大内義弘(1356年~1399年)南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。
  • 真田幸村(1567年~1615年)安土時代から江戸初期の武将。真田昌幸の次男。幼名御弁丸、後に源次郎。左衛門佐を名乗る。名は信繁、後年幸村の名で知られる。1587年(天正15年)父昌行が豊臣秀吉に属するに及んで幸村も出仕し、秀吉の配下の大谷吉継の娘を妻として豊臣家と縁故を深めた。1600年(慶長5年)上杉討伐のために会津に向かった徳川軍に父や兄に従ったが、途中石田三成の挙兵を知って父とともに引き返し、上田城に籠って反徳川の旗を挙げ、徳川秀忠の率いる大軍を引き付けて関ヶ原の戦いに参加させず、三成方(西軍)を助けた。西軍の敗北により命が危うくなったが、妻が本多忠勝の娘だったために東軍に味方した兄信之の戦功に免じて死は逃れ、父とともに高野山麓の九度山村に蟄居させられた。1614年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、最も危険な城南天王寺口に出城を築いて徳川方をしばしば悩ませたが、幸村らの主戦論を押し切って淀君らによっり不利な条件の講和を結ばれた(大阪冬の陣)。翌年の夏の陣では幸村は道明寺、天王寺と転戦、一時は徳川本陣にまで迫って家康本人に狼狽させたが、越前松平忠直の家臣西尾仁左衛門の槍に討たれて戦死した。
  • 「三好長慶」(1523年~1564年、戦国の武将、父は三好元長。1523年(天文元)主人の細川晴元と対立した父は一向一揆に包囲され堺で敗死したが、長慶は1534年晴元と和して被官となり摂津国越水城に拠って反晴元勢力と戦った。その後、叔父政長との対立を機に晴元と決裂、1549年敗れた晴元が将軍足利義輝と京都を脱出する細川氏綱を擁し上洛、事実上京都を支配した。1552年近江国の守護六角義賢の斡旋により和議がなり、義輝は帰京したが、翌年和議を破って挙兵した義輝を追放、摂津国芥川城に本拠を移した三好政権の絶頂期を迎えた。長慶は管領・管領代制というとうじの室町幕府の支配体制を否定し、自ら裁可を行った。しかし、1558年(永禄元)義輝を再び帰京させるをえず、弟十河一存(?1561)の病死、三好義賢(1526年~1562年)の戦士が相次ぎ、家臣勝永久秀が台頭し、嫡子義興も不慮の死を遂げる中、失意のうちに河内国飯森山で病死した。
  • 「足利義昭」(1537年~1597年)室町幕府の代5代将軍。1568年(永禄11)~1573年(天正元)在職。12代将軍義晴の次男で13代将軍義輝の弟。はじめ興福寺一条院門跡となり覚慶と称した。1565年(永禄8)三好三人衆らに兄を暗殺され自らも幽閉されたが、脱出して幕府再興のために還俗し義昭を名乗った。織田信長の支援を得て1568年9月入京。10月将軍に就任すると、奉公衆や畿内の国衆を配下に置き、大名間の和平調停を行うなど、独自の政治立場を強化を目指し、信長と対立した。本願寺・武田・朝倉・浅井氏らに糾合し反信長包囲網を形成、1573年挙兵したが敗れ、毛利氏を頼って備後国鞆に移る。ここで毛利・本願寺・上杉氏らに働きかけ、なおも信長討伐・幕府再興を図った。本能寺の変を経て毛利氏が羽柴秀吉と講和すると、1588年に帰京して出家、昌山道休と称した。同時に将軍の位を去り、秀吉恩情から1万石を与えられ余生を送る、また聚楽第行幸に参加、朝鮮侵略の際も名護屋まで従軍している。
  • 毛利元就(1497~1571)中国地方の戦国大名。毛利弘元の次男。兄沖本は十嫡子幸松丸が相次いで早世したために、重臣の合意により1523年(大永3)27歳で家督を継いだ。当時の毛利は出雲尼子氏と周防大内氏の一国人領主に過ぎず、家臣団も庶家や中小領主の一揆結合的性格を強く残し、毛利氏は秩序紊乱者への制裁を委任されてた立場だった。元就は尼子方の高橋氏を滅ぼし遺領を獲得、熊谷・宍戸氏ら有力国衆と同盟・婚姻関係を結び地位を強化、1541年(天文6)3万の大軍による尼子氏に吉田郡山城を包囲を大内氏も援軍も得て撃退したが、翌年の大内氏出雲遠征の失敗によりアマゴが勢力を盛り返した。元就は、妻妙玖の死後1546年に隠居し家督を嫡子隆元に譲るが、これを機に政治的手腕を発揮する。すでに1544年に三男隆景を竹原小早川氏の養子に入れ、この年次男春元の大朝新荘入部を実現、吉川興教父子の謀殺などの反対勢力を一掃した。家中においても、攘夷を軽んじて勝手な振舞があったとして重臣井上一族を誅殺、毛利家の公議として支配権を認めて裁判・軍事動員・行政命令に従うこと、家臣に制約させた。それに基ずき奉行人制や軍法書などが整備され、毛利氏権力は飛躍的強化された。1551年陶晴賢がクーデターで大内氏を倒すと、芸備の国衆は毛利に統率化に独立の動きを強め、陶氏との対決を余儀なくされた。1555年(弘治元)厳島の戦いに奇襲に勝利を収めた。土一揆などの抵抗勢力を排し、大友氏と大内氏領の分割を訳して1557年周防・長門を征服、石見の大内方国衆も服属させた。広大化した領国の統治と拡大のために山陰地方を元春、山陰地方を隆景が担当し当主隆元は補佐する毛利両川体制を形成し、1563年(永禄6)隆元が急死し、孫の輝元を後見し譜代重臣の福原貞俊・口羽通良にこれを補佐させた。北九州・山陰のに正面での戦いを、将軍足利義輝の調停の工作を利用して切り抜け、1566年に尼子を降伏させた。以降大友氏と本格的対峙するが、尼子勝久の出雲進出、大内輝弘の周防上陸、備前、浦上氏の備中進入、能島村上氏の離反など後方かく乱に追われる中安芸郡山城で病死した。
  • 黒田孝高(1546年~1604年)安土桃山時代の武将、大名。幼名万吉、通称官兵衛、勘解由。官兵衛自身キリシタン洗礼名ドン・シメオン。父は美濃守職隆、母は明石氏の娘。小寺政職。赤松氏一族で播磨国御着城主の端城姫路城を預かる。父の跡を継ぎ天正の初年頃から織田信長に接近し、1577年(天正5)羽柴秀吉の播磨入国では進んで姫路城に迎え、中国攻略に従った。1578年信長に離反した摂津有岡城主の荒木村重を説得に赴いたが、逆に監禁されて、1579年11月に落城の際に救助された。その後も秀吉に従軍し、1586年には九州攻略の先手を命じられて、毛利氏とともに九州入りをした。翌年秀吉が九州に入ると、羽柴秀長とともに豊前・日向方面を攻め、その戦功豊前国京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐郡内12万石の領知を得た。1589年家督を嫡子長政に譲った。1950年小田原攻めでは、北条氏政・氏直父子に和議の使者として派遣され、開城の際は城請取の役を務めた。北条氏直は和議成立の礼として孝高に室町中期の写本になる貴書「吾妻鏡」を贈り、孝高の死後には長政は遺物として将軍徳川秀忠に献じた。1592年(文禄元)朝鮮出兵に参陣し、8月に漢城に赴いたが、翌年秀吉の不興を買い長政に遺言6か条を残した。慶長の役にも出陣したが、1598年(慶長2)秀吉の死により帰国した。1600年関ケ原の戦いのおり大友義統を石垣原の合戦で破り、安岐城・小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定した。関ヶ原の戦功で長政が筑前一国に移されると、孝高も福岡に移った。山城国伏見で病没。墓は福岡の崇福寺にある。
  • 伊達政宗(1567~1636)戦国・近世初期の武将。出羽国米沢城主、陸奥国岩出山城主を経て仙台城主。伊達輝宗(1544~1585)の長男として米沢城に生まれる。母は山形城主最上義守の娘義姫。1584年(天正12年)10月、家督を相続。政宗は幼い時、疱瘡を病み右眼を失明。のちに唐書に言われる片目の英雄である独眼竜といわれた。南奥州の征服者を目指し1589年磐梯山のふもと摺上原に蘆名義弘の軍を破り、白川氏・石川氏などを服属させ、居城を会津の黒川城に進めた。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で旧蘆名領は没収され米沢に戻った。さらに1591年旧葛西・大崎領12郡を与えられた代わりに本領6郡が没収され、米沢から陸奥国玉造郡岩出山に移された。その後、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いに際し本領回復の判物を与えられたが、回復したのは苅田郡2万石の三であった。陸奥領60万国に近江領・常陸領を加えて1634年(寛永11年)仙台藩62万国が確定した。
  • 北条早雲は室町から戦国時代の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の名字は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵瑞の庵号、入道ののちは早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名は長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自は備中伊勢氏設、京都伊勢氏、伊勢国出身説などがあるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(現岡山県井原市)を所領した備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の貞国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったという。上洛して足利義視に仕え、伊勢を経て駿河今川の下に下向し、1476年(文明8)義忠没後の今川家の家督争いに姉北川殿、義忠嫡子今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功した。その任を果たして上洛し、1483年から1487年(長享元)将軍義尚の申次衆を務め、この間建仁寺、大徳寺の門をたたいている。1487年範満を討って氏親の家督継承を成功させ、その功により富士下方12郷を与えらえた。興国寺城主となった。1493年(明応2)伊豆に乱入したが、これは細川政元が将軍義稙を廃し、堀越公方足利政和の次男義高を擁立するクーデターと連動して行われたと考えられる。早雲は追放した足利茶々丸は、義高にとって母円満院の弟であった。その後も早雲と伊豆奪回に戦い続けて堀越公方の足利氏は滅亡した。早雲は大森氏による小田原城を攻略し、相模に進出し、両上杉家を巧みに利用し三浦氏を敗走させ岡崎城、住吉常攻めて鎌倉に入った。その後、玉縄城を築き領土を拡大し三浦親子を打ちのめして滅亡させた。相模全土を手中に収め1518年家督を嫡男氏綱に譲り、翌年8月15日韮山で没す。」
  • 室町幕府3代将軍。1368年(応安元)~1394年(応永元)在職。2代将軍足利義詮の子。母は、石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。政所執事伊勢貞継邸で誕生。1361年(康安元)12月、南軍の入京により、赤松則祐に助けられて播磨白旗城に逃れた。1367年(貞治6)12月、義詮の死によって家督を継ぎ、よく368年(応安元)4月、元服、12月に征夷大将軍に補任された。細川頼之が補佐役になって幕政政治を指導した。1378年(永和3)3月、北小路室町光明院御所跡に造営していた新邸(室町殿)が完成した。義満は二条良基・西園寺実俊らを招いて竣工の祝いの宴を開いた。新邸の庭には鴨川の水を引き入れて池を作り、近衛家庭前の糸桜をはじめ諸家愛蔵の由緒ある花木が植えられたので、世人はこの邸を花亭とか花御所などと呼んだ。室町幕府の名も、この室町殿に由来している。1379年(康暦元)南軍の軍事行動鎮圧するために、大和に出陣中の土岐頼康、斯波義将ら有力守護菅で、幕政を壟断する管領細川頼之排斥運動が顕在化した。同年4月、反頼之派の有力守護達は花の御所を包囲し義満に頼之に罷免を迫った。義満は彼らの要求を受け入れて罷免した。この事件には義満の頼之の軌範を脱却しよう義満の思惑も多分絡んでいたのであろう。義満は斯波義将を管領に任じ、春屋妙葩を南禅寺の侍従とした。大きな課題は南北統一の名目のもとに南朝政権を完全に解体することであった。大内義弘らの仲介で南北朝合一を実現した。1394年(応永元)12月17日この義持に将軍職譲り、同月に太政大臣に叙任された。1399年10月に大内義弘が挙兵した(応仁の乱)この乱が義満が西園寺家から譲り受けた北山山荘でその造営にあたって義弘が土木事業の役を拒んだことにあったといわれる。対立は貿易で巨額な利益を経済力に「日本の国王」への道を歩み始めた大内氏が許せなかった。朝廷からも将軍と認めらえ絶頂期、北山第に碁小松天皇を招いて連日のように宴を開いていた日々を過ごす義満は突如急死し、足利幕府内は後継者も決まらないまま混乱をした。に
  • 平安後期の武将。源義家は河内源氏。父は源頼義、母は平直方の女。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。1051年(永承6)に始まった「前九年の役」に父に従って参戦、1062年(康平5)同乱平定の功により出羽守となる。1070年(延久2)に陸奥で藤原基通を、1079年(承暦3)には美濃で源重宗を追討、また京都でも悪僧の防禦・追補にあたる。1083年(永保3)陸奥守に就任、豪族清原氏内紛である「後三年の役」に介入。義家の調停に反抗した清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令を無視し、砂金等官物の納入も怠ったため、合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以降、摂関家に近侍した弟義綱と対立、1091年(寛治5)には義綱との合戦を企て朝廷から処罰される。1098年(聖徳2)白河院の昇段を許され1104年(長治元)延暦寺の悪僧の追補に活躍。反面、1101年(康和3)に嫡男、源義親が九州で乱行したほか、一族に不祥事が相次ぎ最中に死去。義家は武家棟梁として大きく評価されるが、彼の武力には畿内周辺を基盤とする軍事貴族層が目立ち、諸国の武士の統率者という理解には疑問がある。また後三年役後の不遇も一族の不祥事、内紛によるもので、公家による抑圧とは考え難い。
  • 鎌倉幕府初代の執権。執権。1203年(県人)~1205年(減給)2年の在職。父は北条時家または北条時方ともいわれる。母は伊豆掾伴為房の女。北条四郎と称す。1160年(永禄元)伊豆に配流され源頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられた。1170年(嘉応2)伊豆大島の源為朝の征伐に参加し、女の政子が頼朝と結婚したのち頼朝の挙兵計画に参画。1180年(治承4)8月の山本兼隆の攻めを指揮し、石橋山での敗戦後、頼朝より1日早く安房へ渡海。同9月、頼朝の使者として甲斐武田党の下に潜航する。同10月、甲信の軍勢ととに駿河国黄瀬川で頼朝軍と合流、以降、頼朝の近侍する。1185年(文治元)11月、源義経追討のために上洛して京都守護となり、後白河法皇と折衝して、守護・地頭設置の勅許を獲得、7か国地頭職を拝領するが、日ならずして辞退した。その後、伊豆・駿河守護となる。1189年の奥州合戦に際して戦勝祈願のために伊豆国北条に願成就院を建立。1190年(正治元)4月2代将軍源頼家の親裁を止めて大江広元ら十三人宿老会議にを結成する。翌年4月、従五位下、遠江守。1203年(建仁3)9月比企能員を滅ぼし頼家を伊豆に配流、源実朝を将軍に擁立して政所別当に就任し幕政の実権を掌握する。1205年(元久2)先妻(伊東祐親の妹)の娘婿畠山重忠を殺害し、後妻牧の方の女婿を平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたが、先妻の子政子・義時姉妹に阻まれて、出家して伊豆に隠遁建保年正月6日、腫れ物により伊豆北条で死去した。
  • 南北朝時代の武将、室町幕府初代将軍。1338年~1358年在職。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。六波羅探北方探題赤橋久時の女登子と結婚。1331年(元弘元)8月、後醍醐天皇が笠置で挙兵したとき、北条高時の命令によって。大仏貞直ととに幕府軍を率いて上洛「元弘の変」を平定ご、鎌倉に帰った。高氏は、父貞氏の葬儀も済まないままに高時から強引な出兵命令を受けたことに深く怒り、北条氏打倒を決意を固めたという言われている。1333年2月、天皇が隠岐を脱出して船上山にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河で一門の長老吉良貞義に北条討伐の決意打ち明け、近江の鏡宿で討幕の綸旨を受けて、伯耆への行軍を偽装しつつ丹波に至り、4月、篠村八幡宮の社殿で源氏再興の旗を上げた。5月、高氏は、赤松則村、千種忠顕らと京都に侵攻して六波羅探題を滅ぼし、奉行所を置いて、全国各地から上洛する武将たちを傘下に加えた。この間、関東では新田義貞が上野で挙兵し、激戦の内に鎌倉幕府を滅亡させた。この時高氏は嫡子千寿王が討幕軍に加わった。6月、天皇は帰京後直ちに高氏に昇段を許して鎮守府将軍とし、討幕戦に高氏の戦功を賞揚して自ら諱の一字を与えた。尊氏は、武蔵国など3か国の国務と守護職、さらに豊前国門司関をなど北条氏の遺領30か所に及ぶ所領を与えた。しかしながら尊氏は征夷大将軍に任命されなかったことに不満として、その後建武政権のいかなる機関にも参加せず奉行所を強化し、これを見た後醍醐天皇の子護良親王は逆進有りと称するほどであった。このため、尊氏は親王と対立し、1334年(建武元年)11月には、後醍醐天皇に親王の逮捕を強要し、親王の身柄を鎌倉の弟足利直義のもとに送り、ついに幽閉した。1335年6月北条時行が信濃に挙兵して鎌倉に侵攻するや、尊氏はそれを鎮圧するために東下したが、この時も征夷代将軍の称を許されなかった。8月には、時行軍を撃破し鎌倉を奪回したものの、直義の諫言を受け入れて帰洛せず、11月、逆に直義の名のもって、新田義貞誅伐の檄文を諸国に送って軍勢を催促を行った。義貞誅伐を名目に、建武政権への反意を表明した。その後二転三転し尊氏は九州に落ち延びて再び上洛し足利幕府の創設者となり、南北朝時代に移っていき、時代の左右する当事者として足利幕府の初代将軍となる。
  • 「源義仲」(木曽義仲)(1154~1184)平安後期の武将。木曽義仲とも呼ぶ。父は源義賢(?~155)母は遊女という。通称木曾冠者。1155年(久寿2)父義賢が甥の義平に武蔵国大倉館で討たれたため、2歳の義仲は乳母の夫中原兼遠に抱かれて信濃国木曽に逃れ、その庇護に下に成人。した1180年(治承4年)以仁王の令旨に呼称して挙兵、父の故地上野国に侵入するが、既に源頼朝の勢力を関東を制しているのを知って信濃に退く。義仲は奥州藤原秀衡と連絡しながら、翌年8月に平氏方の越後守城長茂を信濃国横田河原に破り、同年9月には越中国水津に平通盛軍を撃退して北陸道を掌握する。1183年(寿永2)10万にも及ぶ平氏の追討軍に対処するために、嫡子源義高(1173~1184)を頼朝の元に人質として送り、対立していた頼朝と和睦を結ぶ。同年5月越中国倶利伽羅峠の戦い、加賀国篠原の合戦で平氏を打ち破り、7月には延暦寺大衆と連携に成功し、兵士を都落ちをさせる。叔父行家とともに入洛した義仲は、平氏追討・洛中警固の院宣を得る。しかし、義仲軍は畿内での乱行をめぐって後白河法皇との溝が深まり、義仲が、水島・室山に平氏を討ちに出ているすきを見て、11月に院近臣が反義仲の兵を挙げる。義仲は急遽帰洛してこれを鎮定、法王を五条内裏に幽閉し、摂政藤原基通以下の解官、藤原師家を摂政・氏長者につけ、自らは院御厩別当となった、この戦いでの頼みの延暦寺大衆も敵に回した木曽義仲は一層孤立したたため、平氏との和睦を模索したが失敗、翌1184年(元暦元)正月、征夷代将軍に任じられた直後、頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れ、近江国粟津で打ち取られた。
  • 応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。
  • 室町時代から戦国時代の武家。越前国丹生郡織田荘を発祥の地とする。「織田系図」などによると平重盛の孫親真を祖として、織田荘の剣神社の神官を継いで織田氏を称したとされる。しかし、平姓としたのは源平交替思想によるもので、本来は藤原姓である。小田氏は越前守護斯波氏に仕えるが、斯波義重が尾張守護を兼務すると尾張守護代になり、応永年間(1394~1428)に織田守護代となって尾張に赴いた。その後、斯波氏2派に分かれて戦うと織田氏も清州により、愛知・知多・海東・海西の尾張下4郡を領した織田敏定に始まる岩倉織田家に分かれて抗争をした。両織田家の抗争を自ら勢力を衰えさせた。このなかで清州織田家の三奉行の一人であった織田信秀が台頭して主家を凌ぐ勢いになった。その子織田信長は尾張を平定し、さらに諸国を平定し、さらに全国を統一し事業を進めるが天正10年(1582年)に本能寺の変で嫡子信忠とともに殺された。さらに信忠の子秀信が関ヶ原の戦いに西軍に属したために織田宗家は滅亡した。江戸時代には信長の次男信雄と弟の長益の子孫が大名として続いた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    1、「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受けたものが少なくない。近代に入っても義民顕彰活動は展開され、特に自由民権運動には各地で活発に行われた。
  • 近世大名。清和源氏頼光流土岐光時が尾張国丹羽郡浅野村に住して浅野氏を称し、そのご裔長勝に起こる。長勝の婿養子浅野長吉(浅野長政)が秀吉と相婿であるため、豊臣政権で重んじられて五奉行の首座に列した。天正15年(1587)九州平定の功により若狭一国小浜城主となり、文禄2年(1593)文禄の役の功により甲斐国一国22万石余を領した。慶長5年(1600)幸長は関ヶ原の戦で東軍の先鋒として功を立て、紀伊国37万石余、和歌山城主となった。元和5年(1619)長晟は大坂の陣の功により安芸・備後42万石6500石に加増されて広島城に移った。光晟は徳川家康の外孫として松平姓および将軍偏諱を受け、以降浅野長勲の代に及び、籍奉還後、侯爵に列し東京に移った。分家には寛永9年(1632)光晟の庶兄長治が備後国三次5万石に分和、享保5年(1730)長宴に継子がなく封知宗家に戻した。1730年、吉長の弟長賢に蔵米3万石を分けて内証分家とし、江戸隠田青山に居館を安芸国に移すが。正保2年(1645)長直のとき播磨国赤穂城に移り、元録14年(1701)浅野長矩が江戸城中で吉良義央を傷つけて切腹、家は断絶した。

・キャンペーンの内容や期間は予告なく変更する場合があります。
・コインUP表示がある場合、ご購入時に付与されるキャンペーン分のコインは期間限定コインです。詳しくはこちら
・決済時に商品の合計税抜金額に対して課税するため、作品詳細ページの表示価格と差が生じる場合がございます。

ページ先頭へ

本を予約しました

※予約の確認・解除はこちらから

予約済み書籍

キャンセル及び解除等

発売日前日以降のキャンセル・返品等はできません。
予約の確認・解除、お支払いモード、その他注意事項は予約済み書籍一覧をご確認ください。